偽善者がうざいと感じる心理の正体について

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自己犠牲の精神で誰かを助けたり、ボランティアその社会的な奉仕活動に勤しんでいるのにもかかわらず、どこか利己的な感情が隠しきれなかったり、自分をよく見せるためだけのイメージ戦略としてボランティア活動に勤しんでいる…

すなわち、偽善者や偽善と思われるような行動をしている人に対して、どことなく怪しい、うざい、胡散臭いと言うような感情を抱いてしまうことがあるものです。

表面的には確かに良い行いをしているのには変わりない。でも、その行いの目的が、自分の評判や利益のみから来るものであったり、よくよく観察していくとただのありがた迷惑になっている、善意の押し付けになっていると言う場合において、私たちは違和感を覚えるものです。

なお、こうして書くとひねくれているとか、素直さが足りないとか「やらない善よりやる偽善の方がよっぽどいい」と言われてしまうと思います。

一般的に、人の善意からくる行動に対してひょっとしたら偽善かもしれないとうがった目で見ることはあまり良いことだとされていない風潮があります。

しかし、善意の行動だからこそ、その裏にある思惑や心理についてよく知っておくことや観察を重ねる事は、自分自身が偽善者になったり、偽善に走ることになる承認欲求や虚栄心、コンプレックスなどを克服するためにも大事だと感じます。

今回は、そんな偽善に関する心理について、お話したいと思います。

偽善者に覚えるうざさ・違和感の正体

困っている人を助けている自分に陶酔している

偽善者に感じる違和感の1つとして、困っている人を助けると言う行動そのものに陶酔している、すなわち良い事をしている自分に酔っていると言うものがあります。

これは、さながら自分が困っているものを助ける正義正義そのものであるかのように振る舞いや、アピールから何となく違和感を覚える人が多いことでしょう。

もちろん、困っている人を助けることそのものは素晴らしいことでありますが、陶酔しているあまりにナルシストのような鼻につく態度や「こんなに頑張っている自分を尊敬しない方がおかしい」と言うような上から目線の態度が偽善者に感じるうざさの原因だと感じます。

困っている人を利用して自分をよく見せるという点

偽善者には、困っている人を自分をよく見せるための材料のように扱っていることがあげられます。

普通に自分1人で「自分は優しい人ですよ、慈悲深い人ですよ」アピールしても、説得力に欠けるものです。

そのため、説得力をつける方法として困っている人を実際に人助けをすることで、優しさや慈悲深さと言った自分の魅力をより効果的にアピールすることができます。

しかし、ここで注意しておきたいのは困っている人を助ける場面において、偽善者となる人はあくまでも困ってると人を1人の人間として見ているのではなく、自分をよく見せるためだけの材料として見ていると言う点です。

こうなると、善い行いは材料(困っている人)を用いたアリバイ作りでしかなく、後述するような厚かましさ、押し付けがましさと言った自分本位でわがままな善意の押し売りになりがちです。

確かに表面的に見れば良いことをしているのに、結果として偽善と受け取られてしまうありがた迷惑で残念な結果になることが多いのです。

助ける人に対する厚かましさ、恩着せがましさ

良い行いをすれば確かに気分は良くなるものですが、気分が増長しすぎた結果

  • 私に感謝しなさいよ
  • 私が助けてやったんだからな

と言うような厚かましい気持ちが、態度や行動に出てしまうことがあるものです。

このような厚かましい態度が出てしまうと、いくら良い行いをしたとしても、それは「ただ自分が気持ちよくなりたいだけの自己満足なんだ」と言うようながっかりとした気分になってしまう人が多いものです。

もちろん、良い行いをしていい気分に浸りたいと言う気持ち自体は否定しませんが、「いい気分に浸りたい」と言う思いを言葉や態度で表明すれば、それに対して失望や落胆といった声が出てくるのは避けられないことだと肝に銘じておくことが大事だと思います。

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困っている人を利用し承認欲求を満たそうとしている点

特に、承認欲求が強く人から認められたいと言う人ほど、自分がどれだけ周りに尽くしたとかボランティアに打ち込んだなどの経歴をアピールして周囲からの尊敬や同意を求めるものですが、その露骨なアピールこそ偽善と思われてしまう根源です。

もちろん、結果として困っている人の役にたっているのなら、承認欲求を満たす事は成功と言えますが、常に承認欲求を満たすために困っている人を探し続けるのはそう簡単なことではないと感じます。

というのも、困っている人を助けて悩みを解決したら、当然ながらその関係はそこまで途切れれることが多いからです。

例えば、医者が困っている人(患者)を助けたことで無事完治した場合、とくに困ったところがなければ元患者は医者のもとを訪れなくなるのと同じで、誰かを助けることで承認欲求を満たし続けるためには常に困っている人を求め続けなければいけません。

また、もしもその気になれば困っている人を生かさず殺さずの状態にしておくことで、自分の元から離れないようにする、というようなメサイアコンプレックスにも見られる共依存の関係を生み出すことも否定できません。

すぐに感謝されるようなことだけ率先してやろうとする点

偽善者だと思われてしまう行動の1つだとして、とにかくわかりやすい善行や効率的に自分をよく見せることができる活動にのみ率先してやろうとしているということがあります。

例えば、人を助けるにしても普通に男性を助けるよりも、

  • 女性や子供
  • 障害者
  • 海外の恵まれない子供たち

と言った社会的な立場が弱い人や「偉い!」と言ってもらいやすい人達を助けた方が話題を呼びやすく周囲から評判を手に入りやすいものです。

もちろん、善行そのものに優劣をつけること自体かなり乱暴な考え方だと思います。しかし、世間を見渡してみると、やはり評判になりやすい善行となりにくい善行があり、自分の評価や体裁を気にしている人こそ、手っ取り早く評価をやるために感謝されやすい相手を選んで助けようとする…そんな下心が偽善者に感じる違和感やうざさとさの正体だと感じます。

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良い事をしている人ほど、良い行動を正当化しすぎ暴走してしまう

これは偽善者を含む言われる良いことをしている人に共通している事なのですが、良いことをしている人ほど自分の行動が正しいと信じて疑わなかったり、自己正当化してしまい行動がエスカレートしてしまうことがあります。

これは、良いこととは

  • 社会的に認められていること
  • 絶対的な正義であり批判される余地がないこと
  • 正しいことなので積極的にやるべきである。

と言うような、自分自身の行動や考えをより強固なものにさせてしまい、結果として困っている人の主張や考えを無視したありがた迷惑に陥っても、反省できなくなってしまうことにつながる恐れがあります。

特に日本の場合だと、ボランティア活動や自己犠牲による行動そのものが議論を重ねられず、見習うべき美談として語られ持ち上げらてしまうことが多いことも影響していると思います。

そのため、

  • 「自分がやっている良い行いが、その場しのぎではなく本当に相手のためになっている良い行いなのか?」
  • 「善行だと信じて正しいことをすれば、本当に自分も相手も幸せになれるのだろうか?」

という疑問を持つことすら、野暮で空気の読めない行動であると感じて、疑問を感じていても口に出しにくいように感じます。

また、善い行い自体に、言葉ではうまく説明できないブランドのようなもの。すなわち権威を感じて、権威にひれ伏してしまうことも影響しているように感じます(=権威主義的パーソナリティ)

なお、心理学では、集団心理(群衆心理)集団極化傍観者効果のように、人が集団になることで起きる考えや行動の暴走、そして自分が行っている行動に対する責任感の低下が、 偽善的な行いを助長させているように感じることもあります。

特に集団で良いことをするとなると、どうしても集団の雰囲気や空気には逆らうことができないものですし、良いことを知っていると言う大義名分を得ることで、集団が行っている行動に対して疑念や疑問を抱きにくくなってしまう現象は、ボランティアなどの良い行いをする上では向き合っていくべき問題だと感じています。

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「やらない善よりやる偽善」について感じること

偽善について語るときによく聞くのが「やらない善よりやる偽善」と言う言葉です。この言葉の発祥は、匿名掲示板の2ちゃんねるや漫画「鋼の錬金術師」など諸説あります。

人の良い行いに対してただ文句を言っているだけの人と違うって、たとえ偽善であっても良い行いをする方が確かに救われる人や、幸せになれる人が出てくるのは事実だと思います。

しかし、「やらない善よりやる偽善」という言葉を盾にして、自分の邪な感情や下心からくる行動を自己正当化したり、自分の行っている行動を全然振り返ろうとしないのは別の話だと思います。

また、「やらない善よりやる偽善」を堂々と主張した上で行う善行を快く受け取ってくれるかどうかまでは自分の力ではコントロールできないことなのは言うまでもありません。

もちろん、うっすら偽善と自覚している行動だけに、やっぱり人の助けにならなかったり根本的な解決にはならずただ困っている人を振り回すだけの徒労に終わることも否めません。

困っている人を助けたい、誰かを助けることで役に立ちたいという気持ちを持つことそのものは素晴らしいと思いますが、しっかり助けるためにはただ闇雲に突っ走るだけではいけないと思います。

誰かを助けなければいけない場面そのものは、どうしても焦りとは切っては切れないものだと思いますが、だからこそ冷静になって自分の行動を振り返ってみたり、上からただものを与える・施すというような立場で接するのではなく、相手の立場に立って考えて見るなどの心がけを持つことも大事だと感じます。

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国立大教育学部卒、専攻は心理学。発達心理学、教育心理学、スポーツ心理学、社会心理学を中心に心理学に関する記事を執筆中。そのほかにも、人間関係やコミュニケーション、性格、スマホ、SNS、ゲームなどのあらゆるテーマを心理学の知識を用いて詳しく、面白い記事を書くことを心がけております。

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