大地震や台風などの自然災害が起きたときに、ネット上で賑やかな話題を投稿している人に対して「そんなことを投稿するのは不謹慎だ」と指摘して回る人たちがいるものです。
このように不謹慎だと主張して誰かの行動にケチをつけたり、晒しあげることで同じく不謹慎だと感じている人に知らせて一生に叩く人たちのことを、ネット上では不謹慎厨と呼びます。
た、不謹慎厨による「不謹慎だと言って待って誰かの言葉や行動にツッコミを入れることを不謹慎狩りと呼びます。
ここで言う「〇〇厨」とは、もともとはネットスラングで中学生のような単純で質の低い投稿する人たちのことを表す中坊の誤変換の厨房から来るもので、意味合いとしては厄介な人たち、面倒な連中と言う意味で使われています。
不謹慎厨と言う言葉が広く使われるようになったのは、2011年3月11日に起きた東日本大震災で起きた自粛ムードの頃であり、その後は熊本地震や先日起きた大阪での地震の時にも不謹慎厨の人が見られました。
今回はそんな不謹慎狩りをする人たちの心理や背景についてお話ししたいと思います。
目次
不謹慎狩りをする人の心理と背景
「みんな」が求める空気感を先読みしすぎてしまう
誰から言われたわけでもないのに、まるで自警団のように「不謹慎だ」と他人の行動にケチをつけてしまう人は、いわゆる「みんな」といった集団や社会が求める空気感を先読みしすぎてしまい、その空気に添えない人に対して攻撃的になるのです。
例えば災害が起きたときに、その様子がテレビやSNSなどで伝わってくると、人間はどうしても災害で苦しんでいる人がいるのに、自分だけ楽しい思いをしたり災害と関係なく平凡な生活を送っていることに対してどこか後ろめたさや罪悪感といった感情抱くものです。
不謹慎厨になる人は、災害の時にうっすらと感じている人々の後ろめたさに深く共感してしまい、私たちも被災者と同じく自分の贅沢で豊かな行動を自粛すべきであると感じるだけでなく、周囲の人も私と同じように自粛して被災者の気持ちに寄り添うべきだと感じて行動に移してしまうのです。
自分の友達が「空気が読めない人」だと思われることへの恐怖
不謹慎狩りが行われるのは、ほとんどはSNS内のインターネット上での人間関係内です。
SNSでは自分の近況報告や趣味遊びに関するつぶやきを投稿することができますが、一方で自分の投稿は直接面識のない不特定多数の人からも閲覧可能であり投稿を見たことで気分を害し、批判的な意見やネガティブなコメントが来て炎上騒動に発展することもあります。
また、SNSといってもいつでも自分の意見を自由に投稿できると言うものではなく、SNSでつながっている友達内における空気感が存在しており、その状況に応じた投稿や振る舞いがSNSでも求められるのです。
自然災害のように、多くの人が苦しい思いをする場面ではSNS上でも
- 「楽しい話題をつぶやくべきではない」
- 「楽しい話題をつぶやけば被災者に失礼だ」
と言う空気が生まれるだけでなく、その空気に沿った行いをすることこそ正しいに違いないと考える人が出てきます。
そんな中、SNSでつながっている友達が、災害とは全く関係ない話題を投稿したり、賑やかで楽しそうな写真を投稿したとなれば、投稿した友達だけが非難されるのではなく「空気の読めない人とつながっている自分も同じく空気が読めない人」と言うレッテルを貼られてしまう恐怖を感じることで、不謹慎狩りをしてしまいます。
集団の絆や和を重視しすぎて同調性を他人に求める
周囲に対して不謹慎だと指摘する人は、よくも悪くも集団の絆や話を重視しすぎるところがあります。
集団の和や絆を尊び友達と仲良くすることそのものは否定しません。しかし、集団の場や絆を重要視しすぎているあまりに、それがどんな時でも周囲と同調しなければいけないと言うような同調圧力となって、他人を攻撃したり、集団に所属する人たちがストレスを感じるのであれば、考え直す必要があると思います。
特に若い人の間ではSNSでは、「とにかく敵を作らず、周りから嫌われないことが大事」と考えていたり「(SNS内の)みんなや集団が求める理想像やキャラを演じなければいけない」と言う強迫観念感じている人もいます。
その結果として、災害時に限らず普段からSNSで周囲に対して同調を求め、同調ができない人に対しては攻撃的な態度をとってしまうのです。
うざいと感じる不謹慎狩りは正義感と自己正当化に原因がある
ネット上では、不謹慎狩りに対してめんどくささやウザさと言うような感情抱いている人が多くいます。
そのウザさの正体として考えられるのは、不謹慎厨が抱いている自己中心的で視野の狭い正義感、そしてその正義感から来る自分の行動を正当化する態度が挙げられます。
不謹慎厨は、「災害の時は自粛する空気を守るべきだし、そうすることこそ正しいことだ」と言うスタンスで、他人の投稿に対して指摘や晒しあげをしてきます。
しかし、当然ながら災害中だからといって、自分の趣味に関する話題や、災害と全く関係のない話題を投稿することに対して、然るべき理由(例えば嘘やデマを広めている、被災者を誹謗中傷している…など)が無ければ、わざわざ発言を指摘したり、指摘を受け取り下げる必要性はないはずです。
また、災害が起きたからといって全く無関係の人も一緒に自粛ムードに入って悲しまなければいけないと言うのも、一見すると被災者の気持ちに寄り添っているように見えますが、よく観察していけば
- 被災者の気持ちにより添える自分を演出したい
- 空気の読める素直で良い子と言う自分を演出したい
と言う被災者の心情や考えを無視し、自分勝手で偽善的な行動が言葉や態度から見て取れる、ということがあるものです。
もちろん、率直に「自分は災害が起きた時でも空気が読めるいい人です」とアピールするのは現実的には難しいものです。
そのため「不謹慎」と言う言葉を盾にし、自分の個人的な欲望を「被災者に寄り添える」と言う言葉で自己正当化している…これが、不謹慎厨に感じるうざさの原因だと感じています。
「どこからどこまで不謹慎なのか」というモノサシがないので、不謹慎狩りは暴走しやすい
もちろん、災害が起きた時に、デマの情報を流して現地の人々に余計な心配をかけてしまったり、被災者の感情を逆なでするような失礼な行動とってる人に対して「あなたのやっている行動は不謹慎だ」と感じたり表明する事はそのものは問題ないと思います。
過去には、熊本で地震が起きたときに「動物園からライオンが脱走した」と言う嘘の情報をSNSで流した事で、偽計業務妨害の疑いで神奈川県の男性が逮捕されたと言うニュースもありました。
しかし、不謹慎厨がうざいといわれる場面は、このようなしかるべき理由があってバッシングを受けるものではなく、
- ただみんなが求めてくる空気感に合わせるべき
- こんな時に贅沢や趣味を謳歌するなんて不適切だ
と言うような、非常に曖昧なモノサシで語られている。つまり、不明瞭な基準に基づいているものが大半です。
そんなアバウトな物差しに基づいているため、不謹慎狩りはエスカレートしやすくなります。そして、不謹慎狩りを恐れて「どんな些細な事ですら不謹慎だと見られてしまうかもしれない」と言う漠然とした不安を感じる人が出てきます。
その他のも「ささいなことで不謹慎だと受け取られてしまう恐れがあるのなら、いっそのこと何もしない方がいい」と感じて積極的に自粛に走ってしまう人が出てくるものです。
基準が不明瞭なので対処方も不明瞭になるのは一目瞭然。そのため、不謹慎と言われないために何もせず自粛するのが賢明と考え実行に移してしまう人が絶えないのです。
実際に繊細な人と鈍感な人とでは、物事の受け取り方や感じ方に対して大きな差が出てきてしまうことがあります。
しかし、差があるからといってどちらかが「劣っているor優れている」「正しいor間違い」と二元論的に白黒ハッキリと決めつけていては、ネット上でもリアルの人間関係でも衝突をする場面は出てくるものです。
ファンからアンチに豹変してしまう人のように、何でもかんでも二元論、二者択一で考える癖を持っている人は、不謹慎狩りだけでなく普段から両極端な考え方をすることで自分の周囲も面倒事に巻き込んでしまうのではないかと危惧しています。
不謹慎狩りと集団極化
不謹慎狩りは、場合によっては1個人が行うものではなく集団になって行われることもあります。
人間は集団になればなるほどより良いアイディアが出るように感じますが、実はそうではありません。
人間は集団になって考えることで意見が保守的・革新的の両極端に偏りやすくなってしまうことがある…これが心理学で言う集団極化と呼ばれる現象です。
集団極化には、リスキーシフトとコーシャスシフト2種類あります。
リスキーシフトはより危険性の高い方向に意見が偏ることを、コーシャスシフトはより保守的でリスクを排除した方向に意見が偏ることを指します。
不謹慎狩りの場合、「被災者が傷つかないため」「より大きな混乱を起こさないため」という目的から見れば、コーシャスシフトになっていると思われます。しかし、自粛ムードに沿わない人に対して攻撃的な態度をとったり、人に攻撃することに対して危機感や罪悪感を感じにくくなることから、リスキーシフトになることも考えられます。
また人間は集団になると、集団心理(群集心理)が働くことで、自分の行動に対する責任感が薄れてしまいつい普段ならできないような大胆な行動ができてしまっものです。
特に災害後と言うような非日常的な状況であれば、なおさら冷静さが失われ、普段なら取らないような行動をしてしまうのも無理は無いかと思いますが、非常時だからこそ冷静になる事はメンタル面でも大事なことだと感じています。