リアルの人間関係ではちゃんとコミュニケーションが取れるのに、ネットのチャットやSNS上だと、途端に無口になってしまう、会話ができなくなってしまうという、いわゆるネットコミュ障と呼ばれる人がいます。
今や若者の間ではスマホの所持率が90%を超えているという統計もあり、ネットを通じたコミュニケーションはごくごく当たり前のものとなっています。
そんなネット上でのやり取りが当たり前の現代だからこそ、ネット上でだけコミュ障になる人を見て「リアルで無理してみんなに合わせているだけで、実はコミュ障だったのでは…」と思うこともあるでしょう。
もちろん、本当に無理をしている場合もありますが、詳しく見ていけば、ネット特有のコミュニケーションの様式やルール、ノリなどについていけないために、ネット上では無口になっているという可能性も考えられます。
今回は、そんなネット上でコミュ障になる人についてお話しいたします。
ネットだけコミュ障になる理由
素性がよくわからない相手との会話が苦手
ネット上のコミュニケーションは匿名性というリアルと大きく異なる特徴があります。
相手の顔も声もわからない、どういう仕事をしているのか、趣味を持っているのか、交友関係を持っているのか…などの、相手の素性がわからなくてもコミュニケーションができるのが、ネット上での魅力であると同時に、コミュニケーションの取りづらさともなります。
もちろん、SNSによってはFacebookのように顔出し、実名制、所属や出身地を明記することで、匿名性を排除しているSNSもありますが、その情報が本当であるかどうか…つまり、アップされている顔写真や所属先が真実であるかどうかはわかりません。
話を盛って、嘘ではないにして真実ともかけ離れているプロフィールになっていたり、誰かの顔写真を勝手に借りてきて別の人物になりすましている可能性もありますし、場合によっては性別すらも入れ替えている(いわゆるネカマやネナベ)こともありえます。
そうした不確かさがあるために、ネット上でコミュニケーションを取ろうとしても、相手に対する安心感よりも不信感の方が優ってしまうので、リアルのようにうまく会話ができずコミュ障になってしまうのです。
もちろん、このことはリアルの世界で置き換えても同じです。いきなり会ったこともない人とと上手に話ができるかと言えれば、大抵の人はまずは何を話していいのかわからず言葉に詰まってしまうものです。
ましてやマスクやサングラスをしており相手の素性がまったくわからない場合だと、相手に対する不信感からうまく話しをしようという気持ちよりも「不審な人だから関わらない方が安全」という気持ちになり、コミュ二ケーションを避けてしまいます。
この場合のコミュ障は、不信感からコミュ障を起こすというよりは、相手に不審感を抱いた結果の防衛反応として捉えたほうが、ふさわしいかもしれません。
言葉のみのコミュニケーションが苦手
ネット上のコミュニケーションは、基本的に文字(場合によっては絵文字)をベースにして行われます。
リアルのコミュニケーションのような、声の大きさ&トーン、表情、態度、ボディタッチなどの、言葉以外のコミュニケーション(=ノンバーバルコミュニケーション)は、ネット上に持ち込みにくいため、それらを主体としてコミュニケーションを図るのが得意な人にとっては、ネット上では途端にコミュ障になってしまうのです。
加えて、自分の気持ちや伝えたいことを文字に起こして表現するのが苦手である。つまり、文章を考えたり、自分の今の気持ちをしっかり伝えるのにふさわしい言葉を選び取るのが苦手な人からすれば、ネットのように文字ベースの場ではコミュ障になってしまうのです。
タイピング、文字入力が苦手
コミュニケーション云々以前に、タイピングや文字入力をするのが苦手、面倒だと感じているために、ネット上ではコミュ障になってしまう…というよりは、コミュ障だと誤解されてしまうケースもあります。
喋ることでコミュニケーションをうまく取る習慣がついている人は、ポチポチ文字入力をして行うネット上での会話に対して「文字入力するぐらいなら、会って喋った方が早い!」とまどろっこしさを感じることもあります。
もちろん、スマホの音声入力によって、直接自分のしゃべった言葉を文字に書き起こすことが可能にはなっていますが、通話するわけでもないのにスマホに向かってボソボソ喋り続けることに恥ずかしさやためらいを感じていたり、話口調が独特すぎて音声入力ではうまくことが原因となって、文字入力の導入していないことも考えられます。
返事を出すタイミングをとるのが難しい
ネット上の会話では、自分が投げかけた言葉に対する相手の表情や反応がリアルタイムでわからない分、いつ返事を出せばいいのかわかりにくい…つまり、返事のタイミングが取りづらいのが欠点です。(※これは、相手の顔が見えない電話でのコミュニケーションも同様)
相手の反応がわからないために、返事を待たず一方的に会話を続けようものなら、長文コメントを送りつけているようで自分のイメージが悪くなってしまう。
逆に相手の返事を待とうとしたものの、待っても待っても返事が返ってこずやっぱり自分からもっと話をフリに行ったほうがよかったのかと自問自答して消耗する。
そして、相手も同じようにいつ返事をすればいいのかタイミングがわからず、お互いに黙り込んだまま時間だけが過ぎてしまう…という、相手の表情が見えないからこそ起きてしまう、空気の読み合いが起きることもあります。
- いつ返事を返せばいいのかわかりづら。
- 誰のペースで話をしているのかわかりづらい。
- 話を振られた(or振った)のかを文字だけの限られた情報から判断しなければいけない。
と言った、顔が見えず文字主体で進むコミュニケーションだから起きる空気の読み合いが、ネット上でのみコミュ障になる人を生む原因として考えられます。
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過度に気を使いすぎた結果、黙り込むことを選んだ
ネット上の会話は、鍵付きのアカウント(=鍵垢)や招待制で知っている人以外は入れないコミュニティでなければ、見ず知らずの不特定多数人から閲覧されてしまいます。
そのため、個人情報を特定できてしまうような情報(住んでいる場所、交友関係など)をアップすることに神経質になったり、自分が書き込みたい内容の中に自分だけでなく他人のプライバシーを侵害するものが含まれていないかチェックするなど、リアルで話す以上のめんどくささがあります。
また、SNSによっては言葉尻を捉えて、勝手な解釈をして難癖をつけてくる(いわゆるクソリプの類)アカウントであったり、勝手に言葉を引用&改変される(いわゆるパクツイの類)こともあり、自分が書き込む内容が自分の意図しない形で利用されてしまうことがあるものです。
もちろん、クソリプやパクツイが起きないように気を使っても、結局はクソリプやパクツイを行うアカウントの機嫌次第なので、大半は気を使うだけムダであり不毛です。
このようなめんどくささ、煩わしさに散々振り回された結果、何も投稿しないことを選ぶ。しかし、何も投稿しなくなるに至った背景を知らない人からは、その光景を見て「あの人はネット上ではコミュ障な人だ」と判断されてしまうのです。
ノリに合わないSNSの文化についていけない
一口にSNSと言っても、各SNSごとにノリや文化は異なるものです。
例えば、Facebookはやたらポジティブで誰かを明るくするような投稿をすることを求められたり、どちらかといえばフォーマルな内容を投稿する場であり、プライベートの話はあまりするべきではないという文化があります。
また、twitterは目まぐるしく移り変わるトレンドに乗った投稿をしたり、大喜利やネタに参加して笑いを提供すると言った、Facebookには見られない文化があるものです。
もちろん、各SNSの文化にすんなり馴染めたらいいのですが、中にはSNSの文化に馴染めず、かと言ってアカウントを消すわけにもいかず(Facebookは就活で必要な場合もある)、惰性でただログインし、ROM専のみのアカウントとして使い続けることもあります。
もちろん、SNSは単に交流の場ではなく、情報収集や緊急時の連絡手段として使うのでも問題ありませんが、周囲が皆リアルの延長線上の交流として使っているのに、自分だけ情報収集用として使ってしまうと「リアルでは話せるのにネット上では黙ってコミュ障みたいだね」と思われてしまうのです。
既に完成されたネット上の人間関係に入り込めない場合もある
ネット上の人間関係はいつでも誰でも気軽に入れるように見えるものの、実はすでにある程度人間関係が構築されており、新規の人やよそ者が入れないムラ社会と化していることもあります。
例えば、あるアイドルグループのファン同士があつまるネット上のコミュニティの中でも、更に小さな派閥があったり、コミュニティの和を保つための暗黙の了解があったりなど、新規でコミュニティに入るには、あまりに心理的なハードルが高すぎる。
まるで初心者NG、一見さんお断りとでも言っているかのようにに、やたら排他的で他を寄せ付けない、ある種の異質さ、異様さを感じさせるコミュニティとなっているために、入りたくても入れず外からぼんやり眺めている光景が、コミュ障だと思われてしまうこともあるものです。
ネットだけでコミュ障の人に対する早とちりと偏見
こうして見ると、コミュ障というのは単にコミュ障本人のみの問題ではなく、その人を取り巻く人間関係と言った社会や集団が影響していることも考えられます。
加えて、ネット上ならネット特有の文字主体のコミュニケーションと言った、コミュニケーションの仕組みやルールも、コミュ障を生む影響の一つだと考えられます
ネット上でコミュ障だからと言って「あの人は本当はコミュ障だったんだ…」と決めつけてしまうことは、ネット特有の文化やコミュニケーションの仕組み、そしてコミュ障とみなす人の周りにある人間関係を無視して、偏った目で見ているのと同じだと言えます。
誰かをコミュ障と決めて悦に浸ったり、自分がコミュ障と感じて落胆するよりもまず、コミュ障を取り巻く人間関係や環境について目を向けてみることが、コミュ障に対する偏見や思い込み、そして自分のコミュ力向上につながるのではないかと感じています。
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