コミュ障を自覚している人の中には、自分のプライドの高さが原因となって、人と対等な関係を築けなくなることがあります。
また、プライドの高さゆえに「自分はコミュ力堪能で完璧な存在である」と自分を過大評価するものの、実際は完璧とは程遠いコミュ障でしかなく、理想の自分像が所詮は理想でしかなかったという現実に直面したくないために、防衛反応として無口で孤高なキャラを演じてしまうこともあります。
加えて、プライドの高さが自分だけに向けられて入れればまだマシですが、場合によっては上手く会話ができない相手のことをやたらと見下したり、相手の方をコミュ障だと決めつけて責任転嫁することで顰蹙を買ってしまうこともあり、そうした態度こそがますます自分をコミュ障へと追い込む原因になります。
更に人によっては、コミュ力のある人を
- 浮気っぽい人
- チャラチャラしている
- ヘラヘラした人
…と、下に見るような発言をしつつ、寡黙で一匹狼な自分を肯定する。
つまり、他人をディスる事と合わせて自分を持ち上げることで、自分を肯定することがクセになり、コミュ障とプライドの高さがエスカレートしてしまうこともあるものです。
今回は、そんなプライドの高いコミュ障の特徴や心理についてお話いたします。
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目次
会話が苦手な原因を他人のせいにする
プライドの高さ故に「自分が他人と上手く会話ができないコミュ障である」という事実を認めたくない気持ちが強く感じています。
しかし、かと言って誰とも話をせずに学校や会社で社会生活を送ることは不可能であり、何かしらの形で他人とコミュニケーションをする場面は避けられません。
そんな場面にて、いやでも自分がコミュ障であることを自覚せざるを得ない状況になると「相手の方がコミュ障だから自分の方が気を使ってやったんだ」と、自分がコミュ障であることから目を背けつつ、そして自分の高すぎるプライドが崩れ去らなくても済むような解釈をして、その場を乗り越えるのです。
上手く会話ができないのは自分ではなく相手に全ての原因があるとして片付ける…単刀直入にいえば、責任転嫁をして「自分は悪くない、間違っていないんだ!」と思い込むことで、コミュ障という事実から目を背けようとするのです。
当然ながら、事実としっかり向き合っていないために、自分のコミュ障を根本的に直していくこともありませんし、ましてやコミュ障を改善するための努力をすることすらしないものです。
結果として、自分が抱えるコミュ障の問題点はそのまま放置され続けてしまい、いつまでたってもコミュニケーションが上達しないまま周囲から孤立する原因になります。
コミュ障のせいで孤立したことを都合よく自己正当化する
コミュ障とプライドの高さのせいで付き合うのが面倒な人だと、周囲の人が認知してしまうと、本格的に孤立してしまう…わかりやすくいえば「ぼっち」になってしまいます。
ぼっちとは、孤独の意味を持つ一人ぼっちのネットスラング。現在では、ネットの世界だけでなくリアルでも使われる若者の言葉の一種でもあります。
ぼっちという可愛らしい響きとは裏腹に、孤独であるというのはそれだけで
- コミュニケーションに難がある人
- 友達がいない人(場合によっては「できない」というニュアンスも含まれる)
- 一人ぼっちにならざるを得ないほどの、何か闇を抱えている人。
という、コミュ障を通り越して社会不適合者であることも匂わせるような負のイメージを持っています。
そのため、プライドの高い人にとっては、ぼっちという負のイメージをそのまま受け入れることに対して強い苦痛を感じます。
しかし、ぼっちが嫌だからと言ってすぐに友達をつくるにしても、その過程で自分のコミュ障っぷりを露呈してしまい、プライドが傷つく恐れがありますし、そもそもコミュ障は改善されず放置されたままなので、すぐに友達を作るというやり方はあまり現実的ではありません。
そのため、ぼっちに対する負のイメージを
- 別の言葉で言い換えることによって軽減する。(例:おひとり様、他人と馴れ合わない人…など)
- ぼっちそのものに新しい価値を付け加える。(例:ぼっちはメンタルが強い、孤独に慣れている人は仕事(勉強)ができる…など)
- 過去の偉人の言葉やエピソードで孤独であることを正当化する。(例:過去の偉大な成功者は孤独を愛していた…など)
などの方法で変え、プライドの高さをより強固なものにしつつ、コミュ障改善によりぼっちを脱出するという辛い事実と向き合わなくても済むような自己正当化へとつなげるのです。
他人を見下すと同時に、見下す相手と会話はしなくてもいいと自分を納得させる
コミュ障にとって他人を見下すことは、単純に自分を相対的に高い存在だと錯覚させるだけでなく「見下しているような相手とあえて会話をする意味はない」と自分を納得させるという効果もあります。
自分が見下している相手と対等に話そうものなら、見下していた相手と立場が同じになると感じるので、(自分の中で肥大した)プライドが許しません。
話していいのは、あくまでも相手の方から自分に向かって話をしてきてくれた場合、それも自分の方が立場が上になるような会話(例えば質問に来た、お願いをしにきた…など)に限ります。
また、相手から何気ない会話や雑談をしに近寄られたのであれば、見下している相手の立場に自分が並んでしまうと感じるのでプライドが傷つきます。
もちろん、このような見下していることを言葉にしていなくとも、表情や態度からなんとなく察することができてしまうと、結局は孤立してしまい誰も話しかけてくれる人がいなくなるのは明らかです。
しかし、孤立しても「見下しているような相手と距離を置かれても痛くも痒くもない」と、平気な素振りを見せて、あくまでも自分を変えようとはしません。
「周囲が自分に会話を合わせてくれるのが当然」のように振舞うせいで、コミュ障をこじらせる
コミュ障は何も早口、小声、言葉に詰まりやすい、と言った喋ることに深く関わることに限った事ではありません。喋るより前の表情や態度が原因となった結果、コミュ障をこじらせてしまうこともあります。
プライドの高さからコミュ障になる人は、態度の面でも周囲に余計なプレッシャーを与えていたり、自己中心的に振舞うせいでまともに話し合うことすら面倒だと思われてしまうことが多く、おしゃべりをするよりも前に「話しづらい人」という認識になりがちです。
また、プライドの高いコミュ障には
- 「自分こそが話題の中心でなければいけない」
- 「周囲は自分の話に興味を持っているに違いない」
- 「自分の話に周囲もきっと合わせて話をしてくれるはずだ」
- 「自分の話は他の誰の話よりも面白くて聴き応えがある」
などの、自分勝手で自己中心的な態度が目立ちます。一人よがりで一方的に自分に関する話を延々と話したがるために、自然と周囲の人も距離を置こうとしたり、まともに話を聞くのがアホらしく感じるのも無理はないでしょう。
なお、この手の態度はよく喋るタイプのコミュ障にも見られます。
話はうまいけど人との距離感の取り方が苦手、聞き手に対する思いやりや配慮が足りない、自分が話すことに精一杯な姿が、よく喋るけどコミュ障と呼ばれる理由といえます。
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会話をするとボロが出るから、あえて無口を貫く
本当は雑談をしたいし、自分のことを知ってもらうために会話に加わりたいけれど、話せばコミュ障だとバレるし、今まで見下している相手に話に行くのは自分のプライドが許さない。誰かと話したいけど、話したことが原因でプライドを傷つけたくない…
そんな、ジレンマを抱えたて悩んだ結果、あえてプライドが傷つくようなことをするぐらいなら、何も離さず無口で孤高な一匹狼キャラを演じることもプライドの高いコミュ障には見られます。
ぼっちと違って無口キャラなら、会話の聞き役として人間関係に上手く溶け込むこともできるので、ぼっち兼無口キャラになるのを回避できる分、効率的とも見れます。
また、無口であまり喋らないことが功を奏して、男性なら一人を愛せる渋くてかっこいい人、女性なら周囲と馴れ合わず自分を出せる人と言うイメージがつき、プライドの高さに見合う印象を付けることができることも(確率は限りなく低いかもしれませんが)考えられます。
そうした期待や望みがあるからこそ、プライドの高さもコミュ障であることも改善しようとせず、今の自分にとって都合のいいキャラを演じつつ、向き合いたくない現実から逃れるために邁進してしまうことがプライドが高いコミュ障な人にはよく見られます。
なお、現代ならネット(SNS,youtubeなど)を使って、理想の自分に見えるように演出や編集を施して、その姿をあたかも本当の自分のように見せることも可能です。
ネットで理想の自分になれると書けば聞こえはいいですが、解決すべき自分のプライドの高さやコミュ障の改善を延々と先送りにして、肥大化した理想像を叶えるためにバレないように嘘に嘘を塗り固める。
最終的に収集がつかなくなるまで嘘をつき続けてまで、肥大化した理想の自分像をネット上に投稿し続けることは、果たして本当に自分のためになるのかどうか…疑問が残ります。
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