適度を通り越して肥大化したプライドを持ってしまい、自分は特別扱いされて当然だとか、自分を中心に世の中は回っているんだ…という、自己中心的な考え方では、他人と衝突してお互いに不快な思いをしたり、自分の思い通りにならないことにイライラする原因になります。
もちろん、自分でもプライドの高さのせいで困っていることは自覚してはいても、プライドの高さが邪魔をして他人に相談できない。
相談しようものなら、自分の弱みを相談相手に握られてしまうことだと感じてしまい、結局誰にも相談できないまま、プライドの高さを解決できないもどかしさのせいで、気が滅入る…なんてことも起きるかもしれません。
今回は、そんなプライドの高さで困っている人に向けて、対処法や心がけをまとめてお話し致します。
プライドの高さを直すための対策
身の程をしっかり知る
プライドが高すぎる人に多いのが、自分の身の程をしっかり知ろうとしないことです。ここでいう身の程とは、自分の主観抜きな自分、つまり客観的に見た現実の自分のことと言い換えてもいいでしょう。
例えば「自分は交通事故を起こすわけがない」と過信し、免許を返納しなかった結果、コンビニに突っ込むなどの事故を起こす高齢ドライバーのように、今の自分がどういう状況なのかを知らないまま過ごせば、自分だけでなく他人にも危害を及ぼす可能性があります。
もちろん、高齢者に限らず
- いつまでも身の程を知らずに、偏差値が高すぎる大学を受けては落ちるを繰り返し、多浪生活を送ってしまう人。(就活も同様)
- いつまでも身の程を知らずに、結婚相手に高すぎる要求を下げなかった結果、売れ残ってしまう独身男性or女性。
など、高すぎるプライドが災いした結果、自分で生きづらい状況を招くことは、案外身近なところにあるものです。
身の程を知るという言葉自体、あまりいい意味で使われる言葉ではありませんし、自分には無限の可能性があるに違いないという期待を捨てない生き方をする方が、尊敬や応援の声を集めやすいものです。
しかし、今の自分の状況を冷静に見つめることを避けてばかりでは、自分が抱いている生きづらさを根本的に解消することはできません。
学力が足りなさすぎるのなら志望校のレベルを下げる、結婚相手に対する要求が現実離れしているのなら適度に妥協する、というように現実と折り合いをつけることを身に付けることが欠かせません。
知らない間に他人に迷惑をかけている可能性について考えてみる
プライドの高すぎる人は自己中心的な考え方をしているあまり、自分の傲慢な態度のせいで誰かが我慢を強いられていることや、不平や不満を抱えているのではないか…という、自分の非について想像できない傾向があります。
プライドが高いまま居続けられる裏には、「プライドが高くて困っているんですよ」と言えば、ひどく傷つけてしまうのが明白なのでじっと耐えている人の存在、立場差の都合上言いたくても言わずにスルーしている人の存在がいることが考えられます。
仕事の場合なら、プライドの高さのせいで散々な目にあっているけど、一応上司だから顔を立てるつもりであえて指摘しないでいる。取引先の相手なので多少プライドが高く迷惑を受けていても目を瞑っている、という状況がこれにあたります。
なお、自分の気づかないところで、自分は誰かに迷惑をかけていたり我慢を強いているかもしれない…という可能性を考慮すること自体、あまり考えたくないことだと思います。
しかし、あまり考えたくないからといって、いつまでも身の程を知ろうとしないままでは上でも述べたように、対人関係においていろんな意味で衝突を起こす原因になります。
そうした衝突を未然に防ぐ意味でも、冷静になって自分で自分の行動を振り返ってみる習慣を身につけて行くことが、プライドの高さのせいで生きづらさを招かないためにも大事なのです。
褒めそやしてくれる人ばかりと付き合わない
プライドの高すぎる人は、自分は特別な人間であることを実感させてくれるような人間関係を好みます。
その最たる例が、自分のことを褒めて褒めて褒めまくるような、たいへんポジティブで居心地の良さを感じる人ばかりと関係を持とうとする事です。
ただし、これは見方を変えれば自分の周りにイエスマンばかりを集めること同じです。自分に対する反論を認めない。下手をすれば、自分の意見に疑問を持つことや質問をする事すらも認めようとせず、他人に対して強い窮屈感を与える関係を築くことにもつながりかねません。
たしかに、どんなことがあっても否定せず褒めて受け入れてくれる環境は心地いいものですが、その環境にどっぷり浸かりすぎた結果、イエスマン以外の外部の人がいる人間関係にめっぽう弱くなる懸念があります。
プライドばかりが大きくなるものの、メンタル面の打たれ弱さには拍車がかかり、付き合える人間関係の幅が狭まり、自分で自分を生きづらい状況へと追い込むことになるのです。
今まさにプライドの高さで困っている人にとって、自分に対して厳しい意見や突き刺さるような言葉を言ってくれる人は、自分のプライドを崩しかねない危険人物のように思えるかもしれません。
しかし、長い目で見れば自分のためになる薬となる言葉を投げかけてくれる、たいへん親切心に溢れている人と言えます。
わざわざ相手が嫌がるようなことを言ってしまうお節介な点では、空気が読めていないだとか、常識がないと決めつけて、厳しい意見を言う人を退けると同時に、自分のプライドを守りたくなる衝動に駆られるかもしれませんが、そこはぐっと堪えてまずは落ち着いて話を聞く姿勢を持つことが大事です。
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0か100かの両極端な考えをしていることに気づく
プライドの高い人は、受け入れがたい出来事に対して妥協や折り合いを付けるのが苦手なために、つい意地を張ってしまって他人を振り回してしまう。
この行動の原因には「0か100か」というような、両極端な考え方に囚われていることが影響しています。(→認知の歪み「オール・オア・ナッシング」。なお、この考えは完璧主義の人にもよく見られる。)
もちろん、この両極端な考え方のまま問題なく生活できているうちはいいのですが、急な病気、加齢などの自身の不調・変化に直面したり、勉強や仕事で新たなライバルが出てきたなどの環境の変化が起きた時に、自分に対する評価が100から0へと急激に下がってしまうことで、打たれ弱くなってしまうのです。
また、両極端な考え方ゆえに、他人が妥協を折り合いを付けることに対しても、強い嫌悪感や軽蔑の意を示すことがよくあります。
(この記事で書くのはなんだか変な気もしますが)他人の生き方に勝手に口出しをしたり、自分の中の完璧を他人に押し付けたがる傲慢さは、「0か100か」の考えに囚われていることが原因なのです。
自分の未熟さを受け入れる
「0か100か」の思考に通ずることですが、プライドの高さのせいで、自分は完璧な人間であり、未熟な面なんかこれっぽっちもない。むしろ、あってはならないという考えのせいでどつぼにはまりがちです。
例えば、知ったかぶりのように、知らないことに対して素直に「知りません」と言えば、自分は未熟者であると感じてプライドが深く傷つく。それを避けるためにも、嘘でもいいので知ったかぶって、自分をよく見せようとします。
しかし、所詮は嘘をついていることには変わりはなく、一度付いた嘘がバレないために新たに嘘を重ねて収拾がつかなくなったり、嘘も方便だと(苦し紛れな)自己正当化をしたために、周囲から呆れられ大きな恥をかくハメになります。
そうならないためにも大事なのは、自分のプライドを守るために嘘をつくことではなく、知らないものは知らないと言い、正直に自分の未熟さを受け入れることです。
プライドの高すぎる人は、聞く時の一時の恥を恐れた結果、聞かなかっとことで待ち受ける一生の恥に苦しんでしまう人と言っていいでしょう。
小さな恥をかくことを恐れた結果、大きな恥に苦しめられるという、なんとも情けないオチにならないためにも、自分の未熟さから目を背けないように心がけましょう。
根拠のある自信を地道に身につけていく
プライドが高すぎる人が見せる自信過剰な態度は、幼児的万能感という非常に不安定で、未熟で、脆い万能感がベースになっています。
幼児的万能感は、子供の頃に抱いていた「自分は何にでもなれる」「自分には無限の可能性がある」という、子供特有の微笑ましい、そして現実に根ざしていない不安定な万能感です。
不安定であるために、自分でもこの自信が本当に信用できるものなのか不安に襲われやすい。そして、不安を払拭するためにも、「自分はすごいんだ」とやたらアピールをして、周囲(イエスマン)から賛同を得ることで「自分の自信は間違っていないんだ」と確認する作業に躍起になるのが、幼児的万能を抱えている人によく見られます。
こうした不安定な万能感から解放されるためには、経験や実績という根拠によって裏付けられた自信を身につけて行くことが欠かせません。
地道に勉強をして不得意科目を減らしていく。筋トレを継続して体を鍛えていく。出来なかったことが出来るようになるために練習をしたり、学習していく…など、地道な努力を重ねて確かな実力を身につけていくことが肝心です。
なお、地道な努力を行うことは、言い換えれば「自分は努力なしでも問題ないほどの特別な人間ではない」という、受け入れがたい事実と向き合うことと同じです。
こうして書くと非常に残酷な事のように見えますが、幼児的な万能感を克服して、分別のある大人としての適度な万能感とプライドを身につけていく上では、避けては通れないものだと理解しておきましょう。
余談:SNSをやめるのもプライドの高さを治すのに大事という考え
余談になりますが、SNSでは簡単に話を盛ったり、不都合な情報は投稿しないなどの方法で理想の自分像を演出し、自分の肥大化したプライドを満たせてしまう側面のある、一種の恐ろしさを感じるツールだと感じます。
ほかにも
- 大量の「いいね」を獲得する。
- 多くのフォロワーがつく。
- ある分野での有名人からフォローされたり、言及をうける。
などの体験により、自分も特別な人間の仲間入りを果たしたと思い込む。そして、妙にプライドだけが高くなり、リアルの自分とSNS上の自分との差に苦しんでしまうことは、少なくないと思います。
また、SNSの多くではブロック機能によって、自分にとって不都合なコメントをする人を排除することも可能です。
このことは、自分のプライドの高さを戒めるような言葉を言ってくれる人を自ら遮断すると同時に、よけいに自分の周りをイエスマンばかりで固め、プライドのみの高さが深刻化する原因になると考えられます。
リアルの人間関係では、そう簡単に自分に対して(苦いけど)薬になる人との関係を遮断することはできませんが、SNS上ならタップ一つで簡単にできてしまう。
こうしたSNSならではコミュニケーションのルールが、プライドだけを高めてしまう原因の一種になっているように考えられるからこそ、SNSをやめることが一定の効果を果たすのではないかとか思います。
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