ある芸能人や有名人に関して話しているSNSのタイムラインであったり、youtubeのコメント欄において、(否定的な意見ならまだしも)疑問を示す書き込みや絶賛以外の書き込みを見るだけで「アンチが出た」という具合のコメントを見かけることがあります。
特に炎上まがいのネタや、ネットのノリなら許容されるけど、リアルのノリであれば難色を示す人が多い、過激な芸風のyoutuberに関する話題を(怖いもの見たさで)見ていると、その芸風に対する心配の声ですらも「アンチかよw」「嫌なら見るな」という書き込みが次々と出ており、なんだか恐ろしさを感じずにはいられません。
もちろん、こうした誰かの書き込みをアンチ認定する発言は、youtuberの動画を見ている視聴者間のみならず、動画を投稿している張本人も同様です。
今回は、そんなアンチ認定したがる人を見ていて思うことについて、お話しいたします。
目次
まともなコメントも「アンチ」で片付けてしまう人に感じる危うさ
なんでもアンチ認定する人に見られるのが、自分が受け入れたい言葉以外は全て「アンチ」の一言でまとめ、聞くに値しないもの、無視しても問題ないものとして処理していることです。
もちろん、中には単なる誹謗中傷であったり、某語録のコピペのような言葉で茶化すコメントもあり「それはアンチ認定されても仕方ないよなぁ…」と思うものもあります。
しかし、なんでもアンチ認定したがる人は、自分がやっている過激な行動(あるいは応援している人の過激な行動)に向けられるまっとうな意見、疑問、質問と言った耳を傾けることも必要な書き込みですらも「アンチ」と決めつけ、聞くに値しないものと決め付ける。
過激すぎるがゆえに、動画投稿者本人がデジタルタトゥーを残すリスクがある行動への心配の声ですらも、全て「アンチ」の一言で片付けて、全く聞く耳を持とうとしないことが目立ちます。
その姿は、まるで自分に対する絶賛のコメント以外は認めないという強い姿勢を感じずにはいられない。
たとえ耳が痛い意見であっても、それは自分に恥をかかせる攻撃の言葉と見なす。そして攻撃の言葉と見なしているからこそ、アンチと決めつけてこき下ろす自身の行為は正義だと自己正当化し、他人に対して排他的な態度を取ることを問題のない行為として考えてしまうことは、傍から見ていて、独善的で、暴力的で、向こう見ずな正義感であると感じてしまいます。
疑問や質問の声も「アンチ」とみなす思考の極端さ
アンチ認定したがる人に顕著なのが、毒舌や正論をぶつけるように手厳しい意見を残すコメントならまだしも、穏やかで落ち着いている文体で疑問や質問を残すコメントですらも「アンチ」と決めつけてしまう極端さが目立ちます。
およそアンチと呼ぶには程遠い穏やかな意見、純粋な疑問や質問の声ですらも、アンチと決めつけて跳ね除けてしまう姿は、ファンからアンチへと豹変してしまう人に見られる二極思考に通ずるものを感じます。
まるで、自分を絶賛する人以外は皆、自分のことを攻撃しようとする人、妬んで足を引っ張ろうとする人、自分に悪意を持っている人…と、この世の中には「絶対的な味方(ファン)」か「絶対的な敵(アンチ)」しか存在していないという、両極端なものの見方をしているのではないかとすら思えてきます。
冷静に考えれば、味方(ファン)、敵(アンチ)以外にも、
- 味方ではあるが、敵の意見にも納得できるものを感じている人。(その逆も然り)
- 中立の立場の人。
- 「どうでもいい」と立場を表明する気すらない人。
- 立場がどうのこうの以前に、youtuberだの有名人だのことを知らない人。
など、色んな立場の人がいるはずなのですが、それを無視して味方か敵かの二種類で判断してしまう。
上でも述べたSNSの投稿をしているアカウントやyoutuberなどの、情報発信をする立場の人も、そして彼らのファン人も、どちらもこうした極端なものの見方で味方か敵かを白黒つけたがる様子は、まるで集団極化に陥って中庸な考え方ができなくなっている人や組織を見ているように感じます。
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仮想敵の「アンチ」を作り出す事で、現実と向き合うことを避けているように見える
上述しているように、やたらアンチ認定をしたがる人は「アンチと呼んでいいのだろうか?」と思える書き込みですらもアンチ認定することで、相対的に自分は正しいんだ、間違っていないんだという実感を得ることに必死になっているかのように感じることがあります。
- 「本当は自分のやっていることは、ただのわがままでしかないのでは?」
- 「見たくないもの、聞きたくないものを拒絶し続けているだけの駄々っ子ではないのか?」
- 「やっぱり非常識で過激なことをやっているだけだから、やめた方がいいのではないか?」
という、自分に対する懐疑心や良心の呵責に耐えることに葛藤を感じている。
その結果、仮想敵の「アンチ」という存在を作り出し、アンチを攻撃することで葛藤から逃れているようにも分析できます。
こうした心理に関しては書籍『平気でうそをつく人たち』で語られている「悪性ナルシシズム」が関連していると解釈できます。
この書籍では悪性ナルシシズムについて
・自分の罪悪感と自分の意志とが衝突した時に、敗北するのは自分の罪悪感であり、勝ちを占めるのが自分の意志である。
・罪悪感や自責の念に耐えることを絶対的に拒否する。
・他者をスケープゴートにして、責任転嫁をする。
・他人に善人だと思われることを強く望む。
(『平気でうそをつく人たち』より)
と説明しています。
何でもアンチ認定したがるために、罪悪感や良心の呵責とは無縁のように見えますが、実は罪悪感や良心の呵責はしっかり感じている。
しかし、それらを自分の中で上手く処理したり、耐えることができないので、スケープゴートとしての「アンチ」の存在を自ら作り出し、アンチにすべての責任を擦り付けることで、自分が向き合うべき問題から目を背けようとしているとも考えることができます。
「アンチ」をスケープゴートにしないことが大事
当然ながら、こうしたアンチ認定してバッシングする行為そのものは、動画や情報を発信する側からすれば、自分にとって不都合な意見を聞こうとしないどころか、聞かないことを自己正当化して開き直っていると見られても無理はありません。
また、一ファンとして勝手にアンチ認定してバッシングすれば、過激なファンがいるとして発信する側を困らせたり、ファン同士での衝突を生んでしまう原因になります。
自分がどちらの立場になるにせよ、「アンチ」という言葉を拡大解釈し、ていのいいスケープゴートとして自分の罪悪感を擦り付けようとしていることに気付くことが大事だと思います。
もちろん、アンチが何もかも悪いと決めつけ、「自分は悪くないし、罪悪感と向き合わなくてもいい」という姿勢をとることで、情報発信者とファン、あるいはファン同士で芽生える絆もあるでしょう。
しかし、スケープゴートを作り出すことで問題を解決する前例を作ってしまえば、その前例に倣って、今度は自分がアンチ認定されてスケープゴートにされてしまう…という因果応報なオチになっても文句を言えないことは、簡単に想像できるのではないでしょうか。
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