自分に対して自信満々なのに、些細なミスや失敗ですぐに落ち込む。
そんな人を見ていると、「さっきまで見せていた自信は一体なんだったの?」という疑問を抱くこともあろうかと思います。
もちろん、こういった事は若い人に限らず、年配の方でも見られるものです。ただし、年配の方の場合は、若い人のように落ち込むというよりは、怒鳴る、不機嫌になる、露骨に嫌そうな表情をする…など「怒り」の感情を見せることが多いでしょう。
ただし、落ち込むのも怒るのも、どちらも上手くいかない状況に陥ると途端に冷静さを失っているのと同じである。つまり、打たれ弱いことをアピールしているのと同じと言えます。
今回は、そんなプライドが高いのメンタル面が弱くなる仕組みについて、お話しいたします。
プライドの高さが打たれ弱さを招く仕組み
目標が高すぎてなかなか成功体験が得られず、不安に悩まされやすい
プライドの高い人は「自分は他の平凡な人間とは違う特別な人間なんだ」という、自分に対する特別意識を強く抱く傾向があります。
しかし、この特別意識が仇となり、勉強や仕事などで高すぎる目標を立ててしまった結果、なかなかその目標が達成できず、成功体験が得られにくい状況に苦しむ状況を自分で作ってしまうことがあります。
もちろん、高い目標を立てることそのものを否定するわけではありませんが、あまりに高い目標を立てることは、言い換えれば自分の実力を正確に把握できていない、身の程をわきまえていないのと同じです。
「身の程をわきまえる」と言う言葉そのものは、ネガティブなものとして忌避されることが多いものですが、自分を過大評価しすぎた結果、自分で自分を苦しめる状況に追い込むのを防ぐ側面もあるので、一概にネガティブなものだと決め付けるのは早計と言えます。
また、高すぎる目標を立てる人に多いのが、ほどほどのレベルで目標を達成しても、そのことに喜べない、「まだまだ自分はこんな低レベルなことで満足してはいけない」と自分で自分を追い込んでしまった結果、いつも無力感や漠然とした不安に苦しんでしまうことです。
例えば、「東大合格」を目指して受験勉強に励んだ結果、偏差値も上がって中堅レベルの大学でもA判定を取れるほどの実力を身につけたとして、その成長を自分で認められなくなった結果、いつも強い不安に駆られているという具合です。
こうした姿勢は野心家と言い換えることもできますが、小さな幸せに対して満足感を得られなくなる。「高すぎる目標を達成する以外は全て失敗である」というような、中庸さを欠いた両極端な思考を招いた結果、精神的な余裕が常になく、些細なことで簡単に折れやすいメンタルを築き上げてしまうのです。
(なお、大学受験の例の場合、東大を志望していたのに不合格になり、仕方なく滑り止めの大学に通うものの、途中で大学に通う意味を見失い無気力状態に陥る。あるいは多浪していつまでも浪人生活を送り続ける…という状態に陥る例も多いものです。こうした状況を避ける意味でも、身の程を知る事は決して悪いことではないのです。)
過大評価された理想の自分と現実の自分とのギャップの差の激しさに苦しみやすい
プライドが高い人が持つ自分への特別意識は、あくまでも自分が思い込んでいるだけの主観的なものでしかなく、他の人から見ればそれほど特別とは言えない、むしろ平凡すぎて特に優れているものがあるとはお世辞にも言えないものです。
例えば、プライドが高くて「自分はプロスポーツ選手に並ぶ運動神経がある」と思ってはいるものの、実際の運動神経はというと、アマチュア以上プロ未満で実に評価しづらい。(ただし、意識の高さはプロ並、あるいはプロ超え)。
運動神経があると言えばあるかもしれないが、プロレベルかというと微妙であり、中途半端なのにプライドの高さのみ突出しているのが象徴的です。
このように、プライドが高い人の自己評価は「自分に対する主観的な評価>>>>客観的な評価」であるために、つい「貴方は自分が思っているほど立派でも優秀でもないんですけどね」という(野暮な)ツッコミを入れたくなる衝動に駆られたくなることが、プライドの高い人と関わったことがある人には多いかと思います。
もちろん、これだけ自惚れられるのだから、さも自信満々で鋼のようなメンタルをお持ちだと思うかもしれませんが、実際はその逆です。
高すぎる自己評価と客観的な評価の釣り合わなさのせいで、自分に向けられる些細な言動に対して「ひょっとして自分は特別でもなんでもないのでは?」という現実を突きつけられているかのように感じて、過剰に反応してしまう。
その結果、プライドが適度な人ならさほど気にしない出来事ですらも、自分のプライド、ひいては自分自身の人格や人間性を全否定するかのような強い危機的状況のように感じてしまい、打たれ弱くなってしまうのです。
なお、この打たれ弱さを解決するためには、自分は思っているほど特別でもなんでもないことを知る、つまり身の程を知ることが欠かせません。
しかし、プライドの高い人にとって、自分の身の程を知る過程で、自分で自分を否定する耐え難い苦痛を味わうことは避けられないので、何としてでも避けようとします。
また、自分の身の程を知らされる場面…例えば、スポーツなら公式試合、勉強なら全国模試、仕事ならコンペ、などの公正かつ客観的な評価をうける場面を徹底的に避け、いつまでも自分が井の中の蛙でいられるようなぬるま湯の状況に留まり続けることも目立ちます。
そんな環境に入り浸り続けた結果、他人と折り合って生きていく事そのものに苦手意識を感じてしまい、生きづらさを抱えてしまうのです。
プライドが高すぎるために人間関係で衝突が多く孤立しやすい
プライドが高い人の言動は「傲慢」の一言に尽きます。
自分で自分を特別視しているから、他人を見下すような失礼な行動をするのも問題ない。むしろ、自分は他人をコントロール出来るだけの立ち位置にいるだけの優れた人間であり、他人をコントロールして、より良い方向に導くことこそ自分の使命である…というような、驕り高ぶった態度を平然と取ってしまうために、人間関係で不必要な衝突を起こすことは少なくありません。
もちろん、部活の先輩や職場の上司など、他人を指揮する立場にいるのなら、こうした傲慢な振る舞いもある程度は認められるものですが、大抵は次第に指揮に従う人が減ってしまったり、傲慢さに見合った実績や実力がないことを見抜かれて、距離を置かれて孤立してしまうことが多いものです。
こうした傲慢さが招いた状況は、もしも急な病気により今の立場を失うなどの危機的な状況に陥った時に、周囲から自然と救いの手が差し伸べられず見て見ぬふりをする人を増やしてしまう。また、「因果応報だ、ざまぁ見やがれ」と、池に落ちた犬を叩くかのようなバッシングをされても無理がないような自分にとって厳しくなる状況を招いてしまいます。
加えて、普段から傲慢な態度をしているせいで、自分の弱みを他人に見せられないことで苦しむ。悩み事を誰にも相談できないまま、自分で自分を追い込んでしまう状況を作り出す側面もあります。
事前に相談できていれば、メンタルがポッキリ折れてしまう事態が避けられていたかも知れないのに、自分のプライドの高さが邪魔をして誰にも相談できない。
もし相談しようものなら「自分は特別でもなんでもない弱さや未熟さがある人間である。そして他人を頼らなければいけない非力な人間である」という事実と向き合うことになるからこそ、自分で自分を追い込むような生き方を選んでしまった結果として、たれ弱くなるのです。
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