身体的な特徴や行動での特徴をネタにされる、時にはいじめとも解釈できるようないじりを受けることで、集団内でのキャラクター(=個性)を獲得するいじられキャラは、その役回りゆえに「本当は自分は嫌われているだけではないのか?」と、疑心暗鬼になることがよくあるものです。
今回は、そんな「いじられキャラ=嫌われ者」という説に関する考察をまとめました。
目次
「いじられキャラは嫌われてる」説を見ていくにあたって
「いじられキャラは嫌われている」という説を見ていくにあたって沸く疑問が、嫌っている人に対してなぜいじりという行為に出てしまうのか、というものでしょう。
(なお、この場合は「いじり=いじめ、嫌がらせの一種」ではなく「いじり=仲が良い人同士のコミュニケーションの一種」として考えるとする。)
「嫌っているんだから無視しておけばいい」「嫌いなんだから関わらないようにすればいい」と、合理的且つ自分の気持ちと合致した行動を取ればいいのに、なんでそうしないの?…という疑問を抱く人は、きっと多いと思います。
マザー・テレサの言葉でもある「愛の反対は憎しみではなく無関心」を参考にして考えてみれば、嫌っている相手に対してあえていじりというコミュニケーションをとるよりは、無関心を貫いたほうが、気持ちと行動が一致していると言えます。
しかし、こうした気持ちと行動が一致しないことは、後述する防衛機制の反動形成をもとに考えると、理解しやすくなります。
防衛機制の反動形成から見る「いじられキャラは嫌われてる」説
防衛機制とは心理学用語であり、受け入れがたい出来事や感情に対して、精神的な安定を保つために取る行動全般のことをさします。その中でも「反動形成」は、自分の感情とは真逆の行動を取ってしまうことを指すものです。
例を上げるとすれば
- 苦手と感じる人に対して、苦手意識をむき出しにするのではなく、必要以上に親しく優しく接してしまう。
- 好意を寄せている相手に対して、自分の好意を表明するのではなく、逆に嫌がらせをして相手を困らせてしまう。
など、自分の感情と行動が一致しない、ちぐはぐな行動をとるのが反動形成の代表です。
このことを踏まえると、嫌っているはずのいじられキャラに対して、いじりというコミュニケーションをしてしまうことも反動形成の一種として考えられます。
嫌っている相手に「嫌い」といえない状況がいじりを招く
嫌いっている相手に対して「嫌い」という態度を表明するのは、純粋に相手をストレートに傷つけると同時に「自分は嫌っている人に対して明確に攻撃的な態度をとりますよ…」と周囲にアピールすることにほかなりません。
当然そんなことをすれば、いじめやハラスメントを平気でする人だと思われて顰蹙を買ったり、非常識な行動を取る人間とみなされて煙たがられるのは明白です。
「たとえ嫌っている相手であっても、相手を傷つけない」というのは、社会通念や道徳的に見見ても問題ない考えであると同時に、人間関係で余計な衝突を起こさないためには欠かせない考えの一種です。
しかし、こうした状況のせいで苦手な人と付き合わざるをえない状況になった際、「嫌っていることを言いたい」「でも、嫌っていることを言えない」という、二つの相反する感情が生まれて葛藤に苦しむ。
そして、その葛藤を上手く処理する方法として、いじりというコミュニケーションの手段を用いているのだと考えられます。
いじるという行為は、
- いじられる人に注目を集めて場を盛り上げる、笑いを提供できる面白い人だとアピールする…というポジティブな側面。
- いじられる人をただの笑い者や晒し者にする、いじってもOKなほどに立場が弱く尊重されない人間だとアピールする…というネガティブな側面。
のどちらにも解釈できてしまう曖昧な性質があります。
この曖昧さは、本当は嫌いだと感じている相手に対していじりをしても「これは悪意ではなく好意だから」と言い訳説明し、あくまでも自分は好意があるからいじりをしているんだと自己正当化をすることにも利用できます。
もちろん、本心は悪意があるけどそのことを率直に表明するのはたいへん危険である。しかし、何らかの形で悪意をそれとなく表明し、日頃抱いている葛藤を処理したい気持ちに駆られる場面において、良い意味にも悪い意味にもどちらにも解釈できるいじりという手段は非常に好都合です。
自分に悪意があることをひた隠しにしつつ相手を攻撃できる。また、疑問も持たれても「これは好意だから」と説明して乗り切ることができる。この使い勝手の良さこそ、いじりというコミュニケーションが持つ魅力と言えます。
(もちろん、悪い意味でのいじりを肯定しているわけではありませんが…)
「嫌われているからいじられている」と受け入れることの難しさ
なお、好意を向けられているのにもかかわらず、それを嫌がらせでしか表現できない事例と比べると、一応いじりとして好意を向けられているのに、実はそれが悪意や敵意と言った醜い感情である…と認めるのは、なかなか受け入れがたいものがあると感じます。
- 本音は好意。しかし表現は悪意。
- 本音は悪意。しかし表現は好意。
両者ともに反動形成ではありますが、本音を正しく知ると同時に、そのこと受け入れられるかどうかには差が出てくるものでしょう。
「嫌そうな顔をして近づいてくる相手が実は自分に好意を持っている」と言えば、照れ隠しでなんとも微笑ましいワンシーンになる。ひねくれてはいるけど、どこか憎めない可愛らしさを感じさせるものとして比較的受け入れやすいものでしょう。(なお、こうした行動は「ツンデレ」とかわいく表現することもできる。ただし、DVや虐待に詳しい人からすれば、安易に受け入れるのは好ましくない考えとも言えますが…)
しかし「優しく近づいてくる相手が実は自分に悪意を持っている」と言えば、途端にゾッとするような怖さや不気味さを感じたり、「優しい人なのに悪意なんてあるはずがない!」と悪意を持っているという不都合な事実を強く拒絶してしまうのは、想像に難くないものです。
もし仮に受け入れてしまおうものなら、自分は他人から嫌われているという身も蓋もない事実を受け入れることになる。また、いじってくる以外の人が見せる優しさまで疑いの目で見てしまう、他人の優しさに対していちいち疑念の目を向ける醜い自分自身に嫌気が指す、などの別の問題が生じて苦しむことも考えられます。
「いじられキャラは嫌われている」説が正しいものだとしても、それを感情抜きで受け入れられない結果、「いじられキャラは嫌われている」説そのものをとにかく否定したり、「むしろいじられキャラは美味しい、人気者である」と、別の説を声高に主張することもまた、受け入れがたい事実に対する、心理的な安定を保つためにとっている行動のように感じます。
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