仕事でも学業でも趣味でも、実力や業績とは釣り合いが取れないほどに、プライドだけが肥大化している人と関わるとなると「プライドが変に高くて扱いづらいなぁ…」と感じるだけでなく「どうしてここまでプライドだけがやたら高くなってしまったのだろうか…」と、素朴な疑問が湧いて出てくることは少なくないと思います。
とはいえ、そんな素朴な質問をぶつけようものなら、流石に相手に失礼ですし、変にプライドを刺激して険悪なムードが広まることが想像できてしまうため、聞きたくても聞けないのが実情でしょう。
今回は、そんなプライドだけが妙に肥大化してしまう人について、心理学の知識をもとにお話いたします。
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プライドだけが妙に肥大化してしまう理由
プライドだけが肥大化してしまう理由は、性格や行動などその人自身が影響しているものもあれば、生育環境、仕事や学校での扱われ方など、その人を取り巻く人間関係や環境が影響しているものもあります。
もちろん、一つの原因だけでなく、個人と環境の双方が絡んだ結果として、プライドだけが肥大化してしまうこともあります。
以下、くわしく解説していきます。
指摘や鋭いツッコミに対して聞く耳を持たなかった
プライドだけが高い人に多いのが、自分に向けられる指摘や鋭いツッコミなど、自分のプライドが傷つくと感じる言葉に敏感であると同時に、それらの言葉に対して聞く耳を持たなかった結果として、プライドだけを肥大化させてしまったというケースです。
なお、指摘と言って相手を罵倒するような乱暴な言葉ではなく、自分を優しく諭すような言葉でさえも、自分のプライドをひどく傷つける言葉のように感じられた結果、プライドを守るべく相手の言葉をシャットアウトしてしまう。
SNS上においてアカウントをミュートかブロックするかのように、自分に対して指摘の意見を述べてくれる人から距離を置くと同時に、自分のことをちやほやしてくれる人や、厳しい意見を述べる心配がない人と馴れ合うような関係を気づいた結果として、プライドだけが妙に肥大化させたのです。
なお、指摘というとどうしても「悪」とか「タブー」など、相手を傷つけるだけのネガティブなコミュニケーションだと思われてしまうこともありますが、プライドが肥大化させすぎて自分も周囲もプライドで引きずり回さないために必要なコミュニケーションといえます。
惨めな自分を認めたくない反動としてプライドだけが肥大化した
ありのまま自分が特に特筆すべきものもなければ、あまりにも惨めで人に誇れるものがないので、もしそれを受け止めようものなら、自尊心や自己愛が木っ端微塵に砕け散る不安がある。
そうならないためにも、自分の中の理想の自分像ばかりを見て、現実を見ないようにしてしまう。要するに現実逃避の一種です。
しかし、理想化された自分像は、自分の努力次第で直ぐに手に入れられるものではなく、お金も時間も馬鹿にならず、また内容によっては必ず理想通りになれるという保証はない。
ノーリスク、ノーコストでは理想の自分になれないことを分かっているからこそ、手間や労力を無駄になることを恐れると同時に、そうした手間すらいらない方法で自分の自尊心を満たそうとする…つまり、理想の自分像に自惚れる事で、自尊心満たそうとするのです。
当然、現実離れして過剰に美化された自分を見てうぬぼれている状況なので、そのことに対してツッコミが出てきてしまうのですが、上でも触れているようにそのツッコミを受け入れて自尊心が傷つくのを強く恐れて聞く耳を持たない。
そして、いつしか理想の自分と現実の自分が一緒くたになり、傍から見ればプライドだけが肥大化した人になってしまうのです。
なお、このように受け入れがたい現実から逃げて、空想や妄想の世界に逃げ込むことは、心理学では防衛機制の一種の「逃避」であると考えられます。
逃避はただ妄想の世界に逃げ込むだけでなく、次第に人間関係から逃げるなどして、社会と折り合うことが難しくなる。人間関係でのいざこざを増やしたり、引きこもりを招く原因になってしまうなど、防衛機制の中でも厄介さが目立つでもあります。
周囲が過剰に持ち上げた、持て囃した
プライドばかりが肥大化してしまうのは、親の子育てや学校環境などで、とにかく褒めて期待をかけられたことが裏目に出てしまっているケースもあります。
とくに、子供の時のような非現実的で「自分に不可能なことは無い!」という万能感が思春期を経ても抜けきっていない場合は、過剰な賞賛や期待を受け続けるばかりの環境で育ってきたことが原因だと考えられます。
もちろん、自分には不可能なことは無いと思えることは、世の中をひねくれた目で見ることなく、子供の頃のような純真さを持てていると好意的な解釈も可能ですが、意地悪な言い方をすれば夢ばかりを見させて現実との折り合いのつけ方を学ぶ機会を周囲の人たちが奪ってしまっている。つまり、この場合プライドが高すぎる人は、周囲の人間に振り回された被害者といえます。
もちろん、褒めて育てる教育法・指導法を否定するものではありませんが、相手のメンタルを傷つけないことを優先するあまりに褒めてばかりで接することは、結果として相手のためにはならない事態になりうることは知っておいて損はないでしょう。
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身の丈に合わない立場・地位・役割を得てしまった
人間は社会で生きていく中で、何らかの役割を与えられると、その役割にふさわしいような行動と取ることがあります。これは、心理学では「役割効果」と呼ばれます。
学業や仕事の実力とは釣り合わないほどに、妙に高いプライドを持っている人の中には、自分の身の丈には合わないような役割を、偶然にも手にしてしまった。
その後、自分が与えられた役割にかなう人間になるべく自尊心を肥大化させるものの、実力が追いつかずじまいになったことで、プライドだけが突出して高くなってしまったのです。
なお、自分がどんな役割を入手できるかについては、自分一人だけではどうにもできないものがあります。生まれや家柄など、自分を取り巻く環境やその環境の中で起きるタイミング次第では、身の丈に合わない役割を偶然にも手に入れたり、渋々受け入れてしまう。
そんなこんなで受け入れた役割を演じるうちに、自尊心だけが肥大化させてしまう光景は、某北のミサイルマンのように親の七光りや世襲によって知名度を得ている人たちには、馴染みの深いものといえます。
プライドだけ肥大化してしまう人とSNSとの相性
私見ですが、プライドだけが肥大化する人が増える原因の一種として、インターネットの登場…その中でもSNSの登場により、コミュニケーションが多様になったことも、影響していると考えられます。
SNSでは、自分の投稿した文章や写真などの内容に対して「いいね」をはじめとした好評価を意味する反応が可視化されるのが、リアルのコミュニケーションには見られない利点でしょう。
しかし、この「いいね」を本当に自分のことを良く評価しているかどうかと断定するのには疑問が残ります。
一例を上げるとすれば
- 褒めたり応援のために押す「いいね」
- 義理や社交辞令して押す「いいね」
- 冷やかしのために押す「いいね」
- 後で読み返すためのブックマークとしての「いいね」
- スパムとして購入した「いいね」(SNSによっては、これは規約違反にもなりうるが…)
どれも同じの1いいねではありますが、全てが投稿した内容を好評価しているとは言えないことは、冷静に考えればわかることでしょう。
たくさん「いいね」が集まったからと言っても、そのいいねの中で果たして何割が自分のことを本当に「いいね」と好感を持った評価しているかは、「いいね」をされた側からは正確に知ることはできません。
集まったいいねを全て自分のことを良く評価するものだと解釈してしまい、自分は多くの人から認められて注目を浴びるぐらいに特別な人間になったのだとプライドを肥大化させてしまう…という具合に、プライドだけを肥大化させてしまうケースが、SNSが普及した昨今では起きているように考えられます。
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