プライドが高くて他人を困らせてしまう人と言えば、(まだ年功序列の文化が残っているので)どうしてもご年配の方を想像されるかもしれませんが、決して若者も他人事ではないと思います。
いわゆる「意識高い系」と呼ばれる人のように、やたら意識の高いことを口にする人。自分がいかに素晴らしい人望や経歴があるかを(求められていないのに)披露する人。自分を実物以上によく見せたがる人。「まだ○○してないの?」と某プロブロガーの言葉を借りて、他人を小馬鹿にしてマウンティングをとる人は、まさにその人のプライドだけの高さを表現していると言ってもいいでしょう。
今回は、こうした若者なのにプライドが高くなってしまう人が出てきてしまう、理由や背景についてお話いたします。
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少子化による子供一人あたりにかける愛情が集中している
プライドが高くなる原因として挙げられるのが、少子化により子供にかける愛情が集中しやすい状況になっていることです。
今や昭和の家族のような子沢山家庭は減り、一人っ子家庭は珍しくありません。兄弟がいなければ、家庭において兄弟同士で頭脳、運動神経、行儀の良さなどを比較される経験も経ないまま成長し、子供自身が兄弟との比較を通して適度で妥当なプライドを持つことが難しくなります。
また、少子化により子供一人あたりにかける親の熱意や愛情が大きくなっている。つまり、一人の子に対して過度に甘やかすような教育方針をとってしまったり、子供の意見を優先して親を含む周囲の大人(祖父母、親戚など)が動くことで、プライドばかりを肥大化させていくことになるのです。
更に、昨今は少子化に加えて、晩婚化により子供を持つことそのものが難しくなっている時代です。そんな世知辛い時代だからこそ、自分の子供(場合によっては孫)を溺愛するように可愛いがるのも無理はないでしょう。
しかし、可愛いがるあまりに、適度なプライドを持てず、高すぎるプライドのせいで子供自身が情緒的に不安定になってしまう。また、高すぎるプライドが崩れるのを恐れて、進学や就職などの進路選択が迫られる場面において、あえてプライドが傷つかないように自分の実力以下の進路を選び、お山の大将でいられる環境を求めるようになることは、果たして子育ての方針として本当に問題はないのか…と感じずにはいられません。
他罰的な言動を助長する風潮の蔓延により、プライドが肥大化する
プライドが高くなってしまう原因として、他罰的な言動を助長するような風潮や価値観が蔓延していることも挙げられます。
心理学において他罰的※1とは「自分に不都合なことが起きた時に、その原因を自分以外の他人や集団などに求めること」を指します。
具体的に他罰的な言動が助長されている例としては…
- 親や先生の立場や威厳が過去と比較すると無くなり、大人が子供に対して強く言い聞かせ子供に自罰的な反省を迫ることが難しい。(教員が聖職者なんて言葉、最近めっきり聞きませんからね…。友達関係の親子の登場もいい例)
- 勉強やスポーツなどで失敗しても怒られることが減っている。むしろ、失敗から目を背けて甘い言葉で励ますような、優しさで溢れる生ぬるい空気感を維持する関係がもてはやされている。
- 褒めて伸ばすことを意識するあまりに、相手が傷つくのは明白だが薬になる鋭い言葉を言えなくなって付け上がらせてしまう。付け上がってしまうことで、失敗した理由を自分ではなく「褒めてきた周囲の人たちがわるい」と他罰で済ましてしまう。
- ネットやSNSの発達により、多くの人の考えや意見を見聞きできるようになったが、その中に紛れている他罰的な意見にも、簡単に触れられるようになっている。(「社会や政治が悪い!」とか「私たちは悪くない、悪いのは○○だ」などの極端な意見の類)
などがあります。
他罰的な言動は、自分に起きた不都合な出来事の原因を自分以外の何か擦り付けられるので、プライドが傷つかなくても済みます。また、嫌なことがあっても「自分は悪くない」と納得するので、気持ちの切り替えが上手く嫌な気分を長引かせないというメリットもあります。
しかし、不都合なことを責任転嫁しつづけてばかりでは、根本的な反省をすることはできない。プライドがますます肥大化してしまい、余計に窮屈な生き方をするリスクもあります。
たとえば、模試の結果が悪かった時に
- 「先生の教え方が悪い」
- 「親がレベルの高い塾・予備校に通わさせてくれないからだ」
- 「隣にいた人のシャーペンの音がうるさすぎて集中できなかった」
など、成績の理由を自分以外の何かに擦り付けるばかりで、しっかり勉強しないままでは成績が改善することは望めません。(プライドは右肩上がりかもしれませんが…)
加えて、高くなりすぎたプライドが偏差値や点数などの客観的な数字によって容易く崩れ去る恐怖を感じ取った結果、あえてプライドが傷つかないように志望校を下方修正して合格安全圏の学校ばかりを受験してしまう。あえて夜更かししたり勉強時間を削減するなど、失敗のアリバイ作りとして、自分で自分にハンデをかける行動に出てしまうこともあります。(=セルフハンディキャッピング)
SNS・インターネットの発達と若者のプライド
自分よりも格下の人間を容易に見つけて安心感を得られる
インターネットの発展により、今やスマホとSNSのアカウントさえあれば、誰とでも、どこででも簡単に繋がれる時代です。
おかげで今までなら出会えなかったような人と出会えるとメリットがある一方で、それをいいことに、いわゆる自分よりも格下の存在を容易に見つけ出すことにのめり込んでいった結果、プライドが肥大化してしまう若者が出てしまっていることも考えられます。(もちろん、若者に限った話ではないとは思いますが…)
自分よりも頭が悪いとか、自分よりもだらしない自堕落な生活を送っているとか、自分よりも顔や見た目がよくない…など、あらゆる点において自分のほうがまだ上だとかマシだとか思える人をネット上で検索する。
そして「自分はあの人と比較すればまだマシ」という満足感を得ることに終始した結果として、身の丈に合わない肥大化したプライドを抱えたままでいるのだと考えられます。
ネットの世界は広大であり、たとえ学校でビリの成績であっても検索すれば自分より格下の人間は簡単に見つけられ「よかった自分は本物のビリではないんだ」とプライドが傷つくのを避けられます。
探せばすぐ自分よりも格下の人間が見つけられるからこそ、プライドが傷つきかねない状況に陥いっても、その状況を根本的に解決するために努力をせず、プライドばかりが肥大化する行動に出てしまいやすいのだと考えられます。
仮に根本的な解決をしようものなら、自分の肥大化したプライドと向き合うという苦痛をともなう作業をすることになるので、それを避けるためにも「自分より下を見て安心する」というまだ楽な方を選んでしまうのです。
権威のある人とネット上で簡単に繋がれる
ことわざ「虎の威を借りる狐」のように、SNSではいわゆる「虎」と呼ぶにふさわしい社会的な権威や実績を持っている人と、簡単に友達になり交流できるのが魅力的です。
しかし、このことは言い換えれば誰でも虎の意を借りている狐の方になってしまう状況に置かれているとも言えます。
たとえば自己啓発本を読みtwitterで作者に直接にコメントをして、そのコメントがRTされたりコメントに言及されたり、作者からフォローされたりして有頂天になってイキる意識高い系の人は、まさに虎の威を借りた狐そのものであり、見ていて何とも言えない気持ちになることが多いものです。
一昔前なら、本の作者と交流できるのは、ハガキを出したりサイン会に行くぐらいしか方法がなかったのに、現在はSNS上で手軽且つスピーディーに交流ができる時代。
もちろん「本を出版した」という社会的な権威を持つ人と簡単に繋がれる時代になったことは、それはそれで魅力的であり決して悪いものではないと思います。
しかし、その一方で社会的な権威を持つ人と簡単に交流できるようになったことで、他人の権威を借りて下手にプライドを肥大化させてしまいかねない時代になっている。
そんな時代に自分が生きているいう自覚を持たないまま、下手にプライドばかりが高くなっている自分に気づけない姿を想像すると、末恐ろしくなります。
今自分が生きている時代が、虎の意を借りる狐になりかねない時代であると自覚することが、プライドが高すぎて自分も他人も苦労するハメにならないためには大事だと感じる次第です。
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※1:なお、他罰的の対義語は「自罰的」。心理学用語の「外的統制型」も他罰的な言動と共通するものが多い。