コミュニケーション全般が苦手、あるいは他人と意思疎通をすることに多大なストレスを感じるからこそ、あえて職場にて孤立を選ぶコミュ障の人は少なくないと思います。
孤立しているので、人間関係の煩わしさからは開放されるかもしれません。だがしかし、一方では孤立していることにより、職務上の不利益を被ったり、他の人の手を煩わせてしまう…といった別の問題が出てくることは自覚しておかなければいけません。
また、いくらコミュ障で孤立しているけど仕事はきっちりやって成果を出しているとしても、上司や先輩から見れば、新人を育てる役には向かない人と見られて昇進から遠のいたり、「上手く言葉にできないけど、自分とは違う嫌なやつだ」と嫌悪感を持たれてしまう原因にもなります。
今回は、そんなコミュ障の人が職場で孤立すると起きる厄介な問題等について、お話いたします。
コミュ障が職場で孤立するとまずい理由
コミュニケーションコストが高い人とみなされ、扱いづらさが増す
コミュ障の人たちが煙たがられる理由として、コミュケーションにかける労力(コスト)が普通にコミュニケーションができる人と比較して大きいこと。そして、大きな労力が必要な割には、その労力に見合うだけの報酬が普通にコミュニケーションできる人達と良くて同じかそれ以下であること。
つまり、普通に意思疎通できる人達と同じかそれ以下の働きぐらいしか期待できないのにもかかわらず、その働きを引き出すためには普通に意思疎通できる人達以上の労力を要するコスパの悪さが、煙たがられる理由です。
それに加えて、孤立しており更にコミュニケーションにかける労力を要する立場になれば、ますますコスパが悪い人間とみなされて、煙たがれてしまいます。
…なお、人間に「コスパ」という概念を適用すること自体、なんだかディストピアなことのように感じますが、こと仕事という利益や効率を追求する立場に立って考えると…
- コミュ障の人のようにかける労力の割には成果は並以下しか出せない人。
- コミュニケーション能力がありコスパの良い意思疎通ができる人
とを比較すれば、後者の方が円滑に仕事を進められる見込みが高まるので、コミュ障の人よりも好まれるのも容易に想像できるでしょう。
余談ですが、よくネット上では「就活生にコミュニケーション能力を求める企業は考え方を改めたほうがいい」という類の意見が、就活のシーズンになると話題になるものです。
これに関して、さきほど触れたコミュニケーションコストの概念をもとに考えると、企業が無駄な労力を消費せず効率よく利益を出したいからこそ、意思疎通のコスパが良い人…つまり、コミュニケーション能力のある人を求めていると考えると、下手にコミュ障を取ろうとせずコミュ強人材を求める企業の姿勢に対して、同意できるものがあると感じます。
仕事でミスが起きた時の発見が手遅れになりやすい
コミュ障の人に多いのが
- 仕事で質問が必要な場面が生じるも、他人に質問できない。
- 質問しないまま、自分で勝手に仕事を進めてしまう。
- 勝手に仕事を進めたことが原因でミスが悪化。早期発見できていれば防げたミスを大事にしてしまう。
- 勝手に仕事を進めて問題なくいけば、それに味をしめて、また同じように(1)、(2)を繰り返し、やがて(3)を辿る。
という、ミスを早期発見どころか大きくしてしまう仕事の進め方をすることです。
質問することに対して、過度な緊張や不安を感じてしまうと同時に、質問しない方向で上手くいく方法を探ってしまう悪い癖がついてしまうことで、コミュ障の人は仕事の能率が下がったり、他の人に余計かつ大きな尻拭いをさせてしまうのです。
そして、この状況に孤立が加わると、ますますミスの早期発見&対処が難しくなるのは、容易にイメージできることでしょう。
孤立しているので、コミュ障の人のしている仕事っぷりを自然と見れる人はまずいない。コミュ障の人もその状況が好都合に感じてしまい、不都合なことがあってもとりあえずで仕事を進めてしまう。
しかし、この進め方こそ小さなミスを小さな状態のときに対処して防ぐという、当たり前の働き方を手放し、自分で自分の評価を下げても仕方がないような働きっぷりをしてしまうために、関わる人からすれば非常に煙たがられてしまう原因になります。
「新人を育てられる人」とみなされなくなるリスクが高まる
コミュニケーションコストが大きいことは、「上司→コミュ障の部下・新人」という立場関係に限らず「コミュ障の上司→部下・新人」の時でも問題視されてしまいます。
率直に言えば、コミュニケーションが苦手なだけでなく孤立までしている…そんな意思疎通を図る上で問題が多い人に対して、新人育成を安心して任せられるとは言えないことは、コミュ障の人にとっては非常に突き刺さる言葉かと思います。
組織の一員として働いている以上、いつまでも下っ端としてただ自分に与えられた仕事を淡々とこなして働き方を覚えるだけではなく、いずれは新人の育成を任せられるだけの人間になることが求められます。
しかし、コミュ障の人の場合、人に何かを教わるだけでなく、人に何かを教えるときでもコミュ障っぷりを発動するので、新人を上手く育てられない可能性が高い。それに孤立している状況が加われば、ますます「新人を育てる役割は任せられない」とみなされるリスクが高まります。
コミュニケーション能力が磨かれず、職場内外で問題を引き起こす
職場内にて孤立していることが原因となって、コミュニケーション能力が自然と磨かれることは少なくなる。
相手に余計な負担や手間をかけない会話や振る舞い方は磨かれず、ミスを早期発見する術も身につかないどころか「質問しない」ことで乗り切る悪い癖がつく。
そんな状態で、職場内の人だけでなく職場外の人と関わる時にも、失礼な態度を取ってしまったり、防げたはずのミスを誘引してしまう。だからこそ、少なくとも職場にて孤立せず、最低限度のコミュニケーション能力を磨く必要があります。
病気になった時に強い不安を味わう
仕事と直接の関係はありませんが、コミュ障の人でも健康であれば多少今の職場で孤立していようとも精神的にタフでいられるものです。
しかし、インフルエンザのように職場を休まなければならなくなった時に、普段から孤立しているがゆえに誰からも心配の声もかからない状況を招く。
その状況のあまりの辛さに、自分でコミュ障かつ孤立を受け入れてた過去の自分の呪いたくなる衝動に駆られることになります。
もちろん、これは言い換えれば「コミュ障でも健康でさえあればどうにかなる」という考えを導けなくはないかもしれません。
しかし、健康が悪化した時に、誰にも心配されず「咳をしても一人」という状況に耐えることを選ぶぐらいなら、普段から最低限のコミュニケーションはとっておき、孤立死もとい孤独死しない生き方を選んでおいたほうが、自分の中での安心感は増すと強く感じます。
孤立することで冷遇される心理メカニズム
コミュ障の人によくあるのが、「自分はコミュ障だから、(集団内の)他人に迷惑をかけないように、なるべく他人と関わるのはよそう…」と、衝突を起こさないために孤立を選ぶものの、結果として冷遇されたり、嫌な雰囲気を作ってしまったり、変に警戒心を持たれてお互いギスギスした関係になるという類の経験です。
積極的に相手に対して何もしてないのに、そのことが原因で疎まれるのはなんだか納得できないかもしれませんが、この現象は心理学用語の「内集団」と「外集団」で説明できます。
内集団とは自分が所属している集団を、外集団とは自分が所属している集団のことを指しますが、なにもこの集団は会社という明確な組織の区分に限らず、
- 同じ会社の一員で仲がいい人たち(=内集団)
- 同じ会社の一員だが、さほど仲よくないor仲が悪い人たち(=外集団)
と、社会的に見れば同じ集団の一員であっても、その集団内でも細かく内集団と外集団の二つに分かれることがあります。(学校・職場内の派閥争いも、原理はこれと同じ)
そして、人間は内集団とみなした相手に対しては、過大な評価をしてしまう(=内集団ひいき)、一方で外集団とみなした相手に対しては過小な評価をしてしまいます。(=外集団ひいき)
たとえ、仕事でいい成果を出していても、職場内で孤立していて同じ職場の人からは「あの人は自分とは違う人間である(=外集団である)」と思われてしまうと、いくら成果を上げていようと過小評価されてしまう。
また、迷惑をかけないようにあえて孤立を選んでいたとしても、そもそも接点のない人を自分と同じ集団の大事な一員(=内集団)であるとは見れず、外集団とみなされてしまう。
外集団とみなされてしまえば、たとえ何も迷惑をかけていないとしても、過小評価を受けてしまい、自然と職場に居づらさを感じてしまうのです。
ただし、このことは言い換えればコミュ障であっても内集団とみなされれば、コミュ障という悪材料を打ち消せるだけの、大きな評価を得られる見込みがあるとも言えます。
コミュ障であってもコミュ力を磨いて組織の一員とみなされることは、自分を内集団の一員とみなしてもらい、文字通り贔屓目で見てもらって人間関係を上手く渡り歩くためには、大事なことなのです。
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