自分のことを肯定してくれる人。つまり、自分のことを褒めたり、応援したり、同意してくれたり…など、どんな時でも自分の主張や生き様を肯定してくれて、決して指摘や非難の声を出さない人というのは、たいへんありがたく心強い存在のように感じることが多いでしょう。
しかし、一方でどんな時でも肯定する人からは、どこか本心が見えないというか、自分を持っていないように見えて妙な感情を抱いてしまう。優しく応援されているように見えて実は軽くあしらわれているのではないか、と疑心暗鬼になることもあるものです。
また、肯定ばかりする人を見ていると、DV彼氏を支える彼女の関係のように、共依存関係を生み出しかねない危うさを感じてしまう。相手が反省すべき点から逃げようとする行為そのものまでも肯定してしまい、いつまでたっても反省の機会を与えなかった結果、堕落させてしまう…という危うさも感じます
今回は、そんな肯定ばかりする人に感じる違和感の心理について、お話しいたします。
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肯定ばかりする人に感じる違和感、不気味さ
その人の意見や本心が見えなくて不気味
いつも肯定してくる人は、人当たりはよいものの、基本的に「肯定的」な意見ばかりしか見せない。そのため、その人が持つ本音の意見や主張が見えてきにくく、どことなく付き合いづらいというか、不気味さを感じてしまうものです。
たまには、否定的or中立的な意見を言ったり、肯定でも否定でも中立でもない微妙な意見で複雑な意見など、別の意見を口にしてくれれば、その人がどんな考えをしているのか…という、個性の部分が見えてきて親近感が沸くのですが、肯定ばかりする人にはそれがありません。
また、表面的には肯定的な言葉を口にしているので付き合いやすい人という印象を受ける。しかし、肯定しかしない不気味さも感じて、どこか付き合いづらいという、相反する印象も感じる。
こうした、二つに相反する認知が不協和を起こしてしまったたことで、何とも言えない不快感を感じる。つまり、認知的不協和を抱かせているのだと考えることもできます。
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褒めることで他人をコントロールしているように見えて違和感を覚える
自分に対して肯定的な言葉を口にしているように見えて、実は相手が喜ぶような言葉ばかりを口にすることで、相手をおだてて、調子づかせて、自分の手のひらの上でコントロールしているように見えてしまう。
つまり、ゴマすりとして肯定的な言葉を口にしているように見えることが、違和感を覚える原因だと考えられます。
なお、一般的に褒めるといえば、相手をコントロールする、支配するというような邪悪さを想起させるイメージを持つことはまずないでしょう。
しかし、相手の感情を揺さぶってコントロールするという点では、褒めたり同意を示すことや、怒りや恐怖を相手に与えることも、根本的には同じと言えます。
不快感で他人をコントロールすることについては、多くの人が否定的な意見を持つものの、快感で他人をコントロールすることについては、多くの人が肯定的に見てしまう、あるいは、問題ないものと捉えてしまう点については、知っておいて損は無いと思います。
他人に精神的に依存しているように見えて辛くなる
やたら肯定ばかりしてくる人を見ていると、肯定する対象の人に気に入られたい、認められたい、必要とされたい…など、他人に対する精神的な依存心の強さを持っているように見え、辛くなってしまうことがあるものです。
上でも触れた「本心が見えないこと」に通ずるものではありますが、確固たる自分がない、あるいは非常に不安定な自我のせいで苦しんでいる。その苦しみから逃れるために、誰かを必死に肯定することで得られる、「誰かに必要とされる自分像(アイデンティティ)」を必死に求めているのだと感じます。
もちろん、誰にも必要とされていない生き方は苦しくしんどいものではありますが、かと言って、誰かから必要とされることでしか自我を保てない生き方もまた、あまり自由とは呼べず、窮屈な生き方であると感じます。
ダメ人間を製造しているように見えて怖い
いわゆる、DVを振るう彼氏につい献身的になり、よりダメ男っぷりを後押しする彼女のように、誰かを肯定ばかりしてしまう人の行動には、肯定している人を付け上がらせてしまい、結果としてダメ人間を育ててしまうような怖さを感じます。
なお、ここでいう怖さは
- 肯定される方は、自分の過ちやいたらなさといつまでも向き合うことなく、反省もしなければ改善もせず、自ら堕落と破滅への一途をたどっていることに気づきにくくなること。
- 肯定する方は、「自分はいいことをやっている」という自覚があるために、他人を肯定する行為の負の側面に気づかきにくくなる。悪いことではなく、いいことをやっている分、自分の行動が正しいと信じ込んで、自分の行動を疑わなくなってしまう。
- 加えて肯定する方は、相手への優しさが仇となり、相手がダメになればなるほど、自分の存在意義を感じる状況を手に入れてしまうという皮肉。
など、「共依存」や「イネーブラー」の概念や関係性について知っている人なら感じるような、ゾッとするような怖さです。
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善意で他人を破滅に追い込みかねない危うさが怖い
ダメ人間製造云々からの続きになりますが「地獄への道は善意で舗装されている」という、海外のことわざにもあるように、他人を肯定して応援しているように見えて、実は応援している人を破滅へと追い込むような危うい行為をしているように見えるからこそ、肯定ばかりする人には不気味さを感じてしまうのです。
仮に、その人が地獄へ落ちるような目にあっても、肯定して更に底の深い地獄へと追い込みかねない。善意でいいことをやっているという認識があるがゆえに、例え肯定している相手がどんなに困った状態になっても、自らがやっている「肯定ばかりすること」の問題点に気づくのが難しい。
まさに、友達のように見えて実は友達を貶める敵という意味を持つ造語「フレネミー」のように、肯定ばかりする人が持つえげつなさが、違和感を抱かせているのだと考えられます。
自分がされて嬉しいことが相手も嬉しいとは限らないことについて
よりよい人間関係を送るためのコツとして「自分がされて嫌なことは他人にしない。自分がされて嬉しいことは他人にする。」という言説を見聞きした人は多いかと思います。
この言葉は、孔子の『論語』の
- 「己の欲せざる所は人に施す勿れ」
- 「己の欲する所を人に施せ」
が元ネタではありますが、肯定ばかりする人に感じる違和感を踏まえると、絶対的に正しいものではないと感じます。
確かに、自分から他人から肯定されるという経験はされると嬉しいものですが、かと言って肯定ばかりされていては、相手に不気味さを感じて付き合いづらくなる。また、褒められてばかりで図に乗ってしまい、ヘマを起こして相手に迷惑をかけてしまう可能性もある。
よりよい人間関係を築くためには、自分がされて嬉しい「肯定すること」だけをやるのではなく、バランスよく肯定したり、ときには否定したりもする。
つまり、肯定・否定をバランスよく行ったり、場合によっては中立的な意見を出すなど、柔軟に対応することを忘れてはいけないと思う今日この頃です。
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