大人になった今、自分の子供時代(だいたい小学生の頃)を振り返ると、やたら自己肯定感が高かったというか、大人の自分では考えられないほどに、ポジティブであり、行動力があり、自信とやる気に満ち溢れ、先行きの不安や恐怖をものともせず、毎日充実した生活を過ごしていたように感じた。
しかし、大人になった現在は、子供の時のような自己肯定感の高さは無くなり、物事を否定的且つひねくれた目で見てしまい、行動力はお世辞にもなく、将来の不透明さを前にして自信のなさが災いし、現状維持の姿勢を貫くほかない。
子供の頃の自分と大人になった現在の自分の自己肯定感のあまりもの変わりっぷりに、自分で自分が嫌になる…という経験をしている人は、珍しいことではないと感じます。
今回は、そんな子供の時の高すぎる自己肯定感に関する考察などについて、お話しいたします。
目次
子供の時の高い自己肯定感=幼児的万能感という仮説
子供のときの「自分は願いさえすれば何にでもなれると感じていたし、自分には不可能なことなどない!」と、まるでナポレオンの名言を彷彿とさせるような高すぎる自己肯定感は、心理学では幼児的万能感であると解釈できます。
幼児的万能感とは、思春期以前に感じていた万能感のこと。幼児的万能感は、子供自身が万能感を生み出しているのではなく、親の愛情・期待・加護など、親の働きかけにより、子供が持つ万能感とされています。
親の愛情などが土台になっているため、(実際に実現できるかどうかはさておき)親から十分無愛情を受けいているのであれば、幼児的万能感は生み出される。
そして、現実において何かに挑戦したが失敗することがあっても、幼児的万能感の土台となっている親の愛情を再び受けることがあれば、精神的に立ち直れるとされています。
また、その性質上、親から過度な愛情を受けたり、大きな期待をかけられると、それに応じて幼児的万能感も強まります。
未就学児・小学生の子供が妙に自信満々な態度を取ったり、自己肯定感の高さをアピールすること自体は、親から十分な愛情を受けていることの現れとも解釈できます。
自己肯定感が高すぎるからといって「この子は何かよその子とは違う問題を抱えているのだろうか?」と過剰に疑う必要性は、そこまでないといえるでしょう。
(※そこまでないと言ったのは、アダルトチルドレンのとる行動の一つに、親の期待に応え続ける「良い子」を演じる場合があるから…と、一応補足。)
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子供の時の高い自己肯定感が無くなる理由・背景
子供の頃に感じていた幼児的万能感は、思春期に差し掛かり親から精神的に自立するときに、修正を余儀なくされます。
思春期になれば、親の言うことに反発したり、親ではなく自分が感じていることや意見を主張しだす時期であり、以前のように親の愛情などを土台にしていた自己肯定感(=幼児的万能感)を持ちづらくなる時期です。
その代わりに、思春期では数々の挫折や失敗経験を通して、現実の世界に基づいた妥当な自己肯定感を育んでいく時期でもあります。そして、この時に身につけた自己肯定感こそ、大人になった自分を精神的に支える軸となります。
…とは言え、今まで親の愛情を元にしていた自己肯定感の崩壊は、思春期の子供にとってはそう簡単に乗り越えられるものではありません。
以前のように親の愛情にすがろうとしても、親に反発したい気持ちや親のいいなりになるのは避けたい気持ちもあり、強い葛藤を覚える。
また、子供の時の高すぎる自己肯定感は、所詮は現実世界に基づいていないものなので、かつて自分が抱いていた将来の夢や自分像を否定する苦痛を味わったり、自分は自分で思っていたほど優秀で才能のある人間ではないという、挫折を味わう辛さもあります。
しかし、今までの高すぎる自己肯定感が崩れることは、上でも触れたように、現実に基づいた妥当な自己肯定感を身につけていくため欠かせないプロセスです。
最初は多くの苦痛や葛藤を伴いますが、その中で現実の世界における自分の長所や個性を理解したり、自分に出来る事と出来ない事の違いを理解したり、仮に出来ないと思っていることでも、どのような勉強や訓練を重ねればできるようになるか…という、現実に基づいた自分らしさ、自分の将来の姿を考えることにつながります。
こうした挫折を味わうことは、精神的な幼さを卒業し、成熟した大人になっていくための通過儀礼といえるでしょう。
子供の時の高い自己肯定感が無くなることは落ち込むことではない
精神的な成熟を果たした結果として、子供の時に抱いていた高すぎる自己肯定感が消失してしまうことは、決して恥ずべきことでも卑下することでもなく、むしろ安心すべきことでしょう。
もしも、子供の時の高すぎる自己肯定感が大人になっても残っていたとすれば、現実離れした万能感を振り回して他人と衝突を起こす、はた迷惑な大人になってしまう。
また、「自分が万能ではない」という事実に直面した結果、仕事で果たすべき責任を放棄してしまったり、根気強さや我慢強さがまるでない、ダダをこねる子供みたいない大人になってしまっては、大恥をかくどころか社会人生活そのものが送れなくなる危険性があります。
それと比較すると、思春期を経て妥当な自己肯定感を身につけている人というのは、子供の頃のような高揚感や、周囲の人を惹きつけるような影響力こそないにしても、社会と折り合う術を獲得した、成熟した精神を持つ大人として、安心して社会に加われます。
また、「自分は万能ではなく、出来ない事や苦手な事もある」という自覚があるからこそ、いつ用があれば他人の力を頼り、世の中を上手く渡り歩くこともできます。
など、突出した才能や実力があり、なんでもできる大人と比較すると、こうした生き方は華やかさに乏しく、どうしても劣等感を感じざるを得ない生き方かもしれません。
とくに、ネットやSNS全盛の現代では、自分と同世代の人なのに、自分よりも才能も実力もありエネルギッシュな人を見かけると、どうしても自分のような平凡で妥当な自己肯定感しか身につけられない生き方に、コンプレックスを感じるのも無理はないように感じます。
しかし、かと言って現実に即さない自己肯定感を無理に身に付けようとするのは、自ら精神的な退行しているとも言え、決して推奨できるものとは言えません。
子供の時のような高すぎる自己肯定感を、大人になって再び身につけようものなら、他人(もちろん大人)と衝突したり、現実離れした自己肯定感のせいで奇行に出て大恥をかく危険性があります。
また、高すぎる自己肯定感のせいで自尊心が肥大化し、他人を見下すような傲慢な態度に出てしまったり、「自分は優れた人間なので、特別扱いされて当然だ」という特権意識を持った自己愛の強い人間になってしまう…つまり、自己愛性パーソナリティ障害を招く可能性も否定できません。
余談 自己肯定感を高めることが大事とされる昨今の風潮に感じる危惧
最後に、近頃は何かにつけて、自己肯定感を付ける事が絶対的に良い事とされる。それに加えて、妥当な自己肯定感ですらも「そのままでは良くない」と言われて、無理やり上げることが良しとされる風潮が出来ているように感じます。
もちろん、低すぎる自己肯定感ならわかりますが、妥当な自己肯定感ですらもNGとする動きには危惧を覚えます。
自己肯定感とは、誰かと競争して優劣を付けるための指標ではありませんし、高いor低いの二者択一で括れるほど、単純なものではないと思います。
くれぐれも、妥当な自己肯定感を持つ人までも、変な焦りや違和感を持つような世の中にはなって欲しくない…と感じる、今日この頃でございます。
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