「コミュ障」といえば、あまりポジティブな文脈で使われる事がない言葉のように感じます。
そして、ただ純粋に、人と上手く話すのが苦手、小声やどもり、赤面のせいで「話しづらい人」という印象がつくだけでなく「性格が悪い」という印象がついてしまい、余計に会話を取りづらくなる事が、コミュ障な人にはよくあることだと思います。
なお、ここでいう性格が悪いと言ってもその解釈の仕方は(コミュ障同様に)人によってバラバラであり、解釈が別れやすいために、
- ひねくれている
- 距離感の取り方がおかしい
- 自己中心的である
- 自分に甘く他人に厳しい
というものだとした上で「コミュ障は性格が悪い」と思われてしまう原因・背景について、お話しいたします
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「性格が悪い」と思われてしまうコミュ障な行動の例
無口、無表情、無愛想のせいで印象が悪くなる
コミュ障な人は会話を始める以前から、既に話辛い雰囲気や態度をとっている事があるものです。
- 普段から無口でどんなことに興味や関心を持っているのか外からわかりづらい。
- 感情をあまり表に出さない、無表情のせいでなんとなく話しかけづらい。
など、和やかな会話をする対象としては、どこかとっつきづらくて話しかけるための心理的なハードルが高い事が影響して、周囲から孤立してしまうのです。
また、仮に話しかけたとしても、無愛想なせいで本当に会話を楽しんでいるのかがわかりにくかったり、無愛想な事がきっかけとなって場の空気が白けてしまいやすいために、会話が続けにくい事が見られるます。
こうした、無口、無表情、無愛想であることは、コミュニケーション時に相手にかけてしまう精神的な負担が大きい。つまり、相手に余計な心理的コストをかけてしまうので、「コミュニケーションコストが高い人」と思われ、敬遠されてしまうのです。
また一度「この人は話かけづいらいし、話も続けにくい人」と悪印象を持たれてしまうと、何度かあっても悪印象が払拭されずに、余計に悪印象が強まる現象…つまり、「単純接触効果の逆効果」が起きていると考えることもできます。
単純接触効果は、顔を合わせる回数が増えれば増えるほど相手に親しみを覚える現象ですが、単純接触効果の逆効果は、そもそも相手に好意を抱いていない場合は、会えば会うほど苦手意識やめんどくささが増す(身も蓋もない)現象です。
コミュ障の人が否定的なイメージで見られつつ、そして何度目にしてもそのイメージが好転しない理由は、単純接触効果の逆効果によるものも一因かもしれません。
ジレンマを抱えると同時に、それを他人にぶつけて巻き込む
コミュ障なせいで集団から浮いて孤独に襲われるものの、決して孤独になりたいからなったわけではない。むしろ、集団から認められて一員になりたいという気持ちを抱えています。
こうした「孤独は嫌だ。でも、誰かと一緒にいるのも面倒」というジレンマを抱えているだけでなく、そのジレンマを解消できないことで他人に当たったり、他人を振り回したりするために嫌われてしまうのです。
また、こうしたジレンマはコミュ障に限らず、ふつうにコミュニケーションができている人でも多かれ抱いているものですが、そのことをTPOをわきまえずに態度や行動に出してしまう事が反感や嫌悪感を持たれる原因になります。
「自分も『孤独は嫌だ。でも、誰かと一緒にいるのも面倒』というジレンマは抱えているけど、それを自分の中だけで処理して外に漏れないように我慢しているのに、あいつは平気で他人にぶつけているのでイラっとする」といった気持ちが、コミュ障は性格が悪いと思われる一因を担っていると考えられます。
肥大化したプライドで他人を見下してしまう
コミュ障というネガティブに見られる要素を自分が持っている、ということを自覚する苦痛から逃れるために
- 自分の周囲で行われている程度の低いコミュニケーションはもう飽きている。
- コミュ力でしか人を判断することができない人間は、人を本質的に見る目を持っていない。
- 俺(私)の話題のレベルが高すぎるから、他の人と話が合わないだけ。(=暗に周囲を低レベルと決めつけている)
と、自分以外の周囲を見下し、相対的に自分を持ちあげる言動を取って、自分を肯定的に捉えようと認知を歪めます。
見下した上で自分をもちあげる行為は、現実離れした肥大化したプライドが垣間見ええて見るのが痛々しい、どことなくナルシストのような自惚れや思い上がりを感じさせるので、好意的に解釈されることは少ないのと同時に、反感を持たれるせいで余計に孤立を招きます。
また、見下す対象は、いわゆるコミュ力堪能なリア充やコミュ強者に限らず、自分と同じコミュ障も含みます。
コミュ障という自分にとって見たくないもの、不都合に感じる要素を持っている相手だからこそ、仲良くなる対象ではなく、同族嫌悪の対象となってしまうのです。
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他人が話している内容を否定している割には、その自覚が見られない
「コミュ障は性格が悪い」と思われてしまう一因として、会話の空気の読めなさ、およびそのことを自覚できていない事が挙げられます。
例えば、コミュ障以外の人が話している話題に対して、コミュ障の人がその話題の腰を折るような否定的な意見や極論を出してしまう。(=空気の読めなさ)
当然ながら、話題はそこで終わってしまい、なんとなく後味の悪く困惑している様子を感じさせる雰囲気が広まっているのにもかかわらず、場の空気を崩した当人には、自分がやらかした自覚が見られないところが「性格の悪さ」というイメージにつながるのです。
この現象は、いわゆる「よく話して喋るタイプのコミュ障」によく見られます。話すタイプのコミュ障は、傍から見ると会話に加わって積極的にコミュニケーションをしているように見えて、
- 自分がしゃべりたいことをしゃべっているだけ。
- 相手に話をさせようという気配りや心配りが乏しい。
- その場の空気を読まず、話題を自分色に染めたがる。
といった、自己中心的な側面が強く「性格が悪い」と思われてしまいがちです。
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クズ、自己中、無神経の言い換えとしての「コミュ障」
コミュ障という言葉が、単にコミュニケーションが苦手なことではなく、文脈によっては「クズ」「自己中」「無神経」などの言葉をソフトに表現に変換する目的として使われることもあります。
上の例で触れた、話題の腰を負った挙句そのことを自覚も反省もしない態度は、コミュ障というソフトな言葉では到底カバーできず、場合によってはクズだの、無神経だの、社会不適合者だのという強い否定的なニュアンスを持つ言葉で説明した方が妥当かもしれません。
場合によっては「流石にそれはクズで自己中では?」と言いたくなる衝動に駆られる事があるかもしれません。
しかし、衝動に駆られたからと言って、そのままストレートに口にしてしまえば、相手を傷つけてしまうリスクもあると同時に、そんな辛辣な言葉を口走る自分のイメージが悪化してしまう恐れもあります。(毒舌キャラでもなければ、辛辣な言葉は思いついてもなかなか言えないもの…)
とは言え、見過ごすわけにはいかず、なんとかソフトな表現でやんわりと毒づく伝える方法がないかと模索しているときに「コミュ障」という言葉は役立ちます。
今や、コミュ障という言葉は年代によっては「私コミュ障でして…」挨拶がわりに使われるほど一般化。そして「クズ」とか「自己中」に比べれば、まだ否定的なニュアンスがマシな言葉ともいえます。
コミュ障を免罪符にして自己正当化をするリスク
こうした背景を知っているのかどうかはさておき、自分のクズや自己中心的な側面を「私コミュ障だから…」という言葉で自己正当化し続けるのは、メリットばかりとは言えません。
コミュ障よりもひどい、クズな部分があるのにもかかわらず、なんとなくソフトな印象の「コミュ障」と言い換えて、自分の中で改善すべきクズな部分を放置し続ければ、本格的にクズな自分を悪化させてしまう危険性があります。
また、クズが悪化しても「自分は(クズではなくて)コミュ障だから…」と、現実の自分を客観的に把握できていないことも相まって、クズな部分が改善の対象とはならない、むしろクズなままでも「これはクズではなくてコミュしょうなだけだから」と自分をとことん甘やかしてしまいます。
自分のクズな部分にしっかり向き合うことは、決して楽なものではありませんし、精神的な苦痛も多いでしょうが「コミュ障」という性格の悪さを都合よく覆い隠してくれる言葉に頼らず、ありのままの自分を見ていくことは、長い目で見ればコミュしょうな自分を改善するのに役立つとおもいます。
…こうして見ると、コミュ障とは単純に他人とのコミュニケーションが苦手なだけでなく、自分自身とのコミュニケーションも苦手で避けてばかりいることも、一因を担っているように感じます。
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