自分は優しい人ですよ、親しみやすい人ですよ、人徳がある人ですよ…と、いい人アピールをしてくる人に対して、なんとなく違和感を覚えたり「正直うざいなぁ…」と感じる人は、きっと少なくないと思います。
「いい人」と自称するものの、傍から見ればいい人というよりは打算的・偽善的で、いい人であることの説得力に乏しい。率直に言えば、いい人のフリをしているだけで、どうも嘘くさく見えて関わりづらさを感じてしまう。
今回は、そんないい人アピールをする人に感じる、嫌悪感や違和感の招待についてお話いたします。
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いい人アピールする人がうざい、苦手と感じる心理
誰にでもいい顔をする人に見えて、本心が見えない不気味さがある
いい人だと自負している人には、その自負に違わず誰かと口論することもなく、他人への気遣いもできて、非常に円滑且つ温厚な人間関係を作り上げる事に長けている人がいるものです。(大げさかもしれませんが)まさに聖人君子と言ってもいいかもしれません。
しかし、その一方で誰にでもいい顔をする人のようにも見えてしまい、人によって自分の意見や態度を容易く変えてしまう。相手の本心がまるで見えこない、不気味さから近寄りがたく感じてしまうのです。
友達はいるけど親友はいないという人のように、誰かとうまく交流をすることはできるけど、それ以上の仲に進展することは無い人と同じく、ある一定ラインまでしか他人に心を開いていないことが、いい人アピールをする人にも見られます。
なお、ある一定ラインまでしか他人を寄せ付けないのは、いい人に見られたいという願望の強さ故に、自分の率直な意見を述べたり、素直な感情を出すことに抵抗感が強いことが原因として考えられます。
仮に自分の意見を述べているように見えても、それは自分と関わりのある人が求めているような言葉を気を使って口にしているだけであり、決して自分の本心を言っているとは言えない。親し見やすさを抱かせると同時に、近寄りがたさも抱かせてしまうという、相反する感情を他人に抱かせてしまうために、妙に関わりづらい人だと見られてしまうのです。
いい人に見られるためなら他人を利用する姿勢にモヤっとする
自分をいい人だと見せるために、たとえば子供や女性、お年寄りなどの他者の存在を平気で利する姿勢も、「いい人なのだろうけどやっぱり嫌いだ」と他人に抱かせる原因になります。
いい人アピールをする時に多いのが「困っている人を助けた」というエピソードをもとにして、以下に自分が善人であるかをアピールすることです。
しかし、助けられた人によっては、自分が他人から助けられた経験を恥ずかしいことだと思っていたり、あまり他人に知らせて欲しくないという願望があるものです。
たとえば、いじめから守ってくれたというエピソードにしても、助けられた方からすればまだいじめの傷が癒えておらず、その話題を使われる事は避けたいと思っている。たとえ助けた人が勝手にするアピールであっても、その人のせいで自分がいじめられていたことを不特定多数の人にばらされる事については、快く思っていないこともあるものです。
そんな気持ちを知ってか知らないでか、いい人アピールをする人は、自分が助けたと自負している人の気持ちを無視して、自分をよく見せるために他人を利用しているように見える。おそらくいい人なのだが、一方で他人への思いやりや配慮が足りておらず無神経な人のようにも見えて、モヤッとして気持ちになるのです。
(守秘義務もあるが)警察が困った人を助けたことをベラベラと口にして自慢しないのと同じで、いい人だと見せたいのなら、自分と関わりのある他者を思いやる気持ちを持つことが大事だと感じます。
ただの小さな親切、余計なお世話をしているから
いい人アピールをする人に見られるのが、自分ではいいことをしているように感じてはいるものの、その実態はただの小さな親切、余計なお世話でしかなく、がっかり感が拭えないというケースです。
必要もないのに他人のやることなすことに口を挟んでお節介をしてしまう。他人から「めんどくさいなぁ」と思われているものの、親切心でやっているので拒めない。
そんな事情をいいことに、「自分はいいことをやっている!」と勘違いを強めて、ますますいい人であろうとしてしまうからこそ、疎まれてしまうのです。
また、なんでもお節介をしてくる人は、言い換えれば他人を軽く見ているとも言えます。
他人を過小評価していて「この人は(能力が低いから)私が助け舟を出さなければ…」と使命感を抱いて、つい手助けしてしまう。
傍目にはいい人に見えるかもしれませんが、悪く言えば他人を見下していると思われても仕方ない行動をしているので、関わる人から煙たがられてしまうのです。
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自己保身のためにいい人ぶる姿勢に余裕のなさを感じてしまう
必然性もなく「私はいい人ですよ!」とアピールしてくる人と関わっていると、どことなく精神的に余裕がなさそうに見えて、見てるこっちも落ち着かないというか、妙な気持ちになることがあります。
いい人に見られる事に必死になる裏では…
- 他人から嫌われることへの過剰な恐怖感。
- 批判されることへの過剰な忌避感。
など、人間関係の和を乱さない事に強くこだわっていることがあります。しかし、これは見方を変えれば、自己保身をすることに必死になっているように見えます。
自分のことで手一杯にもかかわらず、表面的に見せる「自分は他人のことを思いやれるいい人ですよ」というアピールそのものに矛盾を感じる…このことが、いい人アピールに対する違和感を招いているのだと考えられます。
言動に一貫性がない
誰にでも優しい人にも共通することですが、いい人だと見られるために、その場その場で意見や立場を変えて、発言に一貫性がないことが、違和感を抱かせる原因になります。
他人と衝突を避けるためにも、他人が気に入りそうな発言・態度で振舞うことは上手。
しかし、いい人アピールをする人の態度は、その人が関わる人によってコロコロ変わるため、上でも触れたように本心と呼べるものは見えて来ず、言動への一貫性がなく信用されにくいのが特徴的です。
なお、こうした一貫性のなさは、上手く言えば上へのゴマすりがうまいとも言えます。しかし、ゴマすりをして自分に便宜を図ってもらうことを期待している人が、果たして「いい人」と呼べるかは疑問です。
いい人でありたいために自分を大事にしない姿勢が見ていて辛くなる
いい人の中でもとくに、自己犠牲を厭わず身を粉にしてまでもいい人であろうとする人の姿勢もまた、苦手意識を感じさせるものがあります。
当人が納得して自己犠牲をしているとはいえ、自分で自分をしんどい状況に追い込む人を見ると、心が辛くなる。
自己犠牲してまで誰かに尽くすことは素晴らしいとは思いますが、それと同時にもっと自分のこともいたわって欲しいという気持ちを抱いてしまうのです。
しっかり自分の心身をいたわらないままでは、自己犠牲の関係は長続きさせられない。自分は納得しているとは言っても、その行動を見て心を痛めてしまう人もいるということを、余計なお節介かもしれませんが、自己犠牲をしてまでいい人アピールをする人には持っていただきたいと感じます。
心理的リアクタンスから見る「いい人アピール」をする人への反発心
最後にやたら「私はいい人でしょ?」とアピールしてくる人に、反発してしまう心理を心理的リアクタンスという心理学用語を用いて説明します。
心理的リアクタンスとは、自分の態度や行動の自由が脅かされそうになった時に、その自由を取り戻そうとする心理を指す言葉です。他人からある行動を強制されそうな状況になったときに、その状況に反発してしまう心理がこれなのです。
たとえば
- 「絶対に見ないで下さい」と言われると、逆に見たくなってしまう。
- 「いま○○が流行!」と話題になると、○○への興味を失う。
など、自分の行動が制限される状況になると、意地でも反発したくなる心の動きが、心理的リアクタンスです。
これをもとに考えると、やたら「私はいい人でしょ?」とアピールしてくる人は、無意識のうちに自分に対していい人だと同意する行動を求めて来る人。
つまり、自分の自由を制限するように働きかけて来る人のように感じるからこそ、意地でも「いい人と認めるもんか!」と反発してしまうのです。
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