信者ビジネスとは、主に悪いニュアンスで使われる「宗教」のように、ある集団内のトップの人物を崇拝する熱心なファンと、そのファンから金銭・労働力・時間・交友関係などあらゆるものを搾取するトップの人物から成り立つ、グレーなビジネスを指します。
その性質上、マルチ商法、ねずみ講、ネットワークビジネス、怪しい自己啓発セミナーやオンラインサロン、情報商材半倍など、他のグレーな商売との相性の良さが目立ちます。
また、信者ビジネスの温床となる人間関係の構造は、「クリエイターとそのファン」のように、案外身近な場所にも潜んでいるものです。
もちろん、その関係が違法スレスレの段階まで悪化することばかりではありません。しかし、一歩間違えば過激なユーチューバーと、その行動をおもしろがって煽る無責任なファンのような、不穏な関係に発展しかねない…ということが、信者ビジネスの温床となる人間関係の危うさだと感じます。
今回は、そんな信者ビジネスに関して、心理学の知識も交えてお話いたします。
信者ビジネスとは
信者ビジネスとは、ある集団における熱心なファンを、カルト宗教にのめり込む信者と見立てる。そして、集団内にて発言権や権力を握っている人物が、信者から金銭や労働力などを搾取することで成り立っているグレーなビジネスを指します。
「信者」という呼び名でもわかるように、信者ビジネスは普通に行われている健全なビジネスとは違った、ある種の異様さ、非日常的且つ独自の儀式のようにすら見える習慣を持っていることが目立ちます。
たとえば、信者の人がお祈りを捧げるかのように、崇拝している人物が出した本を大量に買うと同時に、多くの人に無理やり広めようとする。なお、この活動は「布教」と表現されることがあります。(うまいこと言いやがって)
しかし、布教活動そのもの熱心っぷりにどこか違和感を覚える人が多い。また、マルチ商法のような胡散臭いビジネスでよく見た光景であるために「怪しいビジネスのカモになったのでは?」と感じる人もいます。
更には、集団内のトップの人物が信者から多額の金銭を搾取するかのような言動に出るだけなく、同時に多額の出費をすることに対して「自己投資or自分磨きのためだ」「自分の幸福に繋がる」など、暗示をかけるように接することがあります。
こうした信者の信仰心とトップたる自分への服従心を強める働きかけをすることが、信者ビジネスの大きな特徴と言えます。
なお、余談ですが「儲ける」という漢字は、「信」と「者」の二文字から成り立っています。この皮肉な豆知識は、信者ビジネスを語る上で欠かせないものであると同時に、信者ビジネスがなんたるかを的確に表現しています。
心理学で見る信者ビジネス
信者ビジネスに関わっている人に関連深いのが、
- 外集団・内集団
- 集団同一視
- 認知的不協和
という、心理学の用語・概念です。以下で詳しく説明していきます。
外集団・内集団
外集団とは、自分が所属しない集団のこと。内集団とは、自分が所属している集団のことを指します。
人間には
- 外集団に所属している人に対しては、自然と低い評価を下してしまう傾向がある。(例:あのグループは劣っている、対したことない、格下だ…など)
- 内集団に所属している人に対しては、自然と高い評価を下してしまう傾向がある。(例:自分のグループは優れている、素晴らしい…など)
と、外・内集団それぞれに対して、偏った評価を下してしまう傾向がある。
そして、このことは信者ビジネスのように、信者と信者ではない人に対する接し方や反応に大きな差が出てくる集団とは、決して無関係ではないように感じます。
信者ビジネスにのめり込む人は、自分が崇拝している人物を偉大な人物であると高く評価したり、自分が所属している集団がどれだけ素晴らしく魅力あふれるものであるかについては、意気揚々と、そして全肯定の姿勢で語る。
一方で、自分が崇拝している対象に興味を示さない人や、崇拝している人物が敵視している人・集団に対しては、妙に辛辣且つ排他的で、全否定な評価を下す傾向があります。
こうした、外(ソト)・内(ウチ)の人に対する極端な姿勢が、信者ビジネスを語る上では外せないと同時に、信者ビジネスが持つ、ある種の異様さの根源であるように感じます。
集団同一視
集団同一視とは、ある集団に所属することが自分にとって心地よく感じてしまう。そして、集団に対して愛着が湧いたり、集団に貢献することに幸福感や満足感を抱く。最終的には「集団=自分」と、自分と集団を一種の運命共同体であると感じる現象を指します。
もちろん、ある集団の一員になることに誇りや満足感を得られることは否定しませんが、信者ビジネスはこの心理を利用し、信者から搾取をすることに応用しているように見える。
つまり、「集団のために身銭や労働力を捧げることは、あなたの幸福にもつながるし、集団の発展にもなるので、積極的に行うべきだ!」と信者を教育し、集団内のトップに立つ人物の私腹を肥やすことを正当化してしまう危うさがあります。
傍から見れば、崇拝している人物から不当な扱いを受けているのにもかかわらず、その事実を受け入れようとしない。それどころか、集団のために自己犠牲をしている熱心な信者になれることに、むしろ満足感を得ているようにも見える。
こうした、「搾取する側」と「搾取される側」の不平等な関係が平然と繰り広げられ、且つ温存しているのが、信者ビジネスにグレーな印象を持たれてしまう大きな理由でしょう。
認知的不協和
認知的不協和とは、相反する認知を抱えてストレスを感じること。そして、その認知の矛盾を解消するために行う行動のことを指します。(なお、矛盾の解消は「認知的不協和の解消」と別名称で呼ばれることもある。)
たとえば、ある貧乏なクリエイターの活動を応援するために有料ファンクラブに入ったが、そのクリエイターが、実はそれなりに裕福そうであることが判明した場合…
- 「自分は貧乏なクリエイターへの支援活動をしている」
- 「しかし、なぜかそのクリエイターは貧乏ではなくむしろ裕福。私の支援は必要なさそうに見える」
という、2つの矛盾した認知を抱えます。もちろん、そのまま矛盾を受け入れようものなら、モヤモヤとした気持ちになることは回避できません。
このモヤモヤこそが認知的不協和であり、この矛盾を解消するために「ファンとしての姿勢を試されている」と、当初の目的を無視して別の価値を見出したり、「裕福に見える部分だけネット上にアップしているだけだ」と、都合よく解釈することで、矛盾の解消を試みようとします。(もちろん、ファンクラブの退会により、矛盾の解消を試みることもある)
このように、信者に対してあえて矛盾するような認知を抱かせると同時に、その矛盾に対してファンとしての姿勢が試されていることをほのめかしたり、自己投資や自分の幸福などモヤモヤを無視させるように別の価値観を提示して、信者の認知を都合よく操作することが、信者ビジネスにはよく見られます。
また、信者ビジネスの性質上、信者になって搾取されてしまう人は、他人の言葉に影響が受けやすく、簡単に暗示にかかってしまいやすいのが特徴的です。なお、暗示にかかりやすいことは、心理学では「被暗示性が高い」と表現します。
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信者ビジネスの問題点について
信者ビジネスの問題点は、搾取労働、不当な労働を信者に行ってしまう。しかし、信者自身が不当であることへの自覚がなかったり、自分は不当な関係を強いられていることを認められず、問題のある関係がそのまま残ってしまうことが問題点として挙げられます。
また、不当な関係が容易く残ってしまうことに目をつけて、マルチ商法や怪しい情報商材などのグレーなビジネスを行う人から見ても、好都合なのが特徴的です。
搾取をされている事実に声を上げないし、自覚することすら拒む…こうした上に立つものに従順な姿勢を持つ人は、まさに悪質なビジネスのいいカモです。
また、たとえ信者候補が金銭的に豊かでなくとも、信者が持つ人間関係を換金することを最終的な目的としたり、ローンなりなんなりで金を借りさせて、利息で搾り取ることを目的とするのであれば、貧乏であることはそこまで悪材料視されません。
金が絡まないけど信者ビジネスに類似しているもの
実際に金銭のやり取りまで行われないにしても、どうも信者と呼ばれるファンから、労力なり時間なりを搾取しているように見える関係もまた、信者ビジネスの温床であるように感じます。
たとえば、あるyoutuberが投稿している動画を視聴することは、動画視聴者が直接お金を払うことはありませんし、金銭のやり取りが発生することは基本的にはありません。(※youtubeには投げ銭システムが存在しているが、動画の視聴は基本的に無料である)
しかし、youtuberによっては、動画の視聴回数に応じて広告収入が手に入り、それを目的に活動している人もいます。いわば、信者が持つ時間や労力という資産を、広告収入という現金に換金するのが、youtuberという職業が持つ一側面です。(まぁ、この換金の仕組み自体、youtuberに限ったものではないが…)
広告収入を当てにしているyoutuberから見て、信者ビジネスにハマる人のように熱心に動画を視聴してくれるファンは、非常に美味しい存在のように思えるでしょう。
そのファンから直接金銭を受け取ることはないにしても、毎回欠かさず視聴してくれることが、自分の収入増になる。また、もしもそのファンが各種SNSで自分のことを宣伝でもしてくれたら、それもまた収入増加に繋がる。
そんなイメージが出てくれば、youtuberは信者候補のファンに向けて動画で自分を応援するように教育しようとする。
「もっといい動画が作れるように、チャンネル登録お願いします!」という類の言葉には、信者が持つ時間や労力を、自分の個人的な利益のために搾り取りたい…という腹黒い思惑が、ひょっとしたらあるのかもしれません。