辛い事や悲しいことがあったとき、ついその人の事を慰めたいとか、心の支えになってあげたいという気持ちになって優しく寄り添うものの「同情されたくない!」と善意を拒絶された事はないでしょうか。
もちろん、感情的になって「同情されたくない!」とストレートに言える人は、そう多くないとは思います。
どちらかといえば、とりあえず善意を受け取ってはくれたものの、どこか不満足そうな表情を浮かべていたり、なんか距離を置かれているようで、あまり歓迎されていないことがなんとなく分かってしまい、複雑な気持ちを抱いている人が多いと思います。
しかし、かと言って、目の前で悲しみに暮れている人を無視して放置しようものなら、自分の人間性を疑われてしまう恐れもある。
素直に善意を受け取ってくれない人は、素直さがないゆえに非常にめんどくさく厄介だと感じる人も多いことでしょう
今回は、「同情されたくない」という態度を取る人が、なぜこのような心理になるのかについてお話いたします。
「同情されたくない」という心理の原因・背景
「同情=弱い、惨め、情けない」と思い込みがある
同情されるのを嫌がる人は「同情=弱い、惨め、情けない、かわいそうな人」と否定的なイメージを感じているために嫌がるのです。
同情されるという事は、自分は他人から弱くて、惨めで、情けなくて、かわいそうで哀れみの目で見られるような人と自覚せざるを得ず、非常に不愉快に感じます。
また、自分と相手の二人だけでなく、周囲にたくさんの人がいれば「多くの人から自分は同情されるほど弱い人間だと思われている」と、強く自分を否定されたように感じて、同情を拒絶したくなるのです。
同情されると自分のプライドが傷つく
同情という言葉は、人によっては「同情されるほど自分は見下されている」と感じることがあります。
自分は精神的にもタフで強いし、そんな自分に誇りを持っていると感じている人からすれば、同情される事は、自分が抱いている理想の自分を壊されることと同じです。そうならないためにも、自分のプライドを守るべく同情を拒むのです。
上で書いたように、同情は弱い、かわいそうなどのネガティブな印象がある。そして、他人に同情できる人は、自分とは関係ない他人の不幸や不遇な状況に寄り添えるだけの、精神的な余裕や懐の深さがある事を示している。
一方で同情される側は、同情する側が持っている精神的な余裕もなければ、懐の深さもないとと、他人に見下され哀れみの目で見られていると受け取るので嫌がるのです。
勝手に人の悩みを知った気になって満足ぶる態度が苦手
同情をする人が皆、優しくて、慈悲深くて、他人に対して思いやりがある人ばかりとは限りません。
「同情する」という行動を通して、周囲に対して自分を聖人君子だとアピールすることを目的として、同情する相手の方ではなく外面ばかりを気にしている人もいるものです。
そうした人は、悩みを持っている人の気持ちに寄り添うというよりは、相手の気持ちを深く知ろうとせず、自分の中だけで悩みを持っている人のイメージを作り上げて「あなたも私のイメージしている通りの悩んでいる人なんでしょ?そうだよね?ね?」と、無神経な態度で接するようなものです。
ぱっと見は同情しているようには見えるものの、よく見れば自分にとって都合のいい思い込みで人を判断し、勝手に人の悩みを知った気になって善人な自分に酔っている失礼な人です。
当然同情される側からすれば、優しく近づいてきたと思ったら、勝手に都合のいい弱者のレッテルを貼られて、悩みを聞くどころか勝手に自分を利用して周囲に聖人アピールしている姿が不愉快極まりない。だから「同情されたくない」と感じるのです。
本音は「安い同情なら要らない」と思っている
同情と言っても、その態度や行動は人それぞれです。
真剣に寄り添って悩みを聞いたり、自分の辛さをしっかり把握しようと努力する人もいれば、「あらそう、お気の毒様」と、とりあえず同情だけはしておきましたよ、と事務的な安い同情まで、幅広いものです。
安い同情は、同情されず放置されるのと違って、自分が雑に扱われていると強く自覚してしまうので、同情されてもあまりいい気持ちにはなれません。
また、親しいはずの友達・恋人・家族から安い同情を受けるとなれば「まるで自分は親しい間柄とは思われていないのではないか」という不安も頭をよぎります。
他人に自分の弱みを知られるのが嫌
他人から同情を受ける過程において、
- 他人には知られたくない自分の中のドロドロとした気持ち
- 知られてしまったら自分が自分でいられなくなるような隠しておきたい感情
- できれば隠しておきたい、自分の恥ずかしい過去、黒歴史の数々
などを自分から打ち明けたり、他人から詮索されることもあります。
打ち明ければ精神的に楽になれるかもしれませんが、同時に他人に対して自分の弱みを見せてしまう不安をもあります。
また、同情されて自分は弱みを知られたものの、相手は自分に対して弱みを見せなければ、見せ損であり、不均衡が生じます。
こうなると、お互いに対等な関係ではいられなくなり、相手に主導権を奪われた、上下関係に基づく人間関係になるおそれもあるために、同情を拒むのです。
同情が欲しい人とそうでない人がいる
「同情をされたい」と感じていても「だれでもいいから同情されればいいわけではない」という複雑な心情を抱えていることもあります。
例えば、つらいことがあって誰かに優しくされたい、辛さを共有してもらいたいと思っていても、その相手が
- 自分にとって特別だと感じる人
- とくに親しくもない人
とでは、同情を受けた時の満足感や安心感は異なるものです。
親しい人から「辛かったんだね」と言われれば、自分の事をしっかり受け入れてくれたように感じますが、普段から関わりがない人に同情されても、あまりありがたみを感じないものでしょう。(もちろん、同情に否定的な意味合いを感じていれば、親しい人の方がショックを強く感じることもあります。)
同情は受ける相手によって受け取り方が異なるということは、説明すれば多くの人が理解できはずです。
しかし、目の前で「同情されたくない」という言動を示している状況では、自分は相手から同情を受けたくない人だと思われていることにまで考えが及びにくいものです。(もちろん、相手から自分が純粋に拒絶されていると認めたくないという気持ちもありますが…)
そして、自分ではなく相手に原因があると考え、「あの人は構ってちゃんだ」とか「こじらせててめんどくさい人」という結論を出して、自分が傷つかないように納得させるのです。
「同情されたくないけど、同情してほしい」というジレンマ
「同情されたくない」という心理を見ていくと、決して誰からも同情されたくないという態度を貫いているわけではなく、内心は同情されたいし、同情されて楽になりたいという相反する気持ちもあるものです。
しかし、そのことを素直に言うと、自分のプライドや体裁、評判、イメージなどが崩れる不安がある。
「どんな同情でも喜ぶぐらいの単純で軽い人間」だと思われたくない葛藤を抱えているので、素直になれずに頑なに同情を拒んでしまいます。(まるでツンデレキャラのよう…)
こうしたジレンマは、他人目線でみれば「なんてめんどくさいやつなんだろう…」と感じるかもしれませんが、いざ自分がジレンマを抱えるとなると非常にもどかしく、そして辛く苦しい気持ちに駆られるものです。
しかし、目の前で「同情されたくないけどやっぱり同情されたい」と苦しんでいる人に、本当に寄り添えるようになるためには、このジレンマを知っておくことが大事だと感じます。
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