メサイアコンプレックスとは、メサイア(メシア、つまり「救済者」の意)のように、他者を救済したり、助けたがる人が抱えているコンプレックスのことです。
しかし、助ける原動力が自分が抱いている無力感を埋めるため、独善的な使命感、葛藤からの回避といった歪んだもの。
そして、助けた人の悩みが解決して自分のもとを離れていけば、救済という活動で自分の存在価値が味わえなくなるジレンマがあるために、救済活動が専門的な技術に依らない中途半端なもの、似非科学やカルト集団のようなものになることがあります。
一見すれば弱っている人を救済しているように見えて、救済者たる自分へ精神的に依存するように仕向けたり、救済活動や自己陶酔のためのルーティンワークとなり、活動のおかしさや危うさに気づけなくなることがメサイアコンプレックスの問題といえます。
貧困、健康問題、社会からの孤立などで心身ともに弱っている人ほど、こうした(表面的でも)優しくて、献身的で、自己犠牲を厭わず身を削ってまでも支援や応援をしてくれる人の存在は、まるで神様のようにありがたいものでしょう。
更に「ボランティアのように善行をする人は健全な精神を持っている。そんな人を偽善者とみなしたり、邪推をするのは人としてあるまじき行為である」といった、ごく一般的な道徳観こそ、メサイアコンプレックスの存在および問題を認知できない原因の一端を担っていると感じます。
今回は、そんなメサイアコンプレックスの人のターゲットにされてしまった時の対処法について、お話いたします。
メサイアコンプレックスな人への対処法
相手の言う救済や手助けの言葉を鵜呑みにしない
「あなたを助けたい、力になりたい」と言う善意を見せて近づいてくる心優しくみえる人であっても、その人の言葉を鵜呑みにして信じ込まないことが肝心です。
メサイアコンプレックスの場合、優しい言葉をかけてくるのは「誰かを助けたい」と言う気持ちもありますが、それ以上に救済をしたい本人自身の欲望を満たすためであったり、救済と言う行為により他人を支配し従属させるといった、善意とは真逆の思惑が隠れています。
優しい人であっても、その優しさが全てではなく別の目的がある可能性について、お思いをめぐらせることが大事です。
特に、貧困、過労、偏見などの生きづらさを感じている人ほど、目の前に現れた「あなたのことを助けたい」という人の言葉は、まるで天からの福音のように感じて、無批判に信じ込んでしまうものです。
苦しい生活から目を背け、見たいものばかりを見て生きていたいという自分の甘さを自覚すること。そして、夢物語や理想の将来を見せてくれる救済者の言葉にそそのかされ、無批判に信じ込まないように意識しておきましょう。
他の人、団体に相談して意見を手に入れる
メサイアコンプレックスの救済は、科学的な根拠が乏しいものや自己啓発書に溢れている精神論、漠然とした一般論のように、どこか中途半端でツッコミどころが多いものです。
例えば、部活動で怪我をしてしまい試合に出れなくなった野球部員に対して、
- 「今回の試合は諦めて怪我を治すように治すことに専念しよう」
- 「今回の怪我を教訓にして自分の体の弱点を強化していこう」
と言う建設的な救済(アドバイス)の仕方ではなく
- 「痛み止めの注射を打って、試合に出よう」
と、根本的な怪我の解決には何もつながらない方法で救済するようなものです
冷静に考えれば、痛み止めを使用して出場したことで、怪我が悪化したり、結果としてスポーツからの引退を余儀なくされるリスクがあり、お世辞にも人を助けているとは言い難い。むしろ善意によって、余計に救済対象を苦しめている皮肉に救済と言っても良いでしょう。
このように、メサイアコンプレックスの救済方法には、合理的でなく疑問点の多さが目立つため、言われたことを鵜呑みにするだけでなく、他の人や団体などの第三者にも相談を持ちかけて、公平な立場からの意見を入手することが欠かせません。(場合によっては、専門職、公的機関などに相談するのも方法ひとつ。)
もちろん、誰かに相談する以外にも本・新聞などの文献をしらべることでも問題ありません。なるべく多面的な意見に触れて、メサイアコンプレックスの意見を客観的かつ距離を置いて判断してみることを心がけましょう。
説得は逆効果になることもある
客観的な意見を手に入れた後は、そのことを救済者に話して説得したら良いのではないか…と考える人もおられると思いますでしょう。
もちろん、それで説得が功を奏して自分の考えの甘さや未熟さに自覚して、しっかりとした知識を学結果になれば、メサイアコンプレックスを治すことにもつながります。
ただし説得する過程において、メサイアコンプレックスの人の正義や信念を否定することになり、逆上して責め立てられたり、脅しや恐怖によって言いくるめられるリスクもあります。
加えて、メサイアコンプレックスの人がカルト集団のような偏った主義・主張を持つ組織の一員(あるいはトップ)の場合は、なおさら説得することはのリスクは増大します。
更に、説得した内容が全く逆効果になりメサイアコンプレックスの主義・主張の正当性を強めてしまう場合もあります。
例えば、似非科学に基づく健康食品を人に勧めて、人類の健康を祈ってやまないメサイアコンプレックスに対して「その食品は科学的な根拠に乏しいから、考え直した方が良いのではないの?」と言ってみたとします。
しかし、返事は「あなたは何もわかっていない! 今の健康食品は、農薬や化学肥料が含まれている素材で作られているから健康によくない!私が進めるこの健康食品はオーガニック素材を使って無農薬だから大丈夫なの!」と、説得した事を材料にして、さらに自分たちのすすめる商品の魅力や正当性をアピールするという具合です。
まるでマルチ商法の勧誘を受けたときに、「これはマルチじゃないの?危険でしょ?」と言ったら、「これはマルチじゃなくて、新しいネットワークビジネスだから…」と、胡散臭い商売とは違うと訴えかけてくる光景を彷彿とさせます。
困窮している時ほど冷静になることを忘れない
なお、メサイアコンプレックスの人には、困っている人を救済したいと言う思いが強いあまりに、救済対象者に考える隙を与えないように次々と自分の救済方法提示してくる事があります。
次から次へと自分を助けるための方法を提案してくれることから「この人は本当に自分のことを真剣に考えているんだ」と信じ込んでしまいがちですが、その裏には、救済者である自分だけの情報飲みを信じ込ませる意図があると伺えます。
また、信じ込ませる過程で、「自分の救済方法通りに行動しなければ不幸に陥る、もっとひどいことになる」と不安をちらつかせます。こうして、他人を視野狭窄にさせることで支配をより強固なものにする意図もあると分析的できます。
人間は困っている時ほど冷静さを失ってしまい、つい衝動的に物事を決めてしまいがちです。しかし、困っている時ほどなるべく多くの人の意見に触れて、冷静に対処していくことが欠かせません。
最終的には距離を置き関わりを絶つ
メサイアコンプレックスの人との最終的な決着は、距離を置き関わりを断つことに他なりません。
自分のことを救済してくれる優しい人に見えるものの、その正体は救済者である自分自身の存在価値を確認したい、ヒーロー願望を満たしてくれるために他人を利用するといった、自分自身の無邪気な善意が持つ負の側面と向き合うことを避けている未熟さが残る人間です。
もちろん、困っている人を助けるという尊い活動している人に疑念の眼差しを向けるだけでなく、その人を見捨ててしまうことに対して、良心の呵責を感じる人もおられようかと思います。
しかし、野球部の例でも述べたように、メサイアコンプレックスの人の救済は突っ込みどころが多いものであり、救済どころではなくさらなる犠牲者を増やしかねない皮肉があります。
メサイアコンプレックスの人との関わりを断つ事は、地獄に仏かと思っていたら実は泣きっ面に蜂で、さらなる犠牲を味わって目の前にいる救済者の助けのみに頼らざるをえない状態にならないためにも大事なのです。
メサイアコンプレックスは「優しい支配」であると心得ておくべき
メサイアコンプレックスの人は、多少声を荒らげる事があっても、基本的には弱者の味方のポ人ションをとっているため、ぱっと見は正義感にあふれた優しい人と見られます。
しかし、この優しさは単なる困っている人を助けたいといった善意が暴走し
- 自分の助けを受けないと不幸になると脅して、不安を用いて他人をコントロールする。
- 自分の救済を妨害するものは悪であり、その悪を成敗するためにも自分を正義の味方と称し、徹底して対抗していかなければいけないと自己正当化を行う。
- 見たくない現実や精神的に未熟な部分と向き合うことを避け「誰かを助ける」と言う行為に陶酔することで、葛藤から逃れることを選んでしまった。
といった、独りよがりで部分が抜けきっていません。
そんな優しさの仮面をかぶった支配のせいでしかし、いつしか精神的にコントロールされ、救済者なしでは不安や焦燥覚えてしまい、依存してしまうのがメサイアコンプレックスの問題点です。
確かにやっている事は優しさからくる行為なのに、結果として助けられた方は不自由さや生きづらさを強めてしまう。
こうした皮肉を持つメサイアコンプレックスの救済は「優しい支配」であると心得ておくようにしましょう。
関連記事