「褒められたら誰もが嬉しいと感じるもの」という考えには少々疑問があります。
褒めると言っても、その褒め方が余りにも露骨で大げさなものであったり、お世辞や社交辞令のように表面的なものであれば、褒められる側も興ざめして、気分が悪くなることもあるでしょう(もちろん、興ざめしている事は顔には出さないものですが…)
また、褒めて喜んでいる人を、別の視点で見ると、なんだか煽てられ調子に乗っている人、褒めればすぐに喜ぶ単純な人、褒めないとやる気が出ないほどに怠け者で能力の低い人…とも見れなくはありません。
そんな風に(ひねくれた目で)褒められて喜んでいる人を見ていればこそ、褒められる場面や状況そのものに嫌悪感を抱いてしまうことも考えられます。
…さて、今回は褒められることが苦手な人に関する心理について、お話しいたします。
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自分の自己評価に合ってない評価をされて違和感を覚えるから
褒められるのが苦手な人は、自己肯定感や自信の低さ故に「自分はそんな褒められるような立派で優れている人間ではない」と、自分を過小評価したり、他人からお褒めの言葉をいただいても「いえいえ、私はそんなすごくありませんよ」と、やんわり否定することが目立ちます。
なぜこうした癖が出てしまうのかというと、自己評価の低い人は自己評価の低さ故に、自分が低い評価を受ける場面を好む。
つまり、褒められることもなく、叱られたり冷たくあしらわれる場面の方が「自分はダメである」という認識と一致するので安心してしまうのです。(=認知的斉合性理論、マゾヒズムに通ずるものもあるといえます。)
逆に、正当に褒められる、評価されるなどの自分が高い評価を受ける場面は、「自分はダメである」という認識と一致しないために、居心地の悪さや不快感を覚えてしまう。褒め言葉をひどく拒絶するような行動に出て、相手が自分に対して「自分はダメである」という認識をもつための行動に出てしまうのです。
なお、こうした癖は、一見すれば謙虚で慎ましやかという「美徳」に結びつきます。しかし、一方では、謙虚を通り越して卑屈すぎる、他人の好意や善意を蔑ろにしてしまう無神経さがあるとして、次第に煙たがられる原因にもなりえます。
褒めて浮かれる自分を周囲に見せたくない
褒められるのは自分の努力や成果が認められているように感じて確かに嬉しいものの、褒められて喜んだり、舞い上がることは、なんだか子供っぽい、幼稚であると強く感じてしまうために、褒められる場面が苦手になるのです。
褒められ続けている中で、つい浮かれて舞い上がりそうな自分が出てしまわないように神経を張り詰めることに疲れてしまう。そんな不毛で人には言いづらい疲れが起きないように、あえて褒められる場面そのものを避けようとするのです
なお、こうした心理はSNSなどのネット上の人間関係においても同じです。
SNSでは相手の顔や表情が見えないためか、多くの人が気軽に「いいね」やお褒めのコメントをしやすい環境が整っています。(もちろん、否定的なコメントも集まりやすい側面もあるが…)
しかし、SNSにおいても、「いいね」やお褒めのコメンいただいて「ありがとうございますー!」と、有頂天になっている姿を周囲に見せてしまう事は、自分のプライドやポリシーが断固として許さない。
ましてや、SNSでは自分の浮かれている様子が、不特定多数の人から閲覧可能であり、かつ記録として半永久的に残ってしまう性質があります。褒められるのが苦手な人からすれば、SNSは現実の人間関係以上に恐ろしい場所と感じても無理はないでしょう。
結果として、褒め言葉やいいねに対して随分冷たい人、ファンサービスが悪く塩対応な人と見られてしまって別の悩みを抱えたり、SNSそのものが煩わしくなってアカウントを消すことを選んでしまうことがあります。
「褒められたら浮かれてしまう単純な人」などと思われるのが嫌
「褒められて喜ぶ」という状況を、やや否定的に解釈すると
- 褒めたら喜ぶほど単純な思考の持ち主である。
- 褒められることに飢えていて必死すぎて浅ましい、精神的に余裕がなさそうな人。
- お世辞や社交辞令を間に受けてしまう思慮浅い人、残念な人。
- 褒めてその気にさせないといけないほどにやる気がなく能力が低い人。(そして、周囲からもそう思われている)
と、ひねくれた解釈も可能です。
「豚もおだてりゃ木に登る」という諺が、豚のように不浄で愚かな人間でも、褒められたら能力以上の働きをすることもある…と、皮肉や見下しのニュアンスで解釈できることからも、褒めるという行為は決して良い側面ばかりとは言えません。
また、「褒め殺し」という言葉にもあるように、褒める行為は時に褒めた相手を付け上がらせて慢心を招き、自分からヘタをこいて評判を下げさせるために使われてしまうという、陰湿な嫌がらせに使われることもあります。
こうした褒めることにまつわる、否定的な意味合いや使われ方を知っているからこそ、素直に褒め言葉を受け取ることができなくなる。
むしろ、褒められると過度に警戒したり、褒めてくる相手の思惑や意図を探ることに必死になり、次第に褒められる場面そのものが煩わしく感じてしまうのです。
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余計な期待やプレッシャーをかけられているように感じて重苦しい
褒められることに対して嬉しさを感じるものの、その一方で「もっといい結果を出して欲しい」「もっと期待以上の活躍をして欲しい」と、更なる結果や期待以上の活躍を求められることに対してしんどさを抱えてしまったために、他人から褒められるのが嫌いになることもあります。
いわゆる真面目で他人からの要求に対してNOと言えない人ほど、他人からかけられる期待や理想を重荷に感じてしまい、褒められることの嬉しさよりも「期待や理想を叶えて相手を喜ばせなければいけない」という義務感やプレッシャーを強く感じてしまいます。
また、期待に添えなかった場合は、ただ相手の期待を裏切ってしまった罪悪感で苦しむだけでなく、相手からの「応援していたのに失望しました」という言葉が心にひどく突き刺さる苦痛を味わうこともあります。
仮に相手の方から勝手に期待をかけて勝手に失望しているだけの状況と理解していても、もとより真面目でNOと言えない癖が災い、結果として相手を悲しませる状況を招いてしまったことに罪悪感を抱く辛さがあります。
こうした煩わしさに悩まされないためにも、端から褒められるハレの舞台に出向かないこと。褒めらても、相手に余計な期待や理想を抱かせないように、そっけない態度を貫くのも、起こりうる辛さを回避するという意味では、理にかなっていると考えられます。
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自分の努力や頑張りを否定されて複雑な気持ちになるから
勉強・スポーツ・仕事で努力を重ねて好成績を残せば多くの人から褒められますが、そのほめ方が「やっぱりあなたは才能があるよね」と、努力を無視したほめ方だと、複雑な気持ちを抱くことがあります。
もちろん、努力の過程はそもそも部外者からは見られにくく、どうしてもテストの点数、スポーツの試合の結果、売上や販売数などの、努力の結果として現れるデータをもとに、その人を評価して褒めてしまう…という人間の認知の仕組みをわかっていたとしても、内心は「データではなく、自分の努力の過程を認めてほしい」と言いたいけど、言えば相手に反感を持たれてしまう辛さがあるものです。
また、努力の過程を見ずに結果だけを見て「やっぱり才能があるよね」と雑な評価を下す行動に、自分の努力や頑張りを見ようとせず、目に見える結果だけを見て短絡的な評価を下す姿勢のように感じて、不愉快な気持ちに襲われてしまうこともあります。
…ただし、嫌悪感を覚えるとはいえ、褒められていることに対して露骨に嫌な態度をとれば「褒めているのに不機嫌な態度を取るなんて非常識」と思われてしまうリスクがあるので、表面的には褒めて喜ぶ自分を演出するのが、社交辞令であり無難な選択でしょう。
「褒められる」という多くの人からすれば羨ましく心地よい場面ですらも、褒められるのが苦手な人からすれば、自分の本心を抑圧して周囲のために自分を偽らなければいけない義務感に駆られる状況だと感じてしまう。
…そんな、他人からは理解しづらい複雑な気持ちであると同時に、随分と贅沢な悩みを持ってしまう苦悩は、なかなか理解されにくいのが現状だと感じます。
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