他人から叱ってほしい、誰かから自分に対して厳しい言葉や態度を向けて欲しい…と書くと、なんだかマゾヒズムそのものであり、ちょっと理解しがたい心理のように感じるかもしれません。
一般的に考えれば、叱られるとストレスが溜まって不快な思いをしてしまう。わざわざストレスを抱えるようなことを求めるのは、理にかなわない行動といえるでしょう。
自分から叱られることを望む。つまり、自分で自分を辛く、苦しい状況に追い込むようなことをなぜ望むのか…今回はこの心理についてお話しいたします。
全く叱られないこともまたストレスと感じる
普段の生活で誰からも叱られなければ、非常に気楽であり、且つストレスを全く感じずに済む快適な状況そのものであるように考えるのは自然なことでしょう。
しかし、心理学ではストレスがない環境そのものもストレス源と感じてしまう。そのため、快適なはずの状況を自ら手放し、あえて叱られてストレスを感じる場面を求めるようになるとされています。
感覚遮断実験から見る叱られないこと
ストレスが極力存在しない状況で人間がどうなるのかを調べた実験で有名なのが「感覚遮断実験」(1950年,カナダ大学で実施)です。
この実験では、文字通り光や音、皮膚感覚や人間関係など、あらゆる刺激となる物をほとんど遮断し、まったく刺激(=ストレス)がない状況で人間が長時間過ごすとどのような反応示すかを調べた実験です。
実験に参加した男子大学生は、目には半透明のゴーグルをつけ(視覚の封印)、聞こえるのは空調の音だけ(聴覚の封印)。手には手袋、腕は紙の筒で覆われ、何かに触れることすらもできない(触覚、皮膚感覚の封印)、暗く狭い部屋で過ごすよよう指示をされました。なお、食事とトイレの要求はOKでしたが、部外者との雑談は禁止されるという徹底ぶり。
そんな想像するだけでもゾッとする実験の結果は、参加者は2~3日しかこの状況に耐えれなかったと言うものに。
参加者は、最初のうちは映画や旅行など楽しいことを考えていたものの、次第に集中できなくなりイライラに襲われた。また、独り言を口にしたり、腕を無意味に振るなど、自ら刺激を求めるような行動に出るようになったと報告しています。(なお、幻覚を感じた等、正気を保つのが困難になる人もいた)
これを、誰にも叱られない状況に置き換えて考えてみましょう。
誰からも叱られない分、不快な思いをせずストレスには悩まされません。しかし、「叱られない状況」そのものがあまりにも刺激がなさすぎるためにストレスを感じるようになってしまった。
その結果として、叱られることそのものを望む心理が生じたと考えれば、合点がいきます。
叱られない状況を経験した後は、叱られた言葉を受け入れやすくなる
なお、感覚遮断実験では、被暗示性が高まったと言う結果も出ています。
被暗示性とは、暗示にかかりやすくなること。つまり、誰かに叱られたり厳しいことを言われたときに、その言葉を受け入れやすくなること言っても良いでしょう。
なお、被暗示性は、よく言えば人の言うことをよく聞く真面目で素直な性格・傾向を表す言葉ですが、悪く言えば他人の言葉や与えられた情報を無批判に信じ込んでしまうという、洗脳されやすさを表す言葉でもあります。
叱られたいと感じる心理・理由
感覚遮断実験の他にも、叱られたいと感じる心理・理由について以下で説明します。
「叱る=自分の存在を認めてくれている」と感じるから
叱られると言う事は、言い換えれば自分と言う人間の存在を「叱る」と言う行為によって承認されている…と感じる。つまり、承認欲求が満たされるために、叱られることそのものを欲するのだと考えられます。
叱るという行為は、そもそも他人の存在がいなければ成り立たないものです。
褒めたり、尊敬したりするのと同様に、叱るという行為もまた(不快感こそ感じるものの)自分と言う人間を認めてくれる他者の存在がいることを確認できるため、自然と求めるようになるのだと考えられます。
「叱られるだけ自分は期待をかけられている」という優越感を抱けるから
叱られると「自分は他人から期待や励ましの気持ちを、叱るという行為によってぶつけられている」と言う優越感や満足感を感じられるからこそ、叱られたいと言う気持ちが芽生えるのだとも考えられます。
この場合は、叱られると表現するよりは、叱咤激励されていると表現したほうが理解しやすいかもしれません。
厳しくて耳が痛くなる言葉を受け取る苦痛こそありますが、その一方ではそれだけ自分の実力や実績が評価されており、自分にはもっと良い結果を出せるだけのポテンシャルを持っているのだと他人から見込まれている事を実感できる。
だからこそ、叱られることそのものに肯定的な意味を見出し、叱られることを自ずと求めているのだと考えられます。
低い自己評価を持っており、叱られることで自己評価と周囲の状況が一致して安心感を覚えるから
自己評価が低く「自分はダメ人間である」と思っている人もまた、あえて自分に厳しい言葉や態度を向けてくれる人を求めることがあります。
これは、認知的斉合性理論と呼ばれ、自分の認知と周囲の認知を合わせようとする心理学用語です。
自己評価の低い人は「自分=ダメである」と言う否定的な認知を抱いている同時に、周囲の人々や環境も自分の認知と一致すると、安心感を覚えます。
自己評価の低い人からすれば、自分が肯定的な評価を受けたり、過度に持ち上げられてしまう事は、自分の認知と一致していないためにムズムズとした居心地の悪さを感じてしまう。
一方で、自分を厳しく叱ってくれる人がいたり、自分のことを悪く言う人がいる環境であれば、自分の認知と一致するため、居心地の良さを感じてしまうのです。
叱ってダメ出ししてくれないと、自分のダメな部分がわからずモヤモヤしてしまうから
他人から叱って自分の欠点をダメ出ししてくれないと、自分のダメなところがわからないままモヤモヤとした気持ちに悩まされてしまう。だからこそ、自分に対して厳しく叱ってくれる人を求めてしまうこともあります。
これは、自己評価の低い人以外でも見られるものです。ダメ出しを受けることで、自分では気づけない自分の短所を自覚すると同時に、その短所を改善するための対策を考えることが可能になる。
つまり、より良い自分になるためと言う向上心を持っているからこそ、他人から叱られること積極的に求めるのです。
しかし、そんな向上心を持っている人からすれば、全く叱られることもなく優しい人ばかりで囲まれている環境は、自分の向上心を発揮する場面がなく不満を感じてしまう。
そして、その不満を解消すべくためにも、誰かから叱られたいと言う感情が強く芽生えてくるのだと考えられます。
叱られることで自分に甘い自分を改善できるような気がするから
叱られなければ、どんどんダメになる自分が嫌だけど、そんなぐうたらな自分を自力で真人間にするのは難しい。だからこそ、親や先生のように厳しく自分を理してくれる人の存在を求めているのです。
他人の目がないと堕落し、とことんまで自分を甘やかしてしまいダメ人間になってしまう。でも、他人の目があれば自然と頑張れるし、気を引き締めるられる…という、自分にとことん甘い人なりの身の正し方を熟知している結果として、叱られることを望んでいるのだと考えられます。
余談 大人になると感じる「叱られなくなってしまうこと」の辛さ
余談になりますが、社会人になってある程度年齢を重ねたり、社会的な立場や肩書きを手にするようになると、次第に他人から叱られることそのものが減ってしまうものです。
- 「叱ったことで関係がぎくしゃくするのを避けたい」
- 「自分とは直接関係がないので、叱る義理がない」
- 「叱っても自分の評価には影響しないから、そっとしておいた方が無難である」
と言う理由で、自分を叱ってくれる人がどんどん少なくなってくる状況に対して、どことなく寂しさというか、辛さといった複雑な気持ちを抱く人は、きっと少なくないと思います。
このような複雑な辛さを感じるのは、言い換えれば自分に対する関心、熱意、愛情などを向ける人が少なくなっていることが原因と考えられます。
また、他人から遠慮されて、心を開くことそのものを回避されているように感じてしまう。つまり、他人に正面から受け入れられてもらえなくなっていることに、辛さを感じてしまうのだとも考えられます。
その他にも「叱るだけの価値がない人と思われている」だとか「叱っても学習しない人間だと思われている」など、自分に対するあきらめの姿勢を間接的に周囲から向けられているように感じて、辛さを覚えてしまうことも考えられます。
なお、叱られなくなる代わりに、社会的な立場があることで自分の周りには自分を称賛し、褒めてくれる人が集まることもあるでしょう。
しかし、自分に対して肯定的な態度のみを見せてくる人は、言い換えれば自分が持つ立場や過去の実績といったステータスにしか目を向けておらず、自分と言う人間そのものを見ている可能性は低いと感じてしまう。
立場や年齢の都合上、下手に叱って敵対関係になるよりも、肯定する方が無難かつ安心だと判断する人達が集まりやすい状況にいるのわかってはいるものの、やはり、社会的なステータスではなく自分と言う人間を見てもらいたい、受け入れてもらいたいと言う欲求が湧き出て来る。
その欲求が「誰かに叱ってもらいたい」と言う気持ちに反映されているのだと感じます。
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