占い、パワーストーン、守護霊など、どこか神秘的で不思議な力を感じさせてくれるようなライトなものから、子宮系のように怪しさ胡散臭さが拭えないものまで、スピリチュアルなものを強く信じ込む人は少なくありません。
特に、スピリチュアルなもののメインターゲットは女性であり、その神秘的な雰囲気に対して多くの時間とお金を費やしてしまう人もいます。
今回はそんなスピリチュアルを信じ込んでしまう人の心理について、お話し致します。
スピリチュアルは、まだ見ぬ自分を気づかせてくれるから、つい信じてしまう
スピリチュアルを信じる心理に説明するにあたっては、心理学の「ジョハリの窓」という概念が鍵になります。
ジョハリの窓とは、アメリカの心理学者ジョセフ・ルフトとハリー・インガムが提唱した概念で、自分のことをよく知るための考え方のモデルとして利用されています。
ジョハリの窓を表で表すと…
自分が知っている自分 | 自分が知らない自分 | |
他人が知っている自分 |
開放の窓 自分も他人の人も知っている部分。 |
盲点の窓 自分は知らないが、他人は知っている部分。 |
他人が知らない自分 |
秘密の窓 自分は知っているが、他人は知らない部分。 |
未知の窓 自分も他人も知らなの未知の自分の部分。 |
となります。
ジョハリの窓の中でも、特に「盲点の窓」にあたる自分の内面を褒められたり、評価されたりすると、強い感動や感激を覚えたり、自覚できなかった自分を教えてくれた人を好意的に捉えてしまいます。
そもそも、スピリチュアルという不思議なもの…それもちょっと話をしただけで、まず普段の生活の中では見聞きしないような、自分に対する見識(=盲点の窓を突いたコメント)を与えてくれる人ともなれば、強い感動覚えるのも自然なことでしょう。
その結果、まだ見ぬ自分に気づかせてくれた人だけでなく、スピリチュアルそのものを強く信じてしまう、たいへんありがたいものだと感じてしまうのです。
なお、ジョハリの窓の「未知の窓」も、未知の自分を知らせてくれるものの一つではあります。
しかし、そもそもスピリチュアルに詳しい人からしても、認知できない自分であるために、自他ともに未知のままである。
そのため、感動を覚えることもなければ、相手に対して強い信頼を寄せることが無いのは明らかです。
自分が見たいものを見せてくれるからスピリチュアルを信じてしまう
スピリチュアルをビジネスとして見た場合、それはまさに「自分が見たいものを見たい」という、消費者の願望を満たすビジネスと言えます。
- 愛されて幸せになりたい
- 理想の自分になりたい
- もっと自分らしく生きたい
- ネガティブな気持ちから解放されたい
などの普段の生活で抱く不満を解消してくれる言葉を供給し、「こうあって欲しい」という願望を満たす、安心感を得られる商品として、スピリチュアルは消費者に提供されていると言ってもいいでしょう。
なお、こうした「見たいものを見たい」という心理は、「確証バイアス」が影響していると考えられます。
確証バイアスとは、自分が「こうあるべき」と判断した情報・考えに都合よく物事を解釈したり、自分が持つ強い先入観を基準にして世の中を見てしまう認知の偏り(バイアス)を指します。
スピチュアルの世界に溢れる優しく聴き心地のいい言葉の数々は、確証バイアスをもとに考えれば、消費者が求めている言葉や願望をスピリチュアルという商品そのもの、あるいはそれを供給する人が代弁している。
その光景を見て消費者は、「自分の考え方は間違っていなかった」という安心感を手にして、自身の確証をより強める。そして、自分が見たいものを見せてくれるスピリチュアルという商品に対して、なかば信者になるかのように勢いで信じ込んでしまうのです。
無論、消費者が欲しがっているものを供給することは、スピリチュアルビジネスに限らず他のビジネスでも、そして商売をする上では基本中の基本ではあります。
しかし、ビジネスの結果として消費者が持つ確証バイアスを強めてしまうと、消費者がもつ思考の柔軟性が失われてしまう、嘘や信ぴょう性が乏しいものでも信じ込む、より先入観を強めてしまった結果として、社会の中で生きることに苦しさを覚えるリスクもあります。(そもそも、スピリチュアルに信ぴょう性があるとは言い難いが…)
…なお、見たくない情報を避け、見たいものばかりを見て安堵するメンタリティが消費者に身につくことは、スピリチュアルビジネスを展開している人からすればリピーターがついたのと同じであり、たいへん好都合とも言えてしまう皮肉な一面もあります。
スピリチュアルを信じる人の心理に感じる危うさ
スピリチュアルを信じる人の心理を一言で言い表すとすれば「純粋」です。
純粋であるがゆえに、自分の心は透き通っていて清らかであり、濁りや汚れとは一切無縁である。
自分の内面にやましい感情や醜い感情なんてあるわけがなく、どこからどう見ても穢れなく、純粋で、清らかな人間である…ということ現実で強く実感させてくれるのが、スピリチュアルの世界だからこそ、強く信じ込んでいるのだと分析できます。
しかし、この純粋さは決して無批判に肯定できるものではありません。
まるで潔癖症の人に見られる脅迫観念のように、考え方の柔軟性に欠いているために、悩みや葛藤を生みやすい。また、考え方に強い偏り(バイアス)があり、同じく強い偏りを持つスピリチュアルのヘビーユーザー以外の人との交流が難しくなり、孤立感や疎外感を抱く原因になります。
また、際限無く純粋さを追い求める根底には、
- 完全な清潔
- 完全な不潔
というような、両極端すぎて中庸さを欠いた思考(=認知の歪みの「オール・オア・ナッシング(全か無かで考える)」)にとらわれているように見えます。
少しでも醜い感情があれば、完全な清潔という評価が一転して完全な不潔へと急激に変わる…そんな、極端から極端へと移行する考え方をしていれば、自分も他人もその極端な考えに振り回されて疲弊する原因になります。
もちろん、自分の内面の美しさを追い求めたり、ポジティブ精神でいようとすること自体は否定しません。化粧をしたり、運動により体のメリハリをつけて外見の美しさを求めるように、自分の内面を適度に磨くこと自体は自然なことだと思います。
しかし、スピリチュアルを信じる人を見ていて感じるのは、自分の純粋さを追い求める行為がエスカレートし、「自分はどんな時でも純粋であらねばならない」という脅迫観念に飲み込まれているように見えることがあります。
潔癖症の人が何度も手を洗い、不潔を避け、清潔さを追い求めるように、スピリチュアルを信じ込む人は、自分の内面を清潔にするために全てをスピリチュアル基準で考えたり、スピリチュアルそのものに精神的に依存しているかのように見えます。
傍目には、打ち込むことがあって充実している、ミステリアスな雰囲気があって魅力的だ高評価を得るかもしれません。
しかし、一歩引いて見ると、熱心すぎるあまりにどこか自分で自分を追い詰めているように見えたり、強迫的にのめり込むことに目をつけられて、より高額なスピリチュアルの商品の購入・サービスの利用へと誘導されているように見え、危うさを感じずにはいられません。
そもそも純粋であるために、まさかスピリチュアルという商品を提供している人を疑えない。また、提供している人に対して疑念や懐疑を向けること自体、「自分は純粋である」という考えを否定する可能性があるので避けてしまう。
こうした心理が災いしてか、苦しさを覚えるほどに、スピリチュアルへのめり込む結果を招いていると感じます。
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