なんとなく他人から見下されているように感じてしまう。それといった根拠もなく「ひょっとして見下されているのではないか?」という不安を感じたり、不安の域を超えて「自分は見下されているに違いない」という確信を持ってしまう。
今回は、そんな「見下されている」と感じる心理に関する考察をお話し致します。
どうして「見下されている」と感じやすいのか
「自分の欠点を見破られるのではないか?」という不安がある
他人から見下されていると感じてしまう人には
- 自分は他人と比較して劣っている点がある。
- 自分は他人には見られない異常な点、欠点がある。
など、他人から見下されてもおかしく無い要素を持っているという自覚を持っている。
しかし、普段の生活の中ではそうした見下されてもおかしくない要素を、なるべく見せないようにしているものの、そんな生活を続けていくにつれて「ひょっとしたら、自分の欠点が既に他人から見破られており、見下されているのでないか」という不安に襲われてしまいます。
この不安がきっかけとなり、過度に見下されることに神経質になっていると考えられます。
見下されたと感じたことばかり記憶してしまっている
「見下されているのでは?」という不安が強まるにつれて、普段関わる人が見せる何気ない仕草の中に「この人は自分のことを下に見ている」と感じてしまうことも増えてしまいます。
これは、心理学では感情一致効果(または気分一致効果)と呼ばれるもので、自分が感じている感情と一致する情報ばかりを記憶してしまう心理を指します。
自分の感情と一致した情報ばかりを記憶するために、過去を振り返れば過去に自分が感じていた感情ばかりになってしまう。
つまり、「見下されている」と感じて他人の些細な言動から、自分を見下していると思われるものばかりを記憶すると同時に、過去を振り返ると自分を見下していると想像できる記憶しかないために、ますます「自分は見下されている」という感情を強めてしまう。
その結果、ひどい落ち込んだり、疑心暗鬼な状態から抜け出せなくなってしまうのです。
見下されたと感じた方が安心できるから、相手の言動の中から見下していると判断できる要素を探し出す
感情一致効果からの続きですが、自分で自分のことを低く評価している、見下されても仕方がない要素を持っていると感じている人には、自己肯定感の低さゆえに他人から低く評価された方が安心感を抱く。
他人から尊敬されたり、対等に扱われることよりも、見下され蔑みの対象として扱われた方が、自分の認識(=自分は見下される要素を持っている人間である)と一致するために、相手の言動の中から見下していることが読み取れそうな情報を探そうとするのです。
なお、「見下された方が安心できる」という感情自体は、ひょっとしたら想像しにくいものかもしれません。
しかし、自分の認識と周囲の認識が一致しない状況…たとえば、自分は明るい性格であるのに、周囲から自分は暗い人or明るくも暗くもない人だと思われているとわかると、なんとなくモヤモヤしてしまうのと同様に、自己肯定感の低い人は、周囲の人も自分の認識と同じだけ自分のことをダメな人間だと思ってくれている方が、認識のギャップが少ないためモヤモヤしにくくなり、居心地のよさを感じるのです。
自分よりも優れている人を引きずり下ろしたいために、見下されることに敏感になる
無意識のうちに相手をマウントしたり、自分の自尊心を守る目的のために、「相手は自分のことを見下しているのではor見下しているに違いない」と考えてしまうこともあります。
自分の中で「相手は自分の見下している」と決め付けることで、相手は上から目線な態度で接している、生意気で失礼な人間だと考えて逆にマウントをとったり、相手が無意識のうちに上から目線になっていることに気づいている自分の方が一枚上手であるという優越感を得られます。
今まさに自分が見下されて感じている不快感を和らげるために、物の見方を自分に都合よく変えていると言えます。
なお、(この場合も含め)実際に相手が上から目線で接しているとは限らず、むしろ自分の方から「この人は上から目線で接してきて失礼な人だ」と勝手な主張しているだけというケースもあります。
無自覚のうちに被害者のポジションを取りつつ、他人に対して威圧的な行動を取るために、煙たがられてしまうのは無理はありません。
また、先生と生徒、上司と部下のように上下関係で成り立つものの、見下す・見下されるという関係ではない間柄にて「この人は見下しているに違いない!」と勘違いな主張してしまうこともあります。
防衛機制の投影で考える「見下された」と感じる心理
「見下された」と感じる心理を深く見ていけば、実は見下しているのは相手ではなく自分であるというケースもあります。
自分自身が持っている、誰かを見下したい欲求や感情を他人が持っているものとして思い込んでいると考えることは、心理学用語の防衛機制の一種である「投影」で説明できます。
防衛機制とは、自分の欲求が満たされないなど、精神的に不都合なことが起きたストレスをか感じた時に、そのストレスを緩和するために取る行動を指します。
その中でも、投影と呼ばれる行動は、自分が抱いている感情や欲求を他人が持っているものとして考えることを指す。わかりやすく言えば、責任転嫁をしてストレスを緩和しようとすることです。
そもそも「誰かを見下したい」と感じること自体、社会常識・道徳の面で見ても、あまり推奨できるものではありません。
また、もし自分が見下したい欲求を持っていると認めようものなら、まるで自分は内面が非常に醜く汚い人間だと認める苦痛や葛藤を味わったり、見下したい気持ちを肯定したことで周囲からの評判を落とす危険性があります。
そんなことにならないためにも、自分の中に芽生えた受け入れがたい欲求を手放すために「見下したいと感じているのは自分ではなく他人の方だ」と考えを変える。(=投影する)
こうすることで、自分は穢れなき存在であると考えられるのでストレスは減るのです。
…もちろん、投影された側からすれば、いきなりいわれのない罪をかぶせられているようなものであり、いい迷惑でしょう。
勝手に見下したい欲求がある醜い人間だと思われるだけでなく、そのことを言いがかりに加害者に仕立て上げられるリスクもあるので非常に面倒。
防衛機制の投影は、個人レベルで見れば自分の醜い部分を他人に押し付け、ストレスから回避できるというメリットがあるのは事実でしょう。
しかし、集団レベルで見れば醜い部分を押し付けてきた人への嫌悪感を増し、結果として投影した人が余計にストレスを感じる状況を招いてしまう…という、自業自得なオチを招いてしまう防衛規制とも言えます。
認知の歪みから見る「見下された」と感じる心理
防衛機制の他にも、ものの見方の偏りや論理的ではない思い込みを指す「認知の歪み」の一種である「結論の飛躍」でも、見下されたと感じてしまう心理を説明できます。
「結論の飛躍」は、その名の通りある小さな事柄をもとに飛躍した結論を導き出してしまうことです。
見下されたと感じる人が、他人の些細な言動を拡大解釈して「この人は自分を見下しているに違いない」と結論づけてしまうことは、まさに結論の飛躍そのものと言えます。
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