映画やドラマ、ドキュメンタリー番組などで、感動もの・お涙頂戴ものは一種のジャンルとして確立されています。
特に、夏場は終戦に関連して過去の戦争にまつわるドキュメンタリー番組であったり、24時間テレビのように障害者や社会で生きづらさを抱えている人をテーマにした番組が数多く放送され、視聴者の方々の涙を誘う時期であるようにも感じます。
感動ものの作品は、ただ感動して涙を流して気分をスッキリさせるばかりではなく、苦難をものともせず健気に頑張る人の姿を見て励まされたい…そんな気持ちを抱いている人を支える作品という側面もあり、先行きの見えない不安や暗さに悩まされている現代人の間で人気を博すのも頷けるように感じます。
しかし、感動ものの作品は人によっては
- 「どうしても泣けない」
- 「泣くよりも前に気分が白けてしまう」
- 「泣かなかった冷たい人だと思われてしまうので、見るのがめんどくさい」
と、苦手意識を感じている人も少なくありません。
感動ものが苦手と感じる理由
演出があざとすぎるので見ていて疲れる
感動ものの作品はフィクション・ノンフィクションに限らず、泣かせるためあざとい演出が目立ちます。
例えば
- 過去を回想するシーンが入る。
- 苦労するシーン、不幸になるシーンが続く。
- 妙に落ち着いたナレーションによる説明が入る。
- ワイプなどで誰かの泣き顔や目を潤ませている顔が映る。
- 登場人物の死、避けられない別れを想起させるフラグを立てる。
- ピアノやオルゴールのBGMを流して、これから感動のシーンが来ますよと暗に訴えかける。
などの、感動のシーンへとつなげるための露骨な演出が多く、気づいてしまうと途端にストーリーに感情移入できなくなり、白けてしまうのです。
感動ものの作品の場合、視聴者を感動させることを主眼に置いているために、どうしても感動のための演出に偏るのである意味仕方のないことですし、もしも演出不足のせいで中途半端な感動に終わってしまっては意味がないという考え方もできます。
そのため、多少しつこくなってもいいので、過剰な演出になることは感動もののあるあるネタとも言えるでしょう。
人の命を軽く扱っているように感じて怒りを覚える
感動もので多いのが「誰かが死ぬ」というストーリーです。
- 最愛の人が治せない病気で死ぬ
- 世界を救うために自己犠牲を払って主人公が死ぬ
- 犬や猫などのペットが年老いて死ぬ
など、たとえフィクションであっても「死」という避けられない運命、は良くも悪くも作品を引き立てるひとつの要素となります。
しかし、その死があたかも感動のシーン呼ぶのに必要な一材料として雑に扱われていたり、余りにも死のシーンが軽く扱われていたり、すると嫌悪感を覚えてしまうのです。
泣かなければ「冷たい人」だと思われて辛い
感動ものの作品を自分一人だけで見るのならともかく、友達や家族と一緒に見る場合は、泣かなければ「冷たい人」だと思われてしまって辛い思いをすることがあります。
大抵の人は「感動=涙を流す」と考えているために、感動してただ胸がジーンとなるだけでも「あなたはこの作品に感動してないの?」と言われてひねくれている人だとレッテルを貼られてしまうこともあります。
また、感動ものは素直に感動することそのものが楽しみ方であるという雰囲気だと、純粋に一作品と鑑賞や分析をすることすら難しくなり、話題のかみ合わなさゆえに感動ものの作品に苦手意識を感じてしまうのです。
感動ありきのための強引なストーリー展開に違和感を覚えてしまう
感動ものの話をよく分析していくと、感動ありきの結末に持っていくためにやや強引なストーリー運びになっていたり、やたら過去の苦労話を掘り起こして美化している、などのツッコミを入れたくなる点があります。
(感動ものというよりは美談になりますが)例えば、クラス一丸となって皆勤賞を目指そうとしていたものの、途中でインフルエンザにかかった生徒が出たのに、無理をして出席を敢行。
そのおかげもあってか無事に皆勤賞を果たし全員卒業した…という、一見美談のように見えて、インフルエンザの出席停止を無視した危機管理意識の甘さが見過ごされているというものです。
確かに、苦難の乗り越え悲願である皆勤賞を達成した喜びは大きいのでしょうが、美談を求めるあまりに解決すべき問題が無視されていることに違和感を捨てきれません。
また、この手の話は運良くうまくいたからこそ感動出来る話として済んでいる一方で、一歩間違えれば感動はおろか大問題に発展するリスクも孕んでおり、無批判に応援したり肯定的に見れないのです。
途中で不幸になるストーリーが苦手
感動ものの作品に共通しているのが、登場人物が不幸な目にあったり、辛い思いをするシーンの後に感動の場面へとつなげるというストーリー展開です。
何の挫折や苦労もなく感動のクライマックスにたどり着いてしまっては、それこそ感動のシーンが味気ないものになってしまいます。
そうならないためにも、感動ものの作品には途中で挫折や苦労に巻き込まれて苦悩するシーンが数多く登場し、迫り来る感動のシーンに向けて用意します。
こうして登場人物が苦悩し葛藤するシーンを挟むからこそ、そのあとに来る感動シーンがより引き立ち印象的なもののように感じる…これが、多くの感動ものの作品に共通しているストーリー展開です。
しかし、感動のシーンが来ると分かっていても、途中で何度も不幸になるシーンを見ることに辛さを感じる人はいるものです。
とくに、不幸になるシーンが
- 「途中まで順風満帆だったのにいきなり不幸になる」
- 「何度も幸せになれそうだったのに、運命のいたずらにより不幸に逆戻りする」
という、落差のある不幸だと、その分見る人の心に良くも悪くも負担をかけてしまい、辛さを感じてしまうのです。
もちろん、フィクションの場合であってもこのことは同じで、何度も不幸に叩きつけられるシーンというものは、その後の感動を引き立てるための重要なシーンであっても何度も見ていては気が滅入ってしまうのです。
「心理的リアクタンス」から見る感動もの嫌い
感動もの作品や番組は、露骨生でに「あなたたちはこんなシーンで感動したいんでしょ?」と言わんばかりに、そこかしこに感動をイメージさせる演出を挟み込みます。
見ているうちに「ほら、はやく感動して泣きなさいよ」と言ってるかのように感じて、少々鬱陶しく感じてしまうことで、見ている側が意地を張り「絶対に泣くもんか!」と対抗意識を燃やしてしまうこともあるものです。
このように反発してしまう心理については、心理的リアクタンスという心理学用語で説明することができます。
心理的リアクタンスとは、他人や周囲から何かを強制されると、それに反抗してしまうことを指す言葉で
例えば
- 「勉強をしなさい!」と強く言われるほど、勉強する気が失せる。
- 「今○○が大流行です」と言われるほど、逆に○○に関心を持たなくなる。
- 恋人に別れを切り出されると、余計に関係を続けようとして意地を張ってしまう。
という行動が心理的リアクタンスのいい例です。
感動ものの作品は率直に「ほら、泣きなさいよ」と言葉で訴えているわけではありませんが、過剰な演出によりあたかも「泣いて当然」と迫ってくるように感じてしまうので、心理的リアクタンスにより反発心や抵抗感を持ってしまい、あえて感動を避けるような行動を取るのだと考えることもできます。
こうして書くと非常にひねくれていると思われがちですが、心理的リアクタンスは人間が持っている自分の態度・表情・行動などを自分で決めたいという欲求の現れでもあります。
「ほら、感動して泣けよ」と強く訴えかけられることは、言い換えればその作品を見て自由な意見や感想をもつことそのものを禁止されるのと同じであり、そんな窮屈な状態を避けるためにも反発しようとする心理が働くのです。
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余談:感動ポルノについて
感動ものの作品に関して、ネット上では「感動ポルノ」という言葉があります。
感動ポルノとは、お涙頂戴ストーリーのために一般的にかわいそうな人、不幸だと思われている人(障害者、引きこもり、発展途上国の人など)に狙いを定め、勝手に大げさな悲劇や苦難があったとストーリーを付け加える。
そして、感動する画を作り出すために、その人の生き様や意思を尊重せず、感動を呼ぶような人生を歩んできた人のように仕立て上げている事への皮肉を指した言葉です。
例えば、ある障害者の苦労に迫ったノンフィクションのドキュメンタリー番組であっても、ありのままの姿を放送しているわけではありません。
演出や脚本、構成…場合によってはBGMやナレーションの声色など、より感動を呼ぶような画になるための意図的な脚色がなされているものです。
そのため、動画を見て感激したあまりに障害者を理想的な存在として感じてしまうことは、言い換えれば脚色されたストーリーに感化されただけにすぎず、障害者本人の辛さや葛藤についての理解が浅い状態のままだということになります。
また、感動ポルノの多くは「苦難や挫折にめげずに頑張っている」という清く正しい人たちが多く映し出されています。
しかし、実際はいつも清く正しいわけではなかったり、「やっぱり挫折なんかせずに順風満帆に生活できたほうがいいよね」という本音が認められず、視聴者が求めている(であろう)「苦難にめげずに頑張っている姿」を本人の意思を無視して押し付けることにつながるのではないかという懸念もあります。
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