感動ポルノが抱える問題点について

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感動のストーリーのために、実在の人物を都合よく利用する。

本人の意図を無視して勝手に都合のいい感動できる要素を見つけて、無理やり感動のストーリー展開を作ったり、ドラマ仕立てに仕上げる。

このようなことで出来た感動のストーリーは「感動ポルノ」と揶揄の意味で呼ばれることがあり、ネット上で疑問視する声が度々起こります。

感動ポルノは、夏の終わりに毎年放送される某チャリティがテーマの番組のように「障害者」がテーマの感動ドキュメンタリーを指して使われていた過去を持つ言葉ですが、最近ではスポーツ(高校野球、大学駅伝など)や災害の被災者、動物などの生き物も感動ポルノのテーマとなっているように感じます。

今回は、感動ポルノが抱える問題点や課題についてお話しいたします。

感動ポルノの題材になるもの

感動ポルノの問題点を語る上で外せないのが、どういった属性を持った人が対象となっているかについて確認しておくことです。

感動ポルノはその属性を見る目や考え方を歪めたり「ある属性=感動を呼ぶもの」という、わかりやすい考え方が身につくことで、他の考え方の可能性が奪われてしまう恐れがあるからです。

障害者・社会的弱者

感動ポルノのテーマになりやすく且つ最も馴染みがある(と言うと複雑な気分になりますが…)なのが、障害者や社会的弱者です。

特に障害者の中でも、身体に障害があり目で捉えやすい。言い換えればチャリティ番組において、映像として視聴者に訴えやすい身体に障害がある人こそ、感動ポルノの題材になりやすい属性を持った人といえます。

また、障害者にも共通するものがありますが

  • 性的マイノリティの人
  • 貧困、飢餓、疫病に苦しんでいる人
  • 低学歴、学力が低い人
  • 引きこもり、不登校の人
  • 人間関係から孤立している人
  • 戦争や紛争の危機に脅かされている人

など、国内外と問わず差別や偏見の対象になったり、命の危機に晒されている人派、感動ポルノのテーマとして扱われやすい属性を持っている人といえます。

スポーツ

高校野球や大学駅伝では、大会の様子が映されている一方で、レポーターが必死に感動できるエピソードを流す光景がよくあるものです。

例えば、

  • 自然災害で苦しんでいる人たちのために頑張る
  • 応援してくれる家族や地元の人のために頑張る
  • 怪我で出れない友人のために頑張る
  • 厳しくも優しい監督やコーチのために頑張る

など、友情、家族愛、地元愛、師弟愛などに関するエピソードが頻繁に挟まれており、純粋なスポーツとしてではなく、脚本なしの感動ドラマとして中継されているようにも見えます。

「スポーツ=感動」という図式が、知らないうちに出来上がり、感動を呼ばないスポーツ選手は世間や視聴者から認められない、という構図ができているように感じることもあります。

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災害の被災者

東日本大震災を機に広まった「絆」という言葉にもあるように、地震や台風、土砂災害などの自然災害の被災者が感動ポルノのテーマになることも多いものです。

災害という日常の生活が脅かされたり、大切な思い出や人たちが災害により簡単に失われたにも限らず、懸命に復興を目指して頑張る光景が感動を誘うために、感動ポルノのターゲットとなるのです。

ペット・動物

人間以外の動物も感動ポルノのターゲットになることがあります。

犬や猫などの家庭で飼育できる一般的なペット扱いされる動物から、絶滅危惧種に指定されている動物に至るまでターゲットの幅は広い傾向があります。

また、動物ならでは

  • 人間と比較して寿命が短く「死」をテーマにしやすいこと。
  • 言葉が話せず、気持ちや思いを伝える手段が無い。あるいは限られている。

ために、勝手に感動できる要素を見出したり付け加えたりしやすい。そして人間と違って権利を主張したり反発することもまずなく、皮肉ですが感動ポルノにしやすい存在といえます。

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感動ポルノが抱える問題点

感動ありきのためにプライバシーが暴かれて公表されてしまう

感動ありきのために、対象となっている人の生い立ちや交友関係などのプライバシーを勝手に詮索して、都合よく結び付けられて多くの人に公表されてしまうことが感動ポルノの問題点といえます。

人によっては自分の恥ずかしい過去や秘密にしておきたい出来事があるのにもかかわらず、視聴率アップや番組を盛り上げるという目的のためにプライバシーが暴かれて消費されることは、無批判に肯定できるものとは言えません。

また、人によっては公表することを認めつつも「公表される情報は感動とは無縁のものであってほしい」と感じている可能性も否定できません。

無理やり感動と結びつけられ、あまり見たくない過去は全てポジティブな見方であるべきだ、という暗黙の了解に苦しめられることが、感動ポルノの問題といえます。

感動話や美談として消費され、解決すべき課題が放置されたままになる

例えば甲子園では、散々熱中症や投球数の多さなどが問題視されているものの、それすらも「自己犠牲を厭わない高校球児のあるべき姿」と言わんばかりに賞賛され、感動のために消費されているという考え方ができます。

また、野球に限らずブラック部活動のように加熱するあまりに、学生、教員、保護者それぞれが不調や疲労を訴えて問題に繋がっている例もあります。

ですが、それらの問題が「感動できるから」「美談になるから」という言葉で覆い隠され、解決すべき問題がそのまま放置されている状況には疑問が拭えないものです。

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テーマになっている対象への多様なものの見方が失われる

例えば、障害者や社会的弱者は人々に元気づけて感動を起こせるばかりの人間…ではないことは、冷静に考えればわかるはずです。

また「障害者や社会的弱者は感動をさせるような努力家でなければではならない!」という一義的な考え方も差別や偏見を招くものでしょう。

感動ポルノは、テーマとなる属性を感動と強く結びつけて印象付けますが、一方では「ある属性=感動を呼ぶもの」というわかりやすいイメージがつくことで、対象となっている人や属性への多様なものの見方や議論が失われてしまう問題もあります。

そして、ついてしまったイメージのせいで実際に誰かのために頑張れないことで悩む障害者や、自分には何も人を感動させるようなエピソードがないことで劣等感を感じるスポーツ選手や部活に励む人の存在も無視できません。

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パラリンピックの世界にある生きづらさ

障害とスポーツの両方が絡むパラリンピックの世界では、以下のような事例もあります。

パラリンピック選手は、「障害者」と「アスリート」の2つの区分に属する。

障害者に対する「できないことがある弱者」「清い人」というイメージと、アスリートの「身体機能を高めた強者」「清い人」という一見相反するイメージの中に「清い人」という共通項があり、「聖人君子であるべき」というレッテルを貼られる。

移動の困難や情報アクセスなどの物理的な害より、マジョリティから勝手に貼られる「よくわからないから、こうしておこう」といったレッテルの枠に収められることに、障害者は生きづらさを感じる。

この「社会からの枠に自分を合わせる葛藤」は、トップアスリートも同じだと花岡さんは言う。

「そこで権利を主張すると、たちまち“プロ弱者”という新たなレッテルが貼られ、いくら正しいことを言っても、影響力が低下します。こんなに気を使わないと物が言えない。この時点で、かなりの生きづらさがあります」

引用元:トップアスリートの知られざる困難 当事者研究から考える、2020東京五輪 熱狂への警鐘 | 東京大学 より

このような事例は、感動ポルノにも共通しているでしょう。

感動ポルノのせいで「ある属性=感動を呼ぶべき存在」と神格化されたり、現実離れした理想像が定着する。

そして、ある属性に当たる人が感動ポルノによって定着したイメージ以外の考えや主張を持つことすら認められずに抑圧したり、自分を過度に押し殺してまで理想像になることに葛藤を覚えている状況は好ましいとは思えません。

感動ポルノせいでついた勝手なイメージに期待を含めて投影されるものの、その期待通りにならなければ失望したり、レッテルを貼る光景は、まるで芸能人のファンだった人がなんらかの出来事でアンチに豹変する光景を見ているようです。

感動のためであれば、感動ばかりが優先され個人の考えや主張が受け入れられない。また、個人が持っている弱さ、醜さ、拙さなど、問題解決のためには向き合うことが必要な事柄が、感動を阻害するものとして認知され徹底的に排除される。

感動を呼ぶ要素こそ絶対的な正義であり、それ以外の要素は悪や異分子を捉えられてしまうことが、感動に偏りすぎることの弊害といえるでしょう。

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感動ポルノが持て囃される裏にあるもの

もちろん、感動できる話に対して理屈っぽくツッコミを入れること自体、実に野暮で無粋でせっかくの雰囲気を台無しにする空気の読めない人と思われても仕方ありませんし「感動できるからそれでいいじゃない」「ハッピーエンドなんだから何か問題あるの?」という声にも頷けてしまうのも事実です。

しかし、フィクションならともかく現実世界で生きている人を感動ポルノのネタとして消費する場合は別でしょう。

現実はハッピーエンドではないものを無理やりハッピーエンドーにする…というよりも、多くの人にとってはハッピーエンドではない目を背けたい現実だからこそ「感動のストーリー」で脚色しなければ見る気すら沸かないことが、無意識のうちに感動ポルノを支えている原因になっているのだと考えることもできます。

また、現実はハッピーエンドの大団円で無事終わり…というほど単純ではありませんし、番組が放送されたあとも、ハッピーエンドもなければストーリーが完結されないままの日常が続くものです。

そんないつまでも同じような退屈な日常…場合によっては生きづらくて閉塞感が覆いかぶさり、漠然とした不安が潜んでいる日常が続くような先行きの見えない時代だからこそ、感動のフィナーレに浸れる瞬間を求めている人が増え、結果として感動ポルノを支えることになっているのかもしれません。

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国立大教育学部卒、専攻は心理学。発達心理学、教育心理学、スポーツ心理学、社会心理学を中心に心理学に関する記事を執筆中。そのほかにも、人間関係やコミュニケーション、性格、スマホ、SNS、ゲームなどのあらゆるテーマを心理学の知識を用いて詳しく、面白い記事を書くことを心がけております。

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