時に長らくモラハラを受け続けた人間には、気力が無く自分の意志が無いように見えることがありものです。
それもそのはず、被害者を無気力にさせることこそ、モラハラの目的だからです。
相手から意志や考える力を奪い、自分に都合よく動くロボットのような存在になるように支配し、被害者自らが訴えを起こしたり反発する力を奪うために、非常に厄介です。
また、無気力になったことそのものをモラハラ加害者が攻撃材料にし「ハキハキしろ!」「不愉快だから落ち込んだ顔を見せるな!」と責め立ててしまえば、モラハラ被害者は「もう本当にどうすればいいのかわからない…」とひどく混乱し、精神的に消耗し無気力が悪化。そして攻撃材料にされる、という悪循環が待っています。
今回はモラハラと無気力の関係について、お話しいたします。
目次
モラハラにより自分の意見を後回しにしてしまう
モラハラの加害者は被害者の訴えや申し出は、まず聞きません。
もちろん、加害者と被害者と以外に誰かいるなどの状況次第では、加害者は聞いた「フリ」こそしますが、後々になって言い訳やごねるなどの手段で「さっきの話は、やっぱり違う」という状況を作り上げて、被害者を攻撃します。
そのようなことを何度も繰り返すうちに、被害者は何を言っても聞き入れてもらえないことを学習してしまい、自分の意見や考えを主張せず後回しにしていきます。
後回しにするならまだ良い方かもしれません。場合によっては、考えることそのものを放棄して加害者の言葉をただ受け入れるだけの状態に陥ります。
何を言ったとしても、何かを考え、何かを主張し、何かを行動したとしても、その全てが徒労に終わる。それを繰り返し味わされた経験は「何をしても無駄」という無力感を学習してしまいます。(=学習性無力感)
学習性無力感から見るモラハラ
1967年、アメリカの心理学者のマーティン・セリグマンらが犬に対して電撃による苦痛を与える実験をしました。その際にセリグマンたちは犬たちを3つのグループに分けました。
- ひとつは電撃を受けるが自分の仕草でこれを止められるグループ。
- ひとつは電撃を受けても自分の仕草でこれを止めることができないグループ。
- ひとつは最初から電撃を受けないグループ。
実験が終わったとき、電撃を自分の仕草で止められるグループと、電撃を受けなかったグループは、同じ電撃を受けたときに、これをなんとしても止めようと行動を起こしました。
しかし電撃を受けても自分の仕草で止めることができないグループにいた犬は、たとえ自分の仕草で電撃を止める事ができたとしても、電撃を止めようとせず行動すらも起こそうとせず、ただ痛みに耐えて受け入れ続けるだけの存在となってしまっていました。
こうして痛みをただ受け入れるだけの存在になってしまった可哀想な犬を「セリグマンの犬」と言います。
そしてセリグマンらは、のちに同様のことが他の生き物でも起こる事を突き止め、人間でもそれが起こると結論づけました。
モラハラに晒され続けて無気力にされている人は、この学習性無力感におとしめられて意志を奪われてしまった人と言えるでしょう。
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モラハラを受け続けて自信・自尊心を失ってしまう
学習性無力感は積極性や情緒に多大なる障害をもたらします。物事への積極性が失われ、逃げられないと言う認識が感情すらも封印させます。
その印象ははよく言えばおとなしくて言われたことはちゃんとやる真面目な人。しかし悪く言えば自己主張をする自信すら失い、自分で何か決めるよりは他人のいいなりなることで自尊心を守ることを選ばざるを得なかった人といえます。
自尊心とは自らを肯定できる、肯定して良いという環境で育つもの。しかし、モラハラのような、これといった妥当な理由すらなく何度も否定される環境に晒されたせいで、自尊心や自信は失われてしまいます。
当然ながら壊された自尊心は自分を守ってくれません。それどころか自尊心を壊されることで、
- 自信がない自分に対して自己嫌悪に陥る。
- 自分で自分を責めてしまい落ち込んでしまう。
- 「自分は完璧ではないから厳しくされないとダメ」と悪い意味で追い込んでしまう。
などを繰り返して、自己評価が下がってしまった結果「自分はモラハラを受けても仕方がないようなダメな人間だ」とモラハラ加害者がいる環境そのもの肯定することにつながります。
「自分はモラハラを受けても仕方ない」という考えに陥る
自信も自尊心も失われてしまったモラハラ被害者は、自分を肯定してくれるものが、何もない精神的に不安定な状態になります。
また、こうしてモラハラ加害者によって学習させられた無力感は、同時に自信の状況への諦観を生み出します。
まさに先ほど述べた「セリグマンの犬」と同じ状態です。どんな苦痛を受けても、諦めて受け入れてしまうのです。
こうしてモラハラの被害者は「自分はモラハラを受けても仕方がない」という考えに陥ってしまいます。
どんな行動を起こしても否定され、どんな意見を言ったとしても「それはそれ、これはこれ」と相対化されて聞き入れられずに終わる。まさに苦痛を受けても自分ではどうしようもできないなら何もしない方がマシだという心理になるのも無理はありません。
終わらないモラハラの苦痛から解放されるには、苦痛そのものを日常として受け入れるほかない…当然ですがそんなことをしても、苦痛は苦痛として残り続けますが「モラハラは仕方がない」と自分の認知を歪めることで苦痛を苦痛と見なさず受け入れてしまうのです。
自信がないから、モラハラ加害者に依存してしまう
こうして無力にさいなまれて、自信が失われていったモラハラの被害者は、その代替となるものを求めます。そこに「これで相手を支配できる」と狙ったようにモラハラ加害者は食いついてきます。
自信と自尊心が失われ、自分の感情と思考、すなわち意志そのものを奪われてしまったモラハラ被害者は、もはや自分で自分の事を選択し決定するなどと言う事はできません。加害者はここにつけ込んで被害者の支配を強固なものにしていきます。
ここまでモラハラが進行すると被害者にとって加害者は「自分の全ての面倒を見て、いろんな事を決めてくれる人」という認知になります。いわば本来加害者であるべき者が、被害者にとって「自分を守ってくれる人」「楽にしてくれる人」と、肯定的な人という認知になります。
また、それこそが加害者の狙っていた事でもあります。加害者である自分を「必要な人」と受け入れてくれる事で、加害者は自らの存在意義を相手に見出し歪んだプライドを満たす快感を得る事ができます。
お互いにとって精神的な利益があり、支配=被支配の関係にすっぽり収まってしまうことから、たとえ被害者としてひどい仕打ちを受けていれも、その関係が崩れてしまうことを両者とも恐れているので離れられない…つまり、共依存の状態に陥ることもモラハラにはよく見られまう。
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無気力から次第に周囲との関わりが減って孤立することも
モラハラにより染み付いた無気力は、社交性や積極性を奪います。
それだけに留まらず、モラハラ加害者に対して依存すら示すようになると、被害者の交友関係は加害者の支配されたことでに、大きく制限されていくことになります。
加害者にとって一番困るのは、被害者が友達や職場の同僚、家族、親戚、ネット上の関係などの助言得て自らの意志を取り戻したことで、自分の支配下から逃れられてしまうことです。
それを防ぐためにも、加害者は被害者の交友関係を監視して頻繁に文句を言ったり、外出や働きに出ることを制限させて行動を制限するように働きかけます。
もちろん、直接「あの人達とは関わりを持つな!」とダイレクトに言うこともあれば「あの人達と付き合うのは常識的に考えたら好ましくない。」「お前のことを心配しているから、あの人たちと抱えるべきでない」と、あくまでも優しく心配するフリで、口を挟んでくることもあります。
こうして被害者の持っていた人間関係を把握と取捨選択を行い、被害者が頼れる人間を加害者である自分だけになるように仕向けます。
そうして相談できる相手もなくなるので被害者は孤立。
モラハラの被害を訴えるもなにも、訴える相手も場所もわからず途方にくれ。モラハラそのものを悪い意味で受容したり、抑圧して「うちにはモラハラなんていう問題なんかない」という心理に陥るのです。
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