エリートで高学歴。傍目には知性にあふれ、ゆえに温厚なのに、ふとしたきっかけでモラハラに手を染めてしまう…そんな人がいるものです。
そんな話をすると「まさかそんなことあるわけないでしょ」と思う人は多いものです。
知的で、理性的で、いわゆる優等生のようなエリート像を想像している人からすれば、彼らはモラハラというような野蛮で稚拙な行為に出るようには思えないと人たちというイメージが強いものです。
しかし、アカデミックハラスメントという言葉にもあるように、大学教授という一般的にエリートと思われている人でも、教え子に対して暴言や態度による嫌がらせを行っていることは明白です。個人的な解釈になりますが、アカハラは大学教授とその教え子という狭い人間関係におけるモラハラと言ってもいいでしょう。)
目次
エリートが持つ特権意識、特別扱いされたい気持ちがモラハラにつながる
エリートとして生きてきた人の中には、「自分は優れているから、多少横柄な事をしても許さされる」「自分は賢いから他の人から尊敬され敬われるべきだ」という特権意識を持つことがあります。幼い頃よりエリートである事を目指し生きてきた人ならばなおさらかもしれません。
そういう人たちは、ある意味では常に成果と評価と競争の中で生きてきた可能性があります
幼い頃より家庭や学校などの日常において
- 何らかの成果を上げられないと愛情や承認を得られない
- 競争で他者を蹴落としてでも勝たないと認められない
- 自分と他人の位置関係を何らかの成績の上下関係でしか見ることしか教わらない
- 成果主義の中で過剰な賞賛、あるいは過剰な否定の中で育てられた
- 常に経済的にも精神的にも不安定な家庭環境で育ってきた(だから学歴という安定したものに縋る)
といった、厳しい状態に置かれて育ってきたために、歪んだ特権意識をもってしまったと考えられます。
歪んだ特権意識をモラハラ被害者にぶつける
人間は、このような環境に置かれると自己愛を肥大化させ、他者を見下したり自身を必要以上に持ち上げて自分自身の心を守ろうとして、精神の安定を図ろうとします。
つまり「自分は優れているから、周囲もそれに従うべきだ」という歪んだ特権意識を生み出し、それで他人を支配したりコントロールすることで自分の精神的な安定を図るのです。
また、知識や経験を磨き、努力して高学歴のエリートとなったならば、その「努力の対価」としてますます歪んだ特権意識を肥大化しつつ、横暴な行動を「努力してきたからこれぐらい当然だ」正当化させることにもなりかねません。
しかし、被害者以外の前ではエリートらしい落ち着きや穏やかさを見せる二面性がある。
「エリートなのに乱暴」というイメージがついてしまえば、今までせっかく築きあげてきたエリートたる自分の努力が水の泡になります。
どういう行動を取れば周囲からエリート認められるか、について努力してきた人ほど、自分のイメージが一転して崩れ去るようなアクシデントは避けたいと思うのが自然でしょう。
しかし、だからと言って外面のいい顔ばかりで落ち着きのある自分を演じてばかりでは「本当は特別扱いされたい」という欲は満たせません。
しかし、特別扱いを求める相手もよく選ばなければ、「エリートなのに乱暴」という悪評を広められてしまいます。
そんな時に好都合なのが、確実に自分の支配下におけるモラハラ被害者に対してのみ「本当は特別扱いされたい」と強気に出て、鬱憤を解消することです。
外面はエリートで好印象なのに、内情は実にわがままで傲慢という二面性が顕著なのがエリートなモラハラの特徴です。
しかし、被害者は加害者に支配されているために悪評は表面化しません。また、外面がいいだけに「まさかあの人がそんな乱暴なことをするわけがない」という評判のせいで、被害を訴えてもまともにとりあってくれないのが、エリートなモラハラの怖さでもあります。
モラハラ加害者にとって被害者は自分を良く見せるための道具にすぎない
ここまで、モラハラを行うエリートが未熟な自己愛ゆえに「他者から見た自分」を非常に気にする事を見てきました。
では、モラハラを行うエリートにとって、モラハラをされる側の人をどうのように認知しているのかについて触れていきます。
競争を絶対的な正義とし、競争により蹴落とした者を見下し、自分で自分を特別な人間と考えそのように振る舞い、他者からは虚構の理想を見せて特別扱いされることを求め、それに従わない他者に対して自分を特別扱いするように無理難題を押しつけ、それでも抵抗するなら時に暴言や威圧と言ったモラハラに手を染める…
その行動の根底にあるのは、エリートである自身のステータスを上げるための「アクセサリー」あるいは「アイテム」を求めてることです。
周囲の人間は自分をよくするための装飾品でしかなく、一人の人間として見ていない。むしろ、装飾品という所有物として他人を認知しているからこそ、人を物のように扱い自分勝手に利用することに抵抗を感じないのです。
また、エリートたる自分の価値を下げる(意見を言ったり否定をしたり)ことがあるのなら、価値を下げる悪材料とならないように、モラハラ行為にて矯正(=強制と言ってもいい)を強いるでしょう。
もちろん、それでもダメならやむを得ず被害者との関係をバッサリ切り捨てて、他の被害者を自分の装飾品へと仕立て上げることも検討します。
しかし、実際は簡単に切り捨てようものなら、悪い噂を流されてエリートである自分の評判に泥がついてしまう恐れがある。同時に自分が今まで苦労して手にしたエリートというブランドを、「他人を切り捨てるような人」という認識のせいで失ってしまう不安もあり、切り捨てることは決して万能且つ安泰とは言えません。
そうした先々の不安やリスク・リターンを考慮した結果、より強引なモラハラを行いなんとか矯正(強制)を試みて引き留めたほうが無難という結論に至ります。
結果として、被害者は逃げるに逃げ出せない状態、加害者から見れば被害者を捨てきれない状態、という今日依存関係に陥り、モラハラ行為は密室化すると同時にエスカレートしてしまうのです。
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プライドを傷つけられるのが苦痛を、モラハラで解消する
上述のようにエリートを目指した者が、エリートとして生きる中で培われた感性によるモラハラは、決して自らの間違いを認めません(≒謝ったら死ぬ病)し、自らが傷つけられることを受け入れる事が出来ません。
まともなエリートは、自分の未熟さを認めたり、現実と折り合う事を経験して精神的に成熟していくのですが、モラハラを行うエリートは見たいものばかりを見続け、自己愛ばかりを肥大化させていきます。
そのようにして培われた肥大化した自己愛は、非常に脆くて未熟です。
そもそもが現実逃避の過程で生まれたものであるため、些細なことでも簡単に崩れやすい。現実を直視したり、自分自身を否定されるような場面を非常に恐れます。
こうした人にとって、プライドを傷つけられることは、大げさでなく死にも匹敵する苦痛を伴うものとして感じることがあります。
そのプライドを守るために、モラハラを行うエリートは全力で「自分の理想の世界や価値観」に逃げ込もうとします。近しい周囲に自分の特別扱いするように強いて認めさせようとします。
かくして精神的に未成熟で、まさに失笑を誘うようなエリートとはお世辞にも呼べないコンプレックスを抱えたエリートとなり、歪んだ自己愛のせいで起きる不安や葛藤をモラハラという手段で解消(≠解決)することにのめり込むのです。
ハロー効果からみる高学歴エリートのモラハラ
もちろん、努力して学力・学歴を身に付けエリートになったことは素晴らしい事ではありますが、だからと言って自分のわがままや横暴が全て許容されると思い込むのは道徳(モラル)に反するものです。
また、エリートであることが自分のわがままや横暴を正当化する材料にはならないことも、同様に明白です。
しかし、いざ学歴という権威を振りかざされてしまうと、つい相手の横暴をつい受け入れてしまい、どこか特別扱いしてしまうのもまた人情であり、人間の心理と言えます。
相手が東大生(東大卒)と聞くだけで、つい低姿勢になったりへっぴり腰になる。ノーベル賞受賞者というだけでと、ついその人の個人的な極論や場合によっては乱暴な意見ですら、その人らしさを示す個性のように好意的に受け取ってしまうのは、いわゆるハロー効果(後光効果)によるものだと考えられます。
ハロー効果とは、あるひとつの特徴をもとにすることで、その人の印象が大きく変わってしまうこと心理学用語です。
学歴や経歴などの相手が持つ優れた部分や才能などの情報を元に、相手の何もかもが素晴らしい、全体的に優れているに違いないと、錯覚してしまうことを指します。
学歴というその人のイメージを何もか過大評価してしまう権威あるものを一つでも見せつけられてしまうと、横暴な行動ですら「権威ある立派な人なんだから、多少の横暴もその人の魅力だし、従うのが自然だよね…」と考えてしまう。
これは、ハロー効果のせいで暴力的な行動ですら、その人の魅力と解釈し、結果としてモラハラを許容していると言ってもいいでしょう。
こうした学歴や権威に弱い人はモラハラ加害者からすれば、学歴を見せびらかすだけで自分の特権意識への欲求を満たしてくれるカモ…もとい好都合相手です。
…言い方は悪いですが、学歴のような権威あるもの、ブランドに弱い人ほど、エリートな世界で生きているモラハラ加害者のいい餌食になるのです。
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