年末年始の雰囲気というものは、毎年慣れようと思ってもなかなか慣れることができない。
クリスマス~お正月の三が日ぐらいまでは、基本的にどことなく世間全体が浮かれているようで、いつもの日常らしさが感じられない。
こんな不慣れな気持ちを味わうぐらいなら、クリスマスや正月も仕事をしたり、学校に通っていた方がなんだか落ち着く…そんな気持ちにふと心あたりがある人は、きっと少なくないと思います。
今回は、この「年末年始の雰囲気が苦手」という心理について、お話いたします。
こちらもおすすめ
年末年始に感じる辛さ、憂鬱さ
一年の終わりなのでセンチメンタルになる
年末は「一年が終わる」ことを強く自覚するため、どこかもの悲しくてセンチメンタルな気持ちになりやすい時期でもあります。
年末も新しい年が近づいているために、嫌でも自分が年齢を重ねたとか、暮らしっぷりが対して変わっていないとか、周囲の人がだんだん老いて衰えていっている…などの現実を強く感じてしまい感傷的になるのです。
(毎週のように訪れる週末が、花金(華金)として歓迎され、日曜の18時ぐらいに週末との別れを惜しむ声が目立つ中、年末はその存在自体が感傷を誘うものとして扱われがちなことは、皮肉というか、非常に複雑な気持ちになります…)
仕事や勉強で自分の成長してなさに自己嫌悪してしまう
年末になると、今年一年をなんとなく振りかえなければいけない気持ちになるものです。
もちろん、いいことがあったり仕事や勉強で何か成果や結果を出せていればいいのですが、残念ながら大した成果も挙げらおられず、あまり進歩のない一年であれば「なんて自分は不甲斐ない一年を送ってきたのだろうか」という自己嫌悪に駆られます。
また、仮に進歩の一年であったとしても、根が真面目すぎると「来年はもっといい結果を残さなければいけない…」という強迫観念を抱いてしまいます。
年末年始は時期的にも区切りがいいことから、一年の振り返りを行いやすいものです。しかし、成長していようとしていまいと、真面目すぎる性格の人のように、どっちみちプレッシャーを感じやすい性格の人は、生きた心地がしない時間を送っているように感じるのです。
去年とあまり代わり映えのない人生を送っていて虚しさを感じる
一年前と比較しても、あまり代わり映えのない日常を送っていることを自覚してしまい、虚しくて行き場のない気持ちを抱えることがあります。
とくに社会人生活になってからだと、あっという間に時間がすぎて一年が終わろうとしているのに、実際の生活は前年とさほど変化もなければ刺激も無い。そんなことを繰り返しているうちに年老いてゆくのだろうか…という焦りや不安に襲われてしまうのです。
もちろん、代わり映えのない生活は平穏で無事な暮らしができているというポジティブな見方も可能なので、決して悪いものではありません。
しかし、かと言って毎年同じような生活を繰り返し、意味もなく年を重ねて老いてしまうことを想像すると、身の毛もよだつようなゾクゾクとした「怖さ」を感じてしまうのです。
(なお、「平穏な生活はいいけど、かと言って平穏すぎるのは嫌だ」という悩みは、冷静に考えれば矛盾やジレンマがありますが、こうした気持ちもまた人間らしいどうしようもない悩みのようにも感じます)
テレビや街の浮かれた雰囲気に嫌気がさす
クリスマス前~お正月にかけては、TVだけでなくネット上でも、全体的に浮かれた雰囲気が広がるものです。
しかし、この浮かれた気分は
- 「浮かれた気分に馴染めない人はノリが悪いやつだ」
- 「浮かれた気分を楽しめる友達や恋人、人間関係や居場所はいるのか?」
という、ノリに乗れない人に対して、辛く当たっているかのように感じる要素もあります。
そして、どうしてもそのノリに馴染めない人にとっては、街に出てもネットにこもっていても「ねぇ、どうして賑やかな気分に馴染もうとしないの?」と、煽られているような気持ちを感じます。
とはいえ、焦りや不安から年末年始のノリに自分を合わせようとしても、慣れないノリなので心身ともに疲弊してしまう。かと言って馴染めないままでは煽られるような気持ちで苦しくなる…こうしたジレンマを年末年始のノリが苦手な人は抱えているのです。
帰省や年賀状に対する煩わしさ
実家に帰省すると言っても、
- 住んでいる場所が非常に遠くて移動に時間がかかる。
- 実家(or義実家)との仲がよろしくなくて、帰省そのものが憂鬱。
- 自分の実家毒親家庭のために、家に寄り付きたくない。
などの、悩みを抱えている人にとっては、年末年始の帰省はわざわざ疲れに行くためにお金と労力を無駄遣いする、まさに不毛の極みといえます。
とはいえ、帰省しなければそれはそれで非常識な人として問題視されたり「あのお家は実家との仲が悪いのだろうか…」と、かわいそうなものを見るかのような目で見られてしまう懸念もあるので、渋々実家にかえっている
また、お正月の定番である年賀状も「本当は面倒だけど、義理や付き合いがあるから仕方なく出さなければいけない」という義務感からくる単純作業のように感じるので「年末年始=憂鬱」というイメージが定着していると考えられます。
最後に
ここでは筆者の過去を例にして話しをします。
筆者にとって年末年始は自分の総決算をするような時期でもあります。
前年と比べてどれだけ仕事で成果を挙げられたのか、いくら稼いだ額が増えたのか、昇進したのかを前年と比較し、正当なジャッジを周囲(主に親、親戚、職場、社会の目)から受けた後に来年につなげていく、査定されているかのような感覚を味わう時期でもあります。
学校生活にこれはおいても同じで、どれだけ偏差値や成績を上げたのか、大学への合格可能確率は上がったのか、部活でも好成績を出せたのか、友達は増えたのか、生活態度は良くなったか…などのありとあらゆる情報も前年度比べられ正当なジャッジを受けた後に来年につなげていきます。
もちろん、しっかり成果をあげて成長できていればいいのですが、どうしても伸び悩みや、悪化している場合については、厳しい追及や「詰め」、場合によっては「無視(スルー)」が待っているので、あまり気持ちのいい年末年始を送ることができません。
また、学生時代は親相手に1年間お金や愛情をかけて育ててきてもらったのに、それに対する見返りが結果という形で示せていないことで、非常に申し訳ない気持ちに襲われると同時に、もっと努力して親や社会に貢献できる人材にならねばという焦った気持ちで胸が苦しくなりました。
親がかけた金額や労力に対して妥当な見返りを返せていない自分は、まるで含み損を抱えた塩漬け株、回収の見込みがない不良債権のように存在にすら感じられ、もはや正月休みを取れるほどいいご身分ではないという気分になり、申し訳のない気持ちを強く感じて、生きた心地のしない年末年始を送っておりました。
「いくら努力をしてもその結果がダメなら、お前は社会からの需要はない」という、今時にしては珍しく厳しい子育てをしているたいへん立派な親でした。
その期待に応えるためにも結果をシビアに追い求めることに、筆者自身必死だった時期があったものの、親元を離れてもその辛辣な価値観が色濃く残っていることを痛感する年末年始は、早く過ぎ去って欲しいものだと感じております。
(…もちろん、この子育ては後々冷静に振り返れば「条件付きの愛」で子供を縛り、歪んだ自尊心をもたらすも毒親な子育てだと言うことも実感します。)
関連記事