意識高い系の人の行動は、見ていると恥ずかしさのあまりに目を背けたくなる衝動に駆られるものが目立ちます。
彼らの行動には、いわゆる「痛い」と感じてしまうものが多く、時には失笑を誘い、時には滑稽のあまりに珍しい物を見物するかのような気持ちになってしまう人もきっと多いことでしょう。
覚えたての横文字単語を使って、さもビジネスセンスがあるような話し方をしたがる。自己啓発書に感化されたのか、熱意を込めて覚えたての抽象論や理想論を語りたがる。
しかし、当の本人はというと、周囲と比較して頭が良いとか、何か優れている才能があるというわけではなく、言葉の説得力や重みがまるで感じられない。それどころか話を見聞きしても「彼の話には内容が無いよう」だという虚無感を覚えてしまうものです。
でも、そんなことお構いなしに、自信満々に意識の高い言動を続ける姿勢に、なんだか気恥ずかしい気持ち…つまり「痛い」と感じるのです。
今回は、そんな意識高い系の人を見て感じる「痛い」という心理について、お話しいたします。
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目次
ダニング=クルーガー効果から見る意識高い系
ダニング=クルーガー効果とは、
能力の低い人物が自らの容姿や発言・行動などについて、実際よりも高い評価を行ってしまう優越の錯覚を生み出す認知バイアス。
(wikipedia ダニング=クルーガー効果より)
という、現象をさします。
能力の低さゆえに
1.自身の能力が不足していることを認識できない
2.自身の能力の不十分さの程度を認識できない
3.他者の能力を正確に推定できない
4.ただし、その能力について実際に訓練を積んだ後であれば、自身の能力の欠如を認識できる。
と、自分の能力を客観的に見てどのレベルに属するものなのかが分からないし、能力が低いことを認識できていない。
もちろん、自分だけでなく他人の能力も客観的に見れないために、自分を過剰評価(あるいは他人を過小評価)してしまい、妙な優越感を覚えてしまう現象です。過大評価も過小評価もどちらも、能力を客観的かつ正確に把握しているものではありません。
能力を測るモノサシ(学力なら偏差値、スポーツなら公式記録など)についての知識も不足し仮に、モノサシとなるものを知っていたとしても、その数値が実力以上に優れているものだとバイアスをかけて解釈してしまうために、自分を過大評価することにつながるのです。
意識高い系の痛い言動は、ダニング=クルーガー効果を元に考えると、
- 意識を高く見せている能力が、実はそれほど優れているわけではにことを理解していない
- 意識を高く見せている能力が、社会や世間から見てどのように評価されているかを客観的に見れていない。
- 他人が持っている能力についても客観的に見れておらず、他人を見下し自分の能力を過信するような言動をしてしまう。
という、自分自身を客観的に見る視点(=メタ認知)や、調べるための知識が不足しておりどう考えても未熟さが目立つ…にもかかわらず、自分のことを素晴らしい人間だと思い込んでいるギャップが強いために、滑稽でシュールでどこか恥ずかしさを感じてしまうのです。
意識高い系に感じる「痛さ」と「無知の知」
哲学者ソクラテスの言葉「無知の知」とダニング=クルーガー効果には、深い関連性があります。
「無知の知」といえば、自分自身が無知であるということを知っている事を指す言葉であり、知識の探求においては、まずは自分自身が無知であるという自覚を持つことが重要だという文脈で使われる言葉です。
「『自分自身が無知である』ということを知っている」という構図からも、これは自分自身を客観的な視点から認知すること。つまり、メタ認知を指す言葉でもあります。
学問に限らず、スポーツや仕事で初心者がさもベテランのように知ったかぶりをするのは、まさに無知の知に気づいていないからで、そんな浅はかさを意識高い系の痛い行動から感じます。
意識高い「系」を脱却するチャンスを失ってしまう意識高い系
意識高い系の痛いと感じる行動は、お世辞にも自分のことを客観的に見ているようにも感じらないものです。
そもそも狭くて限られた情報しか頭にないのに、自分と同じような客観的に物事を考得ることができず、自分と似たような価値観や考え方をする偏った意識他界系の人たちで集まる。
そして、自己啓発本かセミナーかで仕入れた断片的な知識を無批判に受け入れると同時に、それを復唱するかのように口にする。
その姿は個性的に見えて実は没個性的。そのおかしさを指摘する人の存在がきっかけとなって、自身の無知さや愚かさを自覚する…となればいいのですが、多くは指摘の言葉を
- 「意識高い系の自分に嫉妬しているだけ」
- 「アンチができるほど自分は有名になった証拠」
と、主観的かつ自分の評価を上げるための材料として扱ってしまい、自分自身の愚かさを自覚し、意識高い「系」を脱却するチャンスを自ら失ってしまいます。
こうして、意識高い系は自分の実力を客観的に判断することなく、限られた情報や自分にとって都合のいい情報ばかりを入手し、バイアスをかけて自分を過大評価して持ち上げる、他人を過小評価して相対的に自分をよく見せる、痛い行動を連発してしまうのです。
自分の馬鹿さ加減がわからない意識高い系
(話がガラッと変わって申し訳ありませんが)
ゲーム「ペルソナ5」の敵キャラで、某秒速で億稼ぐ情報商材屋をモデルにしていると思われる金城潤矢(シャドウカネシロ)のセリフでこんなものがあります。
『若いってのは罪だよなぁ!世間知らずで無鉄砲。自分の馬鹿さ加減もわからねぇ。』
この言葉は主人公である高校生(プレイヤー)たちに向けられた言葉であると同時に、自分の能力が客観的に見てどの位置に属すのかを客観的に認知できていない意識高い系の人、無知の知を自覚していない人、能力がないのにもかかわらず自分を課題評価している「痛い」人達を、まさに痛烈に皮肉するセリフだと感じます。
馬鹿だから自分の能力を客観的に把握できないし、馬鹿ゆえに自分の馬鹿さ加減が客観的に見てどれぐらいの位置に属するのかも把握できない。
『世間知らずで無鉄砲。自分の馬鹿さ加減もわからねぇ。』という言葉は、まさに「無知の知」を自覚していないことと同じでしょう。
悪い大人に利用されている可能性を自覚できていないことが意識高い系の痛さを増す
なお、ゲームでは上のセリフのあとに
『そんなヤツら、搾取しなきゃ、もったいないだろ?』
と続きます。
金城潤矢は若者を中心に裏稼業の斡旋、及びそれを脅迫材料にして金を巻き上げる極悪人という設定。このセリフは、無知な若者に漬け込む金城の外道っぷりがよく現れているセリフです。
意識高い系が実際に詐欺被害に合っているかとか、犯罪に巻き込まれていると決め付けるつもりはありませんが、客観的に見て本当に血肉となる内容があるのかどうかが疑わしい、自己啓発本やセミナーに多くの時間と金銭をつぎ込む光景が目立ちます。
最近ならSNS上で多くのフォロワーがおり影響力を持つインフルエンサー(インフルエンザではない)のイベント、オンラインサロン、ウェブ配信などあらゆるサービスを、意識高い系と呼ばれる人がありがたがって利用している光景を見聞きします。
ただし、そのサービスはというと、自己啓発本やセミナーを更に薄めたように感じるもので、まさに内容が無いようなものです。ですが、それすらも大変ありがたがって課題評価すると同時に、そんなサービスを利用している自分は素晴らしいのだと自慢気に話す意識高い系の盲目さにはどこか恐ろしさのようなものを感じます。
こうした光景は、意識高い系と呼ばれる人が、胡散臭い商売をする人に取ってのカモとして認知されているように傍目から見えます。
そして、まるでカルト宗教の信者のように購入したサービスを有り難がり盲信すらも見えてしまうその光景は、なんだか悪い大人にたぶらかされている無知な若者を見ているようで、なんともいえない複雑な気持ちになります。
しかし、当の意識高い系の本人が「自分は胡散臭い商売のカモになっている」という客観的な認知すらできないどころか、サービスも自分も素晴らしいと過大評価してしまっている。
胡散臭いサービスを展開する人からすれば、自分が提供しているサービスのクオリティの低さにツッコミが入らないどころか、高評価のレビューまでしてくれるために、意識高い系はとても好都合な顧客なのかもしれません…。
意識が高くなく平凡な人間という事実を受け入れることが、意識高い系の痛さからの脱却となる
意識高い系のように、未熟で無知な自分を自覚せず、一生井の中の蛙として大きな世界を知らずに自分の知っている世界の中でのうのうと生きていければ、それはそれで幸せなのかもしれません。
自分の馬鹿さ加減がわからないから、傍から見れば胡散臭い大人から搾取されていることすら、自分への投資だの勉強だのと言いはれる度胸は、先行きが見えない現代社会では貴重かもしれません。
しかし、自分の無知さに自覚できないままでは、いつま経っても意識高い「系」のままであり、自分が理想とする意識の高い人には近づけません。
自分の未熟さや無知さを自覚し、現実の自分は特別でもなんでもなくごく平凡で普通の人間であるという残酷な事実を受け入れないまま、自分の見たいもの、聞きたいものばかりを追い求めようものなら、それこそ意識高い系が喜ぶようなサービスを展開している胡散臭い人の顧客のままでしょう。
意識高い系の人には、ただ自分は素晴しいという過大評価の他にも「自分は他の人間とは違って特別な存在なんだ」という強い思い込みも感じられます。
しかし、それはあくまでも思い込みでしかありませんが、思い込みであるという残酷な事実を受け止めて乗り越えられれば、意識高い「系」の脱却へと繋がると感じます。
…ただし、自分は平凡だと受け入れることは、そう簡単なことではなく辛く、苦しく、身も蓋もない事実の前にプライドを木っ端微塵にされ、打ちのめされそうになることでしょう。
そうした苦悩をなんとなく想像できるからこそ、意識高い「系」を脱却することを先送りにして、現状に甘んじてしまう…これもまた、意識高い系の「痛さ」なのかもしれません。
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