若者言葉の一種として「エモい」という言葉を発する人をよく見聞きします。
- いい音楽や絵画をみて「これはエモい」と呟く。
- イベントの構想を練る時点で「エモさが大事」と主張する。
- 「お前の言葉はエモみ溢れている」と褒め言葉として使う。
…と、一昔前に流行し、肯定・否定の両方の意味として使われたわれた「やばい」の代わりになる便利な言葉として「エモい」が使われているように感じます。
しかし、あまりにも便利すぎるせいか「とにかくエモいと行っていおけば通(ツウ)っぽく見える」という目的でも多用されている節も否めなかったり、「とにかくエモいと言っとけば流行に乗れている」という心理も相まってか、「とにかく『エモい』って言いたいだけではないのか?」という嫌悪感や残念な気持ちを抱いている人も少なくないことでしょう。
今回はそんな「エモい」と口にする人い感じる違和感や苦手意識についてお話しいたします。
そもそもの「エモい」の意味
wikipediaによれば
「感情が動かされた状態」「感情が高まって強く訴えかける心の動き」などを意味する日本語の形容詞。
感情が揺さぶられたときや、気持ちをストレートに表現できないとき「哀愁を帯びた様」などに用いられる。
日本語学者の飯間浩明も、同様に古代の「あはれ」と似た意味であるとしており、「『いとあはれ』と言っていた昔の宮廷人は、現代に生まれていたら『超エモい』などと表現していただろう」と述べている。
と、エモいについての説明が載っています。
感情を揺さぶるという言葉にしにくいものを表現する単語として、たしかにエモいという言葉の使い勝手の良さには頷けるものがあります。
もちろん、「エモい音楽」「エモく語る」と連体形や連用形として何かを修飾する文脈でも利用可能なだけでおなく「エモい…」と感嘆詞としても使える優秀な言葉です。
また、「あはれ」の文学である紫式部の源氏物語、「をかし」の文学である清少納言の枕草子のように、感情の揺れ動きや感動する様をうまく表現する言葉は、今から1000年ほど前の平安時代から存在しており、たしかにエモいのその一種という考えにも頷けます。
なお、古文単語であれば「いみじ(忌みじ)」も、「あはれ」と「をかし」と似ている言葉で且つ「やばい」や「エモい」に通ずるものがあると感じます。
エモいという言葉に感じる違和感
…さて、語源的な意味がわかったところで本題です。
正直若者言葉について茶々を入れる行為そのものが無粋の極みであり、お節介がすぎるように感じますが、覚えた違和感についてまとめていきます。
「エモい」に頼りすぎて揺さぶられた気持ちの考察が放棄されていることに耐えられない
エモいという言葉は、自分が今まで抱いていた胸のつっかえが取れたかのような、まさにこの感動をどう表現したいか分からずモヤモヤしていたところにちょうど都合よく出てきた…そんな痒いところに手が届く、孫の手のような画期的な言葉とも言えるでしょう。
しかし、その便利さに頼りすぎた結果、どうして自分の心や感情が大きく揺さぶられたのかについて深く掘り下げることが放棄されて、ただ表面的に「感動した」というニュアンスでなんとなく多用されているように感じます。
もちろん、ただ感動したことを表現するだけならそこまで嫌悪感を抱かないものですが、後述するように通であることを醸し出しているのに、実態は薄っぺらさが拭えないがっかり感に対して期待はずれだと感じるのではないかと分析しています。
通ぶっている姿に嫌悪感を覚える
エモいという言葉を使っている人に共通するのが「自分は人の心を震わせることや、感動する心理について他の人よりもセンスがありますと」と通ぶって背伸びをしているという点です。
ただ、「感動した」と言うだけではシンプルすぎて味気ないし、何より自分が通っぽい人であるアピールできない。
しかし、かと言って「感動した」以外に自分の感じた気持ちをうまく言葉にするだけの文章力や語彙力がない。仮に言葉にしようものなら途中で支離滅裂な文章になり、自分でも何を言っているのかよくわからなくなってボロが出てしまうというジレンマを抱えている…
そんな悩みを抱いている人にとって「エモい」という言葉は、
- 「感動した」よりも通ぶることができる
- 難しく複雑な言葉のせいで自分の野暮さを隠すことができる
と、一石二鳥の便利な言葉となります。
ひょっとしたら、小難しい勉強をせずに楽して自分を大きく見せたい人(意識高い系など)にとっては、非常にありがたい言葉かもしれません。
ですが、あくまでも通ぶっているだけでしかなく、考察や洞察が甘さは残ったままであり、話を聞いていくうちに違和感を覚えてしまいます。
「見た感じは何か感動したことを言ってるんだろうけど、話を見聞きした限りは『感動した』以外に内容らしい内容が一つも無い」という状況に、不気味さや気持ち悪さを感じるのではないかと思います。
「エモい気持ちを分かってよ」と自分の気持ちを伝えることを放棄している姿に耐えられない
「エモい」と口にする人の中には、「この作品はエモいからおすすめです」という具合に自分のお気に入りの作品やアーティストを勧めてくることがあります。
しかし、「エモい」と言われても、聞く方からすれば何がどうエモいのか、つまりこの作品のエモさのテーマ(例、家族愛、友情、惜別など)や伝えたいことは何なのかがさっぱり分からないままで、モヤモヤとした気持ちが残ります。
また、上述のようにただ「感動した」とは言えないパターンで「エモい」という言葉を使っている人であれば、エモさについて詳しく聞こうものなら、自分の野暮さを露呈することになるリスクがあります。
そのリスクを回避する意味でも、とにかく「これはエモいから」と強く言い続けたり、「エモい気持ちを分かってよ」と苦し紛れな態度を取りがちです。
その光景は、まるで自分が何に感動を覚えたのかを拙い言葉であっても表現することを放棄して、ただ相手に「自分の感じた『エモさ』を受け入れてよ!」と押し付けているように見られるのも無理はありません。
そんな押し付けがましさや感動の押し売りのような姿が、嫌悪感を生むのではないかと思います。
エモいといいすぎて没個性的なコメントになっている
通ぶってエモいと言う人が増えてくると「あれ、さっきみたこの人もエモいって言ってた」と感じて、以前まで感じていた通っぽさが薄れてしまいます。
それどころか、同じようにエモいという人が増えすぎたせいで、通らしく個性や特徴のある何かを言っている姿とは逆に、言っていることは没個性的で中身が無く薄っぺらく、半可通でしかないというギャップに驚き違和感を覚えてしまいます。
個性的に見せかけるも、含蓄もなければ薀蓄もない話になり「ただ感動を覚え表現している自分に酔っているのだろうか」と、こちらが冷静になってしまうまでの没個性的な一面を、エモいという言葉を使っている人を見ていると感じることがあります。
下手でもいいから「エモい」以外で自分の気持ちを表現してみる
エモいという言葉は非常に便利ですが、その便利さに甘えすぎて感動した話を考察してみたり、自分の気持ちを深く表現することを放棄するのは、せっかく覚えた感動をより深く味わえるチャンスを自ら手放しているように感じます。
ただエモいエモいと口にする光景を見ていると、その姿に実にもどかしさというか、「そこまで感動が口から出ているのなら、もうちょっと深堀して表現してみなさいな」と心の奥底でツッコミを入れたくなる気持ちに駆られます。
もちろん、お節介なのは重々承知ではありますが、まずは下手でもいいから感動した、エモい以外で、自分の感じた気持ちや感情を文章にして行くことからはじめて見るのがいいのではないかと思います。
自分の気持ちを「エモい」以外で表現するスキルが身に付けば、エモいしか使えなかった頃と比較して自分の感動や心揺さぶられた経験をより豊かに且つわかりやすく表現できるようになると感じております。
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