他人に対していじめ、嫌がらせ、マウント、暴力、無視、ハラスメント行為…など攻撃的な態度を取る人についてよくある考え方と言えば「他人を攻撃する人は、自分自身にコンプレックスや劣等感を抱いている。自分が弱くて劣っている存在ということが周囲にバレるのを強く恐れているから、攻撃的な態度を取り、自分は強い存在であるとアピールしている」と言うものです。
この考えは、心理学や精神医学の世界、いじめ問題を扱う教育現場、心理カウンセラーなどあらゆる分野の人・組織からも認められているのは事実です。
また、実際に劣等感を感じているからこそ、攻撃的な他人の脅威から自分を守るべく、自分の方から先に攻撃的な態度を取る人の存在があるのも事実でしょう。
言い方は悪いですが「弱い犬ほどよく吠える」という言葉にあるように、威嚇目的として他人に乱暴な言動をする事とその心理は、割とすんなり理解できるものだと感じます。
しかし、他人に対して攻撃的になる人が皆、自分に劣等感を持っている…とは限らないと言う考え方もあります。
今回は、そんな劣等感がないのに他人に攻撃的になる人の心理についてお話しいたします。
目次
高すぎる自己評価のせいで他人に攻撃的になる人たち
他人に対して攻撃的な態度を取る人の中には、「自分は特別で優れた存在だからこそ、他人に対して乱暴な態度に出ても許容される」という考えを持っているために、攻撃的な態度に出てしまうことがあります。
その姿は、劣等感に悩む人とは正反対で、過剰な優越感、強すぎる自尊心や自己愛、自己評価の妙な高さを持っている。まさに、傲慢そのものと言っても過言ではありません。
そんな傲慢さを持っているからこそ、他人に対して暴君であり且つ裸の王様のように自己中心的で乱暴な態度とってしまうのです。
自己評価が高いと言うと、一般的に良いことであり、なんら問題は無い事として捉えられていることでしょう。自己評価が低すぎてネガティブ思考に染まっている人と比較すれば、自己評価が高い人はポジティブで好ましいもの、世間から好感を得て当然だと考えている人が多いことだと思います。
しかし、あまりにも高すぎる自己評価を持ってしまうと「自分は多少乱暴なことをしても問題ないほんとに偉い人間である」と言う勘違いを起こしてしまう。それにより、他人との不要な衝突を招いてしまう危険性があります。
なお、自己評価という言葉は、心理学に関する書籍やビジネス書などで最近流行りの「自己肯定感」とも共通点があります。(場合によっては自己評価=自己肯定感というニュアンスで語られる事も多い)
しかし、適度な自己肯定感ならともかく、自己肯定感が過度に高すぎると、自分が人に迷惑をかけたり、純粋に人を傷つけているだけのおよそ認められるべきではない行為であっても、その行為を肯定的に捉えてしまう。つまり自分が他人を傷つける行為そのものを、自己正当化してしまう危さがあります。
過ちを起こしてもその罪を自覚できない。自覚できないからこそ、平気で他人を傷つけてしまう…という、非常に暗いというか、救いようがないというか、思わず目を背けたくなるような認知の偏りが、自己肯定感があることを良しとする考えの延長線上にあるということには、目を背けてはいけないと感じます。
高すぎる自己評価を持つ人が攻撃的になる場面
まずはじめに、高い自己評価を持つ人が、TPO関係なく他人に攻撃的な態度を取るわけではない事を補足しておきます。
攻撃的な態度を見せるのは、自分自身の高すぎる自己評価に対する他者からの指摘や批判、ツッコミなどが入った時と考えられています。
また、厄介なのが質問や疑問(例「どうしてそんなに自己評価が高いのですか?」)など、比較的穏やかな印象を持つ言葉であっても、自己評価の高い人はそれらを快く受け止めるのではなく、攻撃的な態度で反応してしまうことがある点です。
やたら高い自己評価を持つ人の視点に立てば、指摘・批判・ツッコミの声は、自分の自己評価の妙な高さを根底から崩すような、鋭くて心理的な苦痛を伴う言葉であると解釈してしまう。
そして、「自己評価の妙な高さを根底から崩す」と言う点では、質問や疑問といった比較的穏やかな言葉も同様であるとみなしてしまう。
自己評価の高さを傷つける言葉だと認知した以上は、その言葉をかけてきた人に対して攻撃的な態度をとって威圧しようとする。うまく威圧して相手を黙らせることに成功すれば、自分の自己評価の高さを適正なものに下方修正する不安はなくなり、今のままの妙に高い自己評価を保つことができるのです。
なお、高すぎる自己評価を持つ人は、そもそも高すぎる自己評価を持っているであろうことが普段の言動から感じ取れるために、周囲の人から良くも悪くも注目を浴びやすい傾向があります。
やたら自分を持ち上げるようなことを言ったり、自画自賛してさも自分は偉大な存在であるかのようにアピールすることが多いために、結果として他者からの批判や指摘の声を集中的に浴びやすい存在であるともいえます。
劣等感のある人はそもそも他人を攻撃しないという説も
一方で、劣等感を持っている人…つまり、低いor低すぎる自己評価を持つ人は、自分が弱くて劣っている存在であることを積極的に他人にアピールしようとしないという説もあります。
下手に自分を大きく見せようとした結果、自分の弱さを他人に見透かされてしまうオチになる懸念があるからこそ、なるべく人と関わろうとせず、消極的で目立たない生活を送ろうとする。
当然ながら、このような生活では、他人に攻撃的な態度を取る場面そのものが存在しない。つまり、劣等感を持ってはいるものの、他人に対して攻撃的な態度をとっているとは言えません。
なお、劣等感を持っている人の場合、攻撃的な態度を向ける対象が、他人ではなく自分自身に向かってしまうこともあります。
過剰な自虐、自己犠牲的な態度、衝動食いなど自らの健康を悪化させる行動、仕事中毒(ワーカホリック)をはじめとした各種依存症など、自分で自分を傷つけるような行動により、攻撃性を発露させることがあります。
この場合だと、他人を直接的に傷つける事とは違うの「劣等感の強い人から攻撃されている」と感じる事そのものがないと言う事は容易に理解できることでしょう。
余談 公正世界仮説から見る「攻撃的な人は劣等感を持っている」という考え
「攻撃的な人は劣等感を持っている」と言う考えが支持されている背景には、この世界は公正であると言う考え方…つまり、公正世界仮説が影響しているとの解釈も可能です。
公正世界仮説とは、簡単に言えば良いことをしたら良い結果が起こる、悪いことをしたら悪い結果が起こるという具合に、この世界は公正であると考える人間の心理を表した心理学用語です。(因果応報、信賞必罰といった四字熟語は、まさに公正世界仮説を端的に表していると言ってもよい)
公正世界仮説をもとに考えれば、他人に対して攻撃的な態度をするような、いわゆる悪人は、他人には知られたくない負い目や後ろめたい感情を持っている。
つまり、悪いことをする人には悪いことをしてもおかしくない妥当な理由を持っているのだと考えてしまう。
そして妥当な理由として挙げられるのが、劣等感やコンプレックスと言うわけです。
実際に「劣等感やコンプレックスがあるからこそ、その反動形成として他人に攻撃的な態度をとっている」と考えれば、理屈が通っており、すんなりと理解できることでしょう。
しかし、この記事で触れたように、他人を攻撃するのに後ろめたい理由などなく、むしろ堂々とした理由でためらいもなく攻撃的な態度を取る人が存在しているという事は、公正ではなく受け入れがたい説のよう感じることもあろうかと思いますが、絶対にないとは言い切れないのが実情だと感じます。
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