他人に対して自慢できるだけの魅力や特徴を持っているかどうかはさておき、何事においても自慢話をしない人というのは、自慢ばかりをする人と比べれば、付き合いやすさを感じる人でしょう。
しかし、その一方で自慢の一つすら無いとなると、ちょっと人間味がなさ過ぎて不安になるというか、関わりやすさはあるけど近寄りがたさももある…という、複雑な感情が湧き出てくることもあろうかと思います。
聞きたくもない自慢話を聞かされるのは確かに苦痛ですが、そんな自慢話の中にもその人の過去や思想・信条や、人間らしいどうしようもなさ…など、その人らしさを感じるものを知れるものですが、自慢話しない人にはそれすらない。
そのため、「どうして自慢話をしないのだろうか?」「自慢話をしない人って、一体どういう理由で自慢を口にしないのだろうか…?」という純粋な疑問を持ってしまいやすいのが、自慢話をしない人に感じる、あるあるネタだと感じます。
今回は、そんな自慢話をしない人の心理についてお話いたします。
どうして自慢話をしないのか
自慢することそのものを「卑しい」ものと感じているから
自慢をして自分のことを認めて欲しい、もっとチヤホヤして欲しい…という姿を見て心の中で「みっともない…」という嫌悪感を抱いてしまう。
ガツガツしている様子から、遠慮や謙遜を知らないだとか、恥を知らないだとか、あまりにも痛々しすぎて見ているこっちが恥ずかしくなるだとか…など、品性のない言動をしている人を見ている時に抱く不快感を感じてしまう。
そんな不快感を感じさせる人の行動を、もしも自分が取り入れようものなら、自分までも卑しくて下品な人間に成り下がってしまうかのように感じて苦痛を味わうからこそ、自慢しないことを選んでいるのです。
なお、自慢することは、言い方を悪くすれば他人の迷惑を考えずに「自分を見て欲しい!」としゃしゃり出る。
そして、集団の輪を乱すだけでなく、自分の醜態を多くの人に晒すという精神的な苦痛を味わう行為でもあります。
もちろん、人によっては注目を浴びることの快感の方を強く感じる人もいますが、自慢をしない人や快感よりも苦痛の方を強く感じてしまう。だからこそ、自慢をせず穏やかな生活を送っているのだと考えられます。
自慢話をするリスクを考慮して、あえて自慢しないことを選んでいる
自分の恵まれた境遇や周囲と比較して優れていることを自慢する場合、自慢した相手が必ずしも好意的に受け取ってくれるとは限らず、敵対心を抱いてしまったり、嫉妬心や僻む気持ち持ってしまうリスクがあります。
また、自慢する内容によっては、あまり関わりたくない人までを呼び寄せてしまい、面倒事に巻き込まれるリスクもあります。
例えば、金持ち自慢をしたことによって、友人・知人から金を無心されるようになったり、お金を持っていることを嗅ぎつけて、怪しい投資話の勧誘に遭う可能性もないとは言えない。
また、金持ち自慢をしている人が何らかのトラブルで財産を失い、金持ちを名乗れなくなっや場面において「あれだけ自慢していたのだからスカッとした」「ざまあみやがれ」という、池に落ちた犬を叩くかのような言葉を投げかけられてしまうおそれがある。
自意識過剰のように感じるかもしれませんが、自慢をしたことで起きうる様々なリスクを考えればこそ、リスクが少ない自慢しない生き方を選んでいるのだと分析できます。
他人から余計な僻み、やっかみ、嫉妬心を抱かせないため
上でも少し触れましたが、自慢をすれば相手から僻まれる、嫉妬心を持たれるリスクがあります。
また、ただ自分に対する不快な気持ちを持つだけに留まらず、あらぬ噂をばらまかれて評判を下げられてしまう、嫉妬から嫌がらせに発展してしまう…など、実害を受けないとも言い切れません。
加えて嫌がらせをしてくる方も「自慢してくる人の方が悪いのだから、自分は悪いことをやってない」「みんな自慢している人を毛嫌いしているから、私の嫌がらせには正当性がある」と、罪悪感や責任感が薄まるために、嫌がらせはエスカレートしやすくなる傾向があります。
このように、嫉妬心を持たせてしまうこと、そして嫉妬心から嫌がらせをする人の厄介さを理解しているからこそ、防衛策として自慢しない生き方を選んでいるのです。
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「わざわざ自慢をしなくても自分は受け入れられている」と感じているから
自慢しない人は、わざわざ自慢をする必要がないほどに、周囲の人から自分は受け入れられている…と感じているからこそ、自慢をしていないのだとも考えられます。
他人から認められたいという欲求(=承認欲求)が適度に満たされているので、わざわざ自慢して更に欲求を満たしたい衝動に駆られることがない。
あるいは、そもそもの承認欲求が控えめであり、ガツガツと自慢してまで承認を手に入れなくとも、少量の承認で満足感を得られるからこそ、自慢をする必要性を感じないのです。
なお、自慢話で承認欲求を満たそうとすることには、一つの弱点があります。
それは、認められているのは、自慢している表面的な部分のみが認められてしまい、自分という生身の人間の方には注目されていないことです。
傍目には、多大な注目を集めてさぞ承認欲求が満たされているように見えるかもしれませんが、その実態は自分という人間は認められておらず、自分という人間が持つステータスばかりに注目が集まっているだけに過ぎない。
それゆえに「自分は本当に他人から受け入れられているのか?」という虚しさや孤独を感じやすい。しかし、自慢して注目を浴びている自分がそんなことを口にするわけにはいかず、もどかしさに悩まされてしまうのです。
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自慢話で近寄ってくる人と付き合いたくない気持ちがある
上からの続きになりますが、自慢話で近寄ってくる人といのは、自分という人間に関心を寄せているように見えても、実態は自慢ではなく自分の持っているステータスしか見ていないことがあります。
もしも自分がそのステータスを失うことがあれば、あっさり関係を絶たれてしまい、孤独に苦しむ恐怖がある。
そんな打算的な考えを持つ人と関わることを良しとせず、もっと自分という人間をちゃんと見る目を持っている人や落ち着きを持っている人と関わりたい願望があるからこそ、あえて自慢をしないのです。
なお、自慢して一度人望を獲得してしまうと、自慢して寄ってきた人をなんとかとどめておくためにも無理をして自慢をし続けたり、自分が持っているステータスを維持or成長させ続けることで、精神的に消耗する苦悩を味わうことがあります。
そうした不毛さで苦しまない意味でも、自慢をしないという生き方は効果的と言えます。
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