いじめが起きているのをわかっているものの、誰も止めようとしたり、他の人に知らせようとはせず放置されたままの状態が続く、ということは子供や大人、あるいはリアルやネットに関係無く起きるものです。
では、どうして見て見ぬふりをする状況が生まれてしまうのかと言うと、心理学用語の傍観者効果で説明することができます。
傍観者効果とは
傍観者効果とは、助けが必要とされる事態において、自分以外の他人が存在すると、援助行動が抑制されるという現象を表した心理学用語です。
この用語が生まれた発端は、1964年アメリカのニューヨークで起きたキティ・ジェノヴィーズ事件。被害者が暴漢に襲われる光景を見聞きした近隣住民38人のうち1人も警察に通報しなかった結果、被害者は殺されてしまったという事件です。
この事件を受けて、社会心理学者のラタネとダーリーは、以下の実験を行って傍観者効果を主張しました。
- 事件は大学生が実験は参加者である大学生が大学生活における個人的問題を話し合うと言う集団討論を行うと言う体裁で行う。
- 参加者の匿名性を守るためにそれぞれ個室に入り、インターホンを通して討論を行うと言う条件た。
- 討論中にある参加者(ただしサクラ)が発作を起こし、合計の実験参加者が2人の場合と、6人の場合とで分けて行動の変化を調べた。
- 参加者が2人だけの場合は、助けを呼んだ人の割合は84%であった。
- 参加者が6人の場合は、助けを呼んだ人の割合は31%であった。
- (注)ただし、本当の実験参加者と発作を起こす参加者(サクラ)以外の参加者は実際には存在しておらず、討論の声はあらかじめ録音されたものを流す。
この実験から、実験から自分以外の他者の存在、つまり発作を起こした人と自分以外の第三者がいる状況において、誰かを助ける行動が抑制されてしまうと言うことが明らかになりました。
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いじめの構造から見る傍観者効果
いじめを取り巻く人間関係は
- いじめの被害者 : いじめられっ子
- いじめの加害者 : いじめっ子
- 観衆 : いじめを面白がって見ている人
- 傍観者 : いじめを見て見ぬふりをしている人
の4つの構造から成り立つとされています。
この構造から見て、傍観者効果が当てはまるのは、その名の通り傍観者である人がメインです。
もちろん、観衆やいじめっ子(複数人でのいじめ場合)でも、内心は「いじめはよくないし止めるべきだ…」と思っているのに、いじめっ子から報復されることを恐れて、仕方なくいじめを面白がる観衆の立場に居続けているケースもあります。
しかし、傍観者も観衆もいじめの存在を認知しつつも、いじめっ子を助けたり、いじめ解決に向けて何らかの行動に出るわけではない。結果として、いじめをエスカレートさせてしまう点では、直接いじめの被害者に危害を加えていなくとも、いじめを支えている存在となります。
もちろん、このような構図は学校におけるクラス内、部活動内のような子供だけの人間関係で閉じるものではありません。
子供だけでなく、先生までも傍観者に加わっていじめの存在を見て見ぬフリをし続けると言う事態も起きるものだと理解しておきましょう。
なぜいじめに対して誰も助けない状態になるのか
傍観者効果では
- 責任の分散 : 集団になるために援助行動をしなければいけないと言う責任感が薄れる。
- 評価懸念 : 多くの傍観者がいる中で援助行動に出れば、その行動を周囲から否定的あるいは奇異の目で見られてしまうことへの懸念。
- 多元的無知 : 多くの傍観者が静観しているために、目の前で起きている事は援助が必要なほど深刻な事態ではないと考えてしまう。
という3つの要素が大きく、見て見ぬふりをする状況を招くとされています。
この3つの特徴に基づいて、いじめに対して誰も助けない状態を詳しく見ていきます。
責任の分散:ほかの人がなんとかするだろうと考えてしまう
いじめを見ている人が多ければ多いほど、「誰かがいじめを止めてくれるだろう…」と、いじめを見て見ぬふりをして、いじめの問題解決に向けて消極的になってしまいがちです。
たくさんの人が見ているからこそ「自分が声を上げなくても問題ない」と言うなんとも無責任な心理が働くため、多くの人がいじめを認知つつも何もしないと言う状況が生まれるのです。
もちろん、これはさきほど触れた観衆やいじめっ子(複数人でのいじめ場合)の場合でも同様です。「流石に過激ないじめだとほかの人も思っているはずだから、自分がやめろと言わなくてもいい」という心理が働くために、過激ないじめになっても誰も止めようとしないまま放置され続けるのです。
評価懸念:いじめを止めることで自分がいじめの対象にされてしまう懸念
多くの傍観者がいる中で、自分1人だけがいじめに対して何らかの行動を起こすのは非常に勇気が要るものです。
いじめに対して意見を言ってしまった結果、帰っていじめをエスカレートさせてしまったりさせる状況招いてしまったり、自分がいじめの被害者になってしまうリスクを考えれば、何もしないのが賢明であると言う考えになるのも無理はありません。
特に、学校におけるいじめの加害者がスクールカースト(学校・クラス内ヒエラルキー)の上位層であり、ほかの生徒の学校生活を左右する権力や影響力を握っていることもあります。
そのような権力を握っている人に対して、「いじめはよくない!」と異論を唱える事は、上位層への反発だと受け止められしまう。
場合によっては権力に歯向かった事から報復を受けて、スクールカースト下位層へ転落する懸念もあります。
そんな事態になって損をしないためにも、見て見ぬふりをして保身に走ってしまうのだと考えることができます。
「ひどいいじめが起きている」とは感じていないために何もしなかった
多くの傍観者が、いじめを見て見ぬふりふりをしている状況を見て
- 「確かにいじめ起きているけど、そこまで深刻ないじめとは思っていない」
- 「もしもひどくて今すぐ解決すべきいじめであれば、誰かが既に止めに入っているはずだけど、現実は誰も止めに入っていない」
- 「たしかにいじめがあるけど、体育会系らしいちょっと乱暴なコミュニケーションのようにも見えるし、先生も先輩も深刻な問題と見ているわけではなさそう。」
と周囲の状況を見て結論付けてしまうことで、結果としていじめが放置されてしまうのです。
いじめといっても、そのイジメがひどいものであるか、それとも多少調子に乗っているだけのかわいいじゃれ合いのように映るかは人それぞれです。
また、いじめと言う言葉そのものも暴力や暴言、無視、などを可愛く言い換えたものと言う見方ができるので、目の前で起きているいじめがそもそも今すぐ結しなければいけないほど深刻なものであると捉えにくいために、いじめを解決すべき問題と見なさず放置してしまうのです。
いじめの傍観者もいじめを影で支えている存在だと理解する
いじめの被害者からすれば、誰からも助けてもらえず、いじめがどんどんエスカレートしていく状況は普通に他なりません苦痛に他なりません。
特に、学校のいじめにおいて、クラスメイトだけでなく、先生や親などの周囲の大人が傍観者に徹して、いじめを見て見ぬふりをする状況ともなれば、人間不信に陥ったり心に傷を心に深い傷を残して、その後の人間関係で人間関係を構築する場面で苦労することになるのは想像に難くないでしょう。
また、いじめ被害者でなくても、見て見ぬふりをしていじめを助長してしまうのは、もしも自分がいじめのターゲットになってしまった場合に、誰からの助けも得られず一方的にいじめられてしまう状況を作ることに加担しているとも言えます。
見て見ぬふりを他人に対してするのが当たり前の状況を作れば、その状況は自分がいじめの被害者になったときにも適用されてしまうのです。
今まで仲が良かった友達も先輩・後輩も、いじめのターゲットになったとたん急に他人行儀になり深く関わることを避けて、見て見ぬフリに徹する。そして、いじめにより再起不能になるまで追い詰められると言う状況を、自ら作り出しているということを理解することが、いじめ問題には欠かせないことだと思います。
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