他人の不幸はなぜ嬉しい、楽しいと感じるのか

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「他人の不幸を喜ぶ人はなんて意地汚いのだろう」「他人の不幸を笑える神経は受け付けない」と思いたい気持ちを持つこと自体は、誰にでもあるものでしょうし、こうした社会通念や道徳上で認めてもらえる価値観を持つこと自体否定しません。

しかし、

  • 「人の不幸は蜜の味」
  • 「他人の不幸で飯がうまい(=メシウマ)」
  • 「ざまぁ見やがれww」

など、他人の不幸に対して喜びや嬉しさ、楽しさといった愉快な気持ちを抱いてしまうのもまた、人間らしさだと筆者は感じます。

今回は、そうした他人の不幸を喜んでしまう原因・背景についてお話しいたします。

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他人の不幸を喜ぶ人の心理について
「他人の不幸は蜜の味」「他人の不幸で飯がうまい(=メシウマ)」のように、人の不幸は精神的な飢えや渇きを潤してくれるものとも言えます。こうした他人の不幸を喜ぶ人の心理や、その根底に感情についてまとめています。

他人の不幸を喜ぶ、楽しんでしまう理由

珍しいものを見れたことで喜ぶ

他人の不幸というものは、そう簡単にお目にかかれるものではありません。

  • 離婚・破局した
  • 金銭トラブルを起こした
  • 信用していた人から騙された
  • 仕事で下手をこいて信用を失った
  • 健康を損ねる事態に陥った
  • 自然災害が起きた

など、なかなか日常生活の中で見聞きするものがないだけに、いざ起きてしまうと野次馬根性で、つい詮索してしまうものです。

最近だと、火事や交通事故、痴漢や暴力沙汰などの犯罪が起きた時、その周囲にいる人たちが、皆一斉にスマホのカメラで撮影(あるいは録画)する光景がよく見られるように、滅多に見られない他人の不幸の瞬間に立ち会えたことは、それだけで価値ある経験だと感じてしまうのです。

そして、嬉しさのあまりつい記念に自分も映って撮影してしまったり、ネットにアップして反応が集まることに、満足感を得ていると考えることができます。(もちろん、普段見られない救急車や救急隊員を見られることに興奮して、撮影している可能性も考えられなくはないが…)

相対的に見て「まだ自分は不幸ではない」「自分より下がいる」安心感を得られるから

「他人の不幸を喜ぶのなんて絶対によくない!」という人でも、過去に「自分の不幸は発展途上国の子供に比べたらマシだ」とか「衣食住が保証されていない環境で暮らしている人よりは、自分は幸せである」と、自分よりも更に不幸な人と比較して、安心感を得た経験がある人はきっと少なくないと思います。

学校給食の指導で食べ残し・好き嫌い・偏食が激しい子に対して「飢餓に苦しんでいるアフリカの子供よりあなたは恵まれているのだから、感謝して食べなさい!」と言われる経験を多くの人がしているように、他人の不幸と比べて自分の不幸を相対化することには、さほど違和感を持たない人が多いのではないかと感じます。

一般的に自分が幸せな状態から他人の不幸を見つけて満足感を得る行為は、ひどく忌み嫌われるものです。

しかし、上で述べた例のように、自分が不幸な状態であり且つ他人の不幸を見つけ、自分の不幸を「まだマシなもの」として処理することもまた、他人の不幸を喜んでいる行為の一種と見ることができます。

自分が幸せでも不幸でも、どちらにしても自分は不幸のド底辺にいる人(達)と比較すれば、まだ恵まれている、充足している、安心であると感じられるのが、他人の不幸を喜んでしまう心理の背景にはあります。

ただし、繰り返すように自分が幸せの場合はバッシングを受けやすい。逆に不幸なら、受け入れてもらいやすい。

どちらも自分より下の人を見て安心感や満足感を得ていることに変わりはないのですが、その受けいれ安さに差があるのは、幸せな人に対する嫉妬や羨望の強さ、そして不幸でもめげない姿勢を応援したくなる心理が影響しているのだ考えることもできます。

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他人の不幸が自分の売名・活躍のチャンスとなるから

他人が不幸になって喜ぶ人のなかには、困っている人を助けたり支えたりする行為に対して、やりがいや充実感を見出していることも考えられます。

メサイアコンプレックス(あるいは「救世主妄想」)という言葉にもあるように、困り事がある他人を助けることは、自分が持つヒーロー願望を満たすことが出来ます。

誰かを助けるヒーロー願望の強さは、他人が不幸になれば自分の活躍する場面が増え、自分が他人から必要とされている実感を得ることが出来る特徴があります。

ですが、露骨に他人の不幸を望んでいては、困ったときの手助けを拒否されるおそれがあるので、普段は「善良な人」を装うものです。

しかし、その裏では困った人ができるだけ多くいてほしい、そして、自分を頼り、必要として欲しい…という歪んだ気持ちを持ち合わせてしまいます。

そのため、メサイアコンプレックスの人は偽善者と見られやすく、自分の個人的な満足感のために、困っている人を利用していると見られるため、たとえ善意で助けているとしても忌み嫌われるのも無理はありません。

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メサイアコンプレックス 困っている人を助ける人に抱く違和感について
自分の事を救世主(メシア)だと感じて、人を助けたがったり余計なお世話をしてしまうことをメサイアコンプレックスと呼びます。ボランティアやチャリティなどの良いことをしているはずなのに押し付けがましく、自分の存在価値を示すために困っている人を利用するため、行動に違和感を覚えることが少なくありません。

「不幸な目に遭う」という自分の予想が当たって欲しい願望の強さ

「今は幸せな人が、将来不幸な目に遭うに違いない…」という、自分の都合のいい予想や強い思い込みが当たって欲しいという願望が、他人の不幸を喜ぶ心理に影響していると考えられます。

もしも、自分の予想通りになれば、自分の見る目の優秀さや勘の鋭さといった、自分の能力の高さを誇示することが可能です。逆に、予想が外れたら自分の見る目のなさや勘の鈍さを露呈して恥をかくことになります。

「他人の不幸=自分にとっての利益・満足」だから

…なお、そもそも他人の不幸を予想して的中させる行為そのものが「恥」のような気もしますが、「他人の不幸=自分にとっての利益・満足」の場合は、利益欲しさのために、他人の不幸を望んでしまうのです。

例えば、自分が応援しているプロ野球球団に優勝マジックが点灯した時に、マジック対象のチームの負けを心の奥底で期待してしまうのがいい例です。

応援しているチームが勝とうと、マジック対象チームが負けようと、どっちみちマジックが減るのには変わりはありません。(なお、勝敗が「引き分け」の場合はややこしいので割愛)

そんな状況になればこそ、マジック対象チームの敗北を願い、少しでも早く、そして着実に応援しているチームの優勝を期待してしまうのもまた、人間の心理でしょう。

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他人の不幸は一種のエンターテインメント

かつて、真面目キャラとして名を馳せていた某女性タレントが、ゲス不倫をしたというニュースが日本中で話題になった時に、匿名掲示板に限らずSNS、はたまたリアルのお茶の間も賑やかになったのは、記憶に新しいかと思います。

こうして見ると、他人の不幸というのはそれだけで一種のエンターテインメントであり、楽しむものとして消費される側面があると言えますます。

かつて、フランスのマリー・アントワネットのギロチン処刑を見て沸き立った聴衆のように、他人の不幸は、ただそれだけで日頃の鬱憤を晴らすために消費されたり、退屈な日常を紛らわすためのエンターテインメントとして消費されてしまうことは、今に始まったことではありません。

他人が不幸になっている光景というものの、そうなかなかお目にかかれるものではありませんので、「よくわかんないけど、何か面白いことをやっている」という興味本位から、つい注目したり、その騒動に首を挟んでしまうものです。

現代ならネット上で起きた炎上に便乗して、コラ画像や”意味深”な語録のリプライをつけて、炎上騒動を大きくして更に盛り上がりを見せるように、他人の不幸は一種の「祭」のように、一方的に盛り上がりを見せ、参加者は熱狂を覚え、そして消費される性質を持っているのだと感じます。

…もちろん、このことは、もしも自分が不幸のどん底に落ちた時に、自分の不幸も誰かの退屈な日常の暇つぶしのエンターテインメントになってしまう危険性があるとも言えます。

他人の不幸を楽しむことが忌み嫌われるのは、ただ他人の不幸をネタに自己満足をする内面への醜さに反応しているのではなく、もしも自分が不幸を味わう状況になった時に、不幸がエンターテインメント化して消費されることを避けたい、という気持ちがあるのではないかと感じます。

国立大教育学部卒、専攻は心理学。発達心理学、教育心理学、スポーツ心理学、社会心理学を中心に心理学に関する記事を執筆中。そのほかにも、人間関係やコミュニケーション、性格、スマホ、SNS、ゲームなどのあらゆるテーマを心理学の知識を用いて詳しく、面白い記事を書くことを心がけております。

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