「他人の不幸は蜜の味」「他人の不幸で飯がうまい(=メシウマ)」という言葉はまさに言い得て妙だと感じます。
所詮は自分とは無関係の他人の不幸であり、一度その味を知ってしまったら抗うことができず、「もっと味わいたい」という醜い欲望に飲み込まれ他人の不幸を追い求める…そんな人間の持つ弱さ、醜さ、どうしようも無さをよく表している言葉だと思います。
また所詮は他人の不幸だけに、自分にとってはなんの利害関係もないので、まさに高みの見物をするかのごとく見下した目で他人の不幸をじっくりと眺めることも可能です。
…もちろん、他人の不幸に対して優越感や満足感を覚えることは、どちらかといえば恥ずべき感情、不謹慎であり慎むべき感情だと感じている人も多いことでしょう。
仮に優越感を覚えても、そのことを顔に出しては自分の評判に関わるので「あらまぁ、かわいそうに…」「お気の毒に…」と、(一応でもいいので)同情を寄せておくのが、あの人は他人の不幸を喜々として語る変な人だと思われないためにも大事なことだと感じます。
今回はそんな他人の不幸に喜びや嬉しさを感じる心理についてお話いたします。
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他人の不幸を喜ぶ人の心理・特徴
自己愛が強すぎる
強すぎる自己愛は、時に「自分だけが幸せになればいい」「自分が世界の中心であり誰からも注目され、承認され、尊敬されるべきだ」というような現実離れした自己中心的な物の見方を招いてしまうことがあります。
しかし、現実には自分の幸福(=愛情、利益、人望など)だけを追い求めようものなら周囲と衝突を起こして自己愛を傷つけてしまったり、自分よりもチヤホヤされて人気を集めている人に対して強い対抗意識を燃やしてしまい、精神的に消耗することも否定できません。
そんな時に対抗心を燃やしている相手が、何らかのスキャンダルや不運で失脚してしまう場面を目撃すれば、自己愛の強い人からすれば「自分の自己愛を傷つける邪魔者がいなくなった」と感じてて喜びを感じてしまうのです。
もちろん、適度な自己愛を持つことそのものはいたって自然な感情なので、自己愛そのものを否定しているわけではありません。
また、対抗心そのものをうまく昇華して、ライバル視している相手に負けないように自分を磨くことに集中できればいいのですが、地道に頑張るのは面倒だと感じてより楽に自分を優秀に見せるためにも「相手に不幸が怒らないかなぁ…」と不幸を願ってしてしまうことが少なくありません。
なお、アンチやフレネミー(friendとenemyを合わせた造語。友達のフリをした敵の意味)にも、この考えを持っている人は見られます。
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他人の幸福が認められない
他人の不幸を喜んでしまう人に共通しているのが、他人が幸福になることを認められないという点です。
- 自分よりも学力の高い大学に進学した人
- 自分よりも容姿や才能に恵まれた人と結婚した人
- 自分と同期なのに自分よりも早く出世したり仕事で成果を上げて名を上げた人
などの身近な幸福を素直に喜んでしまえば、今まで自分がしてきた努力や生き様が否定されるように感じてしまうので、他人の幸福を素直に認めることを拒むのです。
また他人が幸福になっているのを見ると、まるで自分は幸せではない、つまり不幸であると錯覚してしまうために、自分に向けて幸せな姿を見せてくる人を敵視したり、場合によっては不幸になるように心の憶測で願ってしまうのです。
誰だって、自ら不幸を求めてそれを受け入れると言うものはという事は難しいものですし、自分が感じている幸福を守ろうとするために、普段抑圧している醜い感情をあらわにしてしまうはあるものです。
嫉妬・羨望が強い
嫉妬と羨望を明確に線引きすることは難しいものですが、強いて言うならば
- 嫉妬:自分の持っている幸福が奪われることに感じる恐怖
- 羨望:自分が手に入れたいと思っている幸福が手に入れられないだけでなく他の誰かが持っているのを見て感じるうらやましいと言う気持ち。
と説明することができます。
嫉妬も羨望もどちらも似ている感情であり、両方の感情が入り混じった状態で他人の不幸を喜んでしまう事があります。
実際に他人から幸福を祝福される人は、ひょっとしたら自分が持っていたかもしれないもの(神保、名声、学歴、容姿)を持っているように見えてしまうこともあるものです。
そんな人の存在を認めようものなら、否応なく自分は手に入れられるはずだったものが手に入られなかったと言う事実と向き合わなければいけません。
辛い事実と真正面から向き合うのはできれば避けたいものだと感じるものです。その避けるための方法とこそが、他人の不幸を願い喜ぶという人間が持つ醜さを凝縮した行為なのです。
「世の中は不公平」であることに怒りを感じている
学力や名声、社会的な地位や評判を得るために努力をしているものの、なかなか芽が出ずくすぶっている人から見て、たいした努力もせずに自分が欲しいものを全て持っている人を見かければ強い不公平感を感じることでしょう。
例えば、普通の顔の人がちやほやされるために自分磨きに努力している中で、ただイケメン(美人)であると言う魅力を有効活用して、あっという間にちやほやされるされていく人を見かければ、心の奥底で納得できないものを抱くものです。
- 「こんなにも頑張っているのになんで俺(私)は認められないのか?」
- 「イケメン(美人)を有効活用してるあの人ががずるくて腹が立つ」
と言う、不公平から来る不当な扱いに対して、怒りを覚える事はいたって自然な心理です。
このには、公正世界仮説と呼ばれる心理学用語が影響していると考えることができます。
公正世界仮説とは、努力すれば必ずいいことがある、悪いことをすれば必ずバチが当たる、と言う世界は公正なものであるという考えを指す言葉です。
もちろん、この概念通りに世の中が順当に進めば幸せかもしれませんが、現実は必ずしも頑張った分報われるとは限りませんし、顔の善し悪しのように先天的な格差や実力の差により不公平感を募らせてしまうことが多いものです。
また、世の中が公正だという考え方が強すぎると、この世は不公平であると言うごく自然な事実を認めることができず、他人の不幸を願って不公平感を解消しようとしたり、幸福な人に嫌味を言って過剰評価されている状態をから妥当な評価になるように他人を引きずり下ろそうとします。
(…しかし、公正世界仮説に則れば、他人の足を引っ張るための行動のツケが自分に帰ってくるという可能なはずですが、それができずつい足を引っ張ってしまうのがまた人間ならではの心理とも見ることもできます)
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他人の不幸を見て不安を解消したい
他人が不幸になっている様子を見て
- 「自分はなんて恵まれているんだろうか」
- 「自分はあれだけ不幸になっている人よりはマシ」
と言うような、妙な納得感や安心感を感じることはないでしょうか。
学力で悩んでいる人、自分よりも頭が悪い人を見て優越感を覚えたり、仕事で覚えている人仕事で悩んでいる人が自分よりも仕事の出来が悪い人を見て優越感に浸るのと同じく、自分よりも下の存在がいると言う事実がわかるだけで、自分は最悪よりはマシと言う安心感を得ることができます。
また、この安心感は最初から自分よりも格下の相手よりも、自分よりも格上の相手が転落して自分以下になる自分よりも格下の存在になるときにより強く感じます。
例えば、エリートコースを積んできたビジネスマンが不景気によリストラにあい、今まで築き上げてきた学力も地位も名誉も何もかも失う転落劇を見て「エリートコースも決して安泰と言うわけでは無いよな」と、うだつの上がらない自分を励ます好材料として見てしまうことがひょっとしたらあるかもしれません。
ビジネスマン限らず、有名人や芸能人、スポーツ選手などの憧れの目で見られることが多い人の不幸ほど、一種のエンターテイメントとして面白おかしく見物しつつも、今の自分が置かれている辛い現実や境遇から一瞬だけ目をそれをそらすことが目をそらすことができてしまうものです。
もちろん、この行為そのものは随分卑しく、醜く、みっともないことではありますが、眺めているだけで不安を忘れることが出来るお手軽のため、癖になってしまう人が後を絶たないのです。
他人の不幸はすぐに見つかる時代だからこそ不幸を楽しむことから逃れにくい
もちろん「他人の不幸は蜜の味」言という葉に対して、正直共感する点はあるけれども、そのことをおおっぴらにアピールするのはさすがにNG…という人は多いことでしょう。
しかし、今や
- 芸能人の不倫や熱愛報道などのスキャンダル
- スポーツで敵対しているルチームが不祥事を起こした
- エリート街道まっしぐらの人が受験や就活、転職で失敗した
- SNSや動画投稿サイトで犯罪自慢をしていた人が炎上により個人情報を暴かれた
などの、他人の不幸はTVや雑誌、SNSなどのウェブ上で簡単に見つけることができるのが現状です。
ネットの発達により、今までなら知ることができなかった他人の不幸も検索をかければ簡単に見つかるだけでなく、今まさに転落していく光景をネット上で追うことも出来る時代になっています。
他人の不幸探しにのめり込まないためにできること
他人の不幸は蜜の味であり、その甘美さゆえに一度知ってしまったら抗えないほどの魅力を感じることもあるだけに、いかにして誘惑を断ち切るかが大事だと感じます。
例えば、ネット上でつい人の不幸を探したり、余計な粗探しをすることで時間を浪費してしまうことがあるのなら、ネットを使える時間を限定して過度にのめり込まないようにするのも対策のひとつです。
また、他人の不幸をただ楽しむのではなく、その不幸から学べる教訓や反省点をしらべて反面教師としていくことも効果的と言えます。
他人の不幸がたくさん検索で見られることは、言い換えれば今までお目にかかれなかった失敗談が多く見られるようになったとも言えるでしょう。
とくに、ビジネスや勉強なら成功談よりも失敗談のほうが学べる教訓は多く、そしていくつかの失敗談を見ていくうちに共通点を見出すことも多いので、他人の不幸をただ消費するだけという生活から脱出することになるでしょう。
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