モラハラは、きっかけさえあれば様々な場面で行われる可能性があります。
たとえば…
- 職場の上司と部下
- 学校の教師と生徒、先輩と後輩
- 家庭における姑と嫁、あるいは親と子
などの上下関係のできる人間関係においては、モラハラは他人事ではないことだと言っても過言ではありませんいいでしょう。
あるいは
- 同僚・同期の関係
- クラスでの同級生の関係
- 友達同士
など、基本的には対等な間柄の関係であっても「対等である」という関係をいいことに、調子に乗って一方に負担をかけてしまうこともあり、モラハラが起きる可能性がゼロではないと言い切れません。
もちろん、そのことは大人同士でも子ども同士でも同じです。実の所、未熟な子どもこそが最もモラハラをやりやすい存在だと言えるかもしれません。
目次
子ども同士でもモラハラは行われて不思議ではない
※まずはじめに補足ですが、もちろん、ここでいう「子ども」とは、未就学児、小学生、中学生、そして(一般的には)思春期を脱する高校生も含めます。
モラハラは、子どもの頃に感じる万能感(=幼児的万能感)に起因する未熟な葛藤の解決方法という側面があります。
幼児的万能感は子どもにはありがちな、自分自身こそが世界の中心であり頂点であるという幼さゆえに来る可万能感であり、自分が望めばそれが全て叶えられると信じて自分に起きる全ての出来事を受け取っている状態です。言うなれば「自分自身こそが世界の主人公」だと言えます。
ゆえに子どもこそモラハラの言動に最も近い存在と考えることができます。
この状態では自らの理想と現実において、現実が自分の理想通りにならないと感じた場合、「現実はこうあるべきだ」と自分の考えや価値観を周囲に押し付ける。そして周囲に対して「こうあるべき」になるように働きかけます。
要するに「自分はなんでもできるんだから、自分の思い通りに他人をコントロールすることもできる」という自己中心的で幼稚な万能感を元に周囲に自らの考えを押しつけようとするのです。
ですが現実は万能感を押し付けたところで自分の思い通りになるわけではありません。
押し付けられるのを嫌がったり、「押し付けてこないで!」と拒絶され、自分が持っている万能感を否定されることの方が多いでしょう。
ここで、現実と折り合いをつけたり、無駄に衝突しないように人間関係を学んで行ければいいのですが、モラハラ加害者になる人は理想通りにならない葛藤を抱いた時に「俺(私)の言うとおりにしないお前が悪いんだ!」と責め立ててしまいます。
場合によっては理性で抑えきれず暴力に訴えることもあり、その光景はまさに子どもが駄々をこねていると言ってもいいでしょう。
これが本当に駄々をこねている子どもと、それに対するまっとうな大人という関係性であったならば、「ダダをこねても相手は嫌がるでしょ」と諭してで良くないことだと教えれば、しっかり人間関係を築ける子どもに育てることもできるでしょう。
しかし子ども同士であれば、現実と理想のギャップに葛藤を受けて周囲に投影する側も、それを受け止めてしまう側も互いに精神的に未熟な状態です。
未熟な葛藤の解決を発する側と、それと解らずに受け止める側。これはまさにモラハラの構図のひとつです。
まさに子ども同士でも、いやむしろ子ども同士ゆえに、モラハラは行われてもおかしくはないのです。
子ども同士なので周囲の大人も気づきにくい恐れがある
子ども同士であるならば、互いの感じている世界が激突し、互いに葛藤を経て折り合いをつけるという事は、よくある事です。
子どもは大人から見れば「こんな事で?」と考えてしまうようなことでもケンカになる事がありますし、大人たちは子どもの頃にそんな経験を重ねて大人になった、という場合も多いでしょう。
子どもは葛藤を重ねる中で、現実と折り合いをつけるためにはなにを我慢しなければいけないのかということを知り、逆に「自分の要求はどのラインまでなら認められるのか」を学習し成長していきます。
このことは、とくに思春期の子どもにとっては大事なことであり、精神的に成熟して大人になるためにはかかせない一種の通過儀礼とも言えます。
しかし、それゆえに子どもから子どもに対して行われるモラハラは
- じゃれあっているだけ
- 子ども同士の喧嘩
- 経験を重ねている最中
- だれでもよくあること
という形で「大した問題ではない」と見逃される事があります。子ども同士の「いじめ」がよくあることとして受け流されるように、モラハラも子ども同士でよくある事だと受け流されてしまいます。
思春期の精神的な成熟の過程で、現実と折り合う方法のひとつとして、子ども同士の人間関係の中でモラハラという行為の有用性を学習してしまうのです。
当然ながら「モラハラにより相手をコントロールできる」と学習した子どもは、そのままモラハラをする大人へと成長するのは言うまでもありません。
兄弟間でのモラハラには親同士の関係が影響していることも
上の子が下の子に、あるいは下の子が上の子に、様々な手段で自らの欲求を突きつけて強引に叶えようとする場面を見たことはないでしょうか?
それは立派にモラハラとして機能している可能性があります。
- 駄々をこねる
- 暴力を振るう
- 自分の立場を利用する
- 親の権力や言葉を持ち出して相手を糾弾する
というように、子どもは葛藤の解決手段が未熟であるがゆえに、よりストレートにモラハラを行う事があります。
しかも、それは子どもだからこそよくあることだとスルーされがちですし、親や周囲も子どもだからそういう喧嘩はよくあることだと見て見過ごされてしまうことがあります。
「子どもは親の背中を見て育つ」という言葉にもあるように、子どもは自らの行動規範を親に求めモデルとします。そして、親の行動は子どもの行動規範に大きなウェイトを占めます。
すなわち子どもが行うモラハラは親がモデルである可能性があります。
それはもしかしたら家庭において片方の親がもう一方の親に行っている事がモデルであるかもしれません。あるいは片方の親が外部で他者に行っているモラハラを子どもが見聞きして真似をしたかもしれません。
子どものモラハラは大きく親の人間関係が、特に親同士の関係性が影響します。
モラハラは子どもが自身が真似したり学習しやすい行為(例:暴言、高圧的な態度、無視など)であること、そして子どもにはよくあることだと見過ごされやすいゆえに、学んでおくべき葛藤の解決手段としては適しているという一面があるのです。
親がモラハラ加害者の子どもの味方をしてしまうことも
兄弟(姉妹)間のモラハラに遭遇したとき、親はそれと気付かずに状況を安易に納めるために、ある言葉を持ち出す事でしょう。
- 「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから!」
- 「弟(妹)でしょう!」
これは兄弟間に上下関係を持ち出す伝統的な定型文言です。現実の人間関係だけでなく、ドラマや漫画、アニメなどのフィクションの世界でもよく登場するセリフです。
このように兄弟間に上下関係を置く考えは儒教思想にツールがあると考えることができます。
日本では江戸時代において社会を安定させ人員構成を保つため、人間関係に厳密な解りやすい上下を定めるような考え方である儒教思想を普及させてきました。
代表的なものとして以下のような考えがあります。
- 年上は年下よりも偉い。偉い代わりに年上は年下を守り譲るべきは譲るべき。
- 年下は年上に守られる。その代わり年下は年上に対して絶対に服従すべき。
- 親は子どもを守るもの。その代わりに子どもは親を守るもの。
その影響は現代でも日本人ならではの思想として、あるいは日本という国の社会秩序を保つための考え方として、そこかしこに残っています。
儒教思想自体はそうでもないですが、それが都合良く端的に抜き出されて誤解されていくと非常に危険なものとなっていく可能性をはらんでいます。
「モラハラ被害者(自分) VS モラハラ加害者&家族」で加害者のいいなりになる被害者の子ども
(都合のいい)儒教思想も交えて、親は時にモラハラを肯定し加害者である子どもの味方をする行動にでる場合があります。
例えば
- 「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだから、弟(妹)の嫌がらせぐらいちょっとは大目に見てあげなさい。」
- 「弟(妹)なんだから、お兄ちゃん(お姉ちゃん)のわがままにちょっとは付き合ってあげなさい」
というように、モラハラという嫌がらせをしてくる子どもの味方をした結果、家族内でモラハラ被害者である子どもを孤立させてしまうという具合です。
この場合、モラハラ被害者にとっては「モラハラ被害者(自分) VS モラハラ加害者&家族」という圧倒的に不利な戦いを強いられることになります。
抵抗しようものなら多数派を占める加害者側に圧倒されてしまい家庭内での居場所を失ってしまうのは自明です。(そのまま居続けても、快適な居場所とは言い難いのですが…)
そのため、被害者である子どもにできる妥当な解決策は、加害者側のいいなりになり、モラハラの被害者という立場に自分を合わせて行くのです。
もちろん、モラハラ加害者である兄弟(姉妹)から嫌がらせを受けるのは決して気持ちのいいものではありません。
しかし、家庭内で圧倒的な権力を持つ親が加害者側の味方である以上、加害者側に逆らえばもっとひどい仕打ちに受けることは容易に想像できるため、「最悪の状況になるぐらいちょっと不快な状況の方がマシ」と感じるので、加害者側のいいなりになってしまうのです。
それこそ親が味方している以上、単なる兄弟姉妹間のモラハラや愛情不足に留まらず、虐待やネグレクトに発展するリスクすら被害者たる子どもは感じてしまい、モラハラ加害者側のいいなりになることを余儀なくされるのです。
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