モラハラをする相手だって、いつも暴言や嫌がらせをしてくるわけではありませんし、場合によってはちゃんと「俺(私)が悪かった…」と(とりあえずは)謝罪をしてくれることがあります。
しかし、その謝罪の言葉は信用できるものとは呼べず、また時間が経てば以前と同じようにモラハラを振るうようになるのが大半です。
このようにモラハラには反復性があり「謝ってくれたからこれで解決」というほど単純な問題ではありません。
今回はモラハラ加害者の「謝罪」と反復性についてお話いたします。
目次
モラハラ加害者の謝罪の裏にある心理
モラハラをする人は都合のいい思い込みや自分だけの理想(妄想)に囚われた人…良くも悪くも、「自分の世界に生きている人」です。
自らを「守ってもらえる」甘い理想が確固としてあり、それを周囲の他人に押しつけて生きている人です。
その他人への押しつけのプロセスのひとつがモラハラであり、モラハラをする人にとってそれは「自分を守るための正しいこと」です。
モラハラをする人の謝罪の裏にあるもの。そのひとつに「自分は『正しいこと』をしているのに、なぜ謝らなければならないのか」という葛藤があります。
そんな葛藤を抱えつつもなぜ加害者は謝罪に至るのか…それは、モラハラをする人が求めているのは「自分の世界を肯定してくれる他者」を失いたくないという感情があるからです。
加害者は相手に「自分の世界を認めさせる」ためにモラハラを行います。
例えば
- 被害者に強く出て高圧的な態度を取る。
- 理屈を持ち出して言いくるめさせてしまう。
- 被害者の良心や罪悪感に訴えかけて抵抗する力を奪う。
などの方法で、自分の世界や価値観を認めさせるための都合のいい他者、すなわちモラハラの被害者を手に入れます。
それなりの労力を使って支配下に置いたモラハラの被害者だけに加害者は簡単に逃がしたり、もう一度被害者をゼロから手に入れるという事態は避けたいと考えます。
ゆえにモラハラ加害者は一部分とはいえ「自分の世界を認めさせた」相手を逃そうとはしません。モラハラをする人にとって謝罪とは反省や相手への思いやりではなく「相手を縛り付けるための手段のひとつ」なのです。
謝罪することは、言い換えれば釣った魚が死なないように餌を与えるのと同じ。適度に謝罪してモラハラ被害者にガス抜きをさせることで、加害者である自分の元から逃げないようにするための手段の一つにすぎないのです。
モラハラ加害者の謝罪は改心ではない
謝罪を「手段」として使っている以上、そこにあるのは場当たり的な解決を導き出すための「上辺の態度」でしかありません。
加害者はあくまでも上辺の態度で謝罪と「俺(私)が悪かった」と改心を述べながら、その心の奥底にあるのは「どうして俺(私)が謝らないといけないんだ!」という謝罪をさせられている理不尽への怒りと葛藤です。そこに自らを省みる心はありません。
モラハラをする人の謝罪の裏にあるのは、反省をする心ではなく、相手を逃がさないようにするための「一時的な迎合」に過ぎません。
迎合して相手が逃げなくなるのを確認すれば、再びより強く「自分の世界を認めさせる」ためにモラハラに手を染めますを始めます。
モラハラの加害者はモヤモヤした気持ち(つまり葛藤)を、自分以外の他人を支配し行動をコントロールさせるという、なんとも幼稚で自己中心的な方法で解決しようとさせます。
そんな幼稚な行動をしているという恥も外聞もなく、モラハラ加害者はモラハラを繰り返します。
なぜならモラハラ行為そのものは彼ら自身にとっては正しいこと、言い換えれば正義です。
正しい事をしているのだから反省や改心なんかする必要すらない。むしろ文句を言う人の方が間違っている、と感じてしまい、自分の行なっていることが他人を傷つけているという自覚なく、モラハラを続けてしまうのです。
モラハラ被害者側の謝罪に対する期待もモラハラ悪化の原因に
加害者の謝罪を受け入れた被害者は「これで全てが収まる」と期待するでしょう。しかし加害者の中身は上述の通りであり、モラハラ収まるはずがありません。
一時は収まったように見えても、その間に加害者はストレスをため込んでいきます。やがて膨張したストレスが限界を迎えると、発散するためにモラハラを繰り返してしまうのです
その時に被害者は、一度は相手を謝罪してもらった経験もあり、それを無駄にしたくはないと考えます。
(実際には無駄でしかないのですが)それを認めて受け入れる事は難しいことですし、仮に受け入れようものなら「あの謝罪を認めてしまった自分って一体なんだったの?」という徒労と虚無感に苦しむことになるので、加害者に同調してしまいます。
一方でモラハラの加害者は一度は謝罪に持ち込まれた経験から、今度は同様の屈辱を味わわないようにしようと(悪)知恵を働かせモラハラに出てきます。
過去の経験を元に傾向と対策を立てて、いかに相手を自分の世界に取り込み屈服させようかと励んだ結果、モラハラはエスカレートしていきます。
巧妙に被害者を追いつめ、被害者が必死に抵抗すればその揚げ足を取り、丹念に被害者の逃げ場を潰していきます。あるいは取った揚げ足で盛んに被害者を「加害者として」責め立てるでしょう。
この行動は時に一時的にモラハラにおける見かけ上の加害者と被害者を逆転させる場合があり非常に厄介です。今まで被害者というポジションで抵抗し続けたのに、立場が逆転して加害者扱いされてしまえば混乱してしまい、(本当の)モラハラ加害者の手のひらの上で踊らされることになります。
こうして被害者は自らの期待と、それを利用する加害者の巧妙さによって、どんどん追いつめられていくのです。
モラハラ加害者が改心してもらうの期待するのは現実的ではない
上述の通り、モラハラをしている人は自らのやっていることを「正しいこと」と思いこんでいます。逆にそれを否定する者は「悪」と受け止めて攻撃をします。
モラハラをしている人は、自らのやっていることを「正しい」と自分で受け止めているために「改心」などという考えには至りません。
むしろモラハラを受けている被害者にこそ「俺(私)の言ってることを理解しろ」と賛同を求めモラハラをエスカレートさせます。
ゆえにモラハラをする人に「改心」を求めるのは現実的ではありません。
モラハラをする人が構築した「自分の世界」とは昨日今日にわかに自分を守るために作られたものではありません。
それはモラハラをする人が子どもの頃から、自分を守るために考えを巡らせ認知を歪ませて作り上げた、いわば「心の城塞」です。
モラハラの被害者が、その加害者に「改心」を求める、というのは「心の城塞」を崩すために武器と兵隊を用意して攻撃する事です。
しかし長い年月をかけて構築させた城塞は、簡単には崩せません。そのための武器を用意するのも簡単ではありません。
モラハラをする人に安易に改心を求めるのは、大きな城塞を相手に体当たりをするようなものであり無謀の一言に尽きます。
幼い頃から丹念に組み上げられた心の城塞を壊すには、モラハラに関する専門の知識を学習し、気の遠くなるような時間と労力が必要になるのは言うまでもありません。
また、モラハラに詳しい人でもモラハラ加害者に面と向き合って対処しても、必ず改心できるというわけでもありません。。
従って、モラハラをする相手に「改心」を求めるのは、非常にナンセンスな事と言えるのです。
参考:DVのハネムーン期とモラハラ加害者の謝罪
モラハラの反復性に関連するものとして、DV(ドメスティックバイオレンス)のハネムーン期という用語があります。
- 膨張期:不満を貯め込む
- 爆発期:直接的暴力に至る
- 開放期:不満が暴力によって発散された事で冷静になる
DVには上のようなサイクルがあり、最後の開放期の事をハネムーン期とも言います。
モラハラにおける謝罪は、いわばこの「ハネムーン期」に当たります。不満が発散された事で冷静になり余裕が生まれて謝罪や反省ができるようになります。
しかしモラハラにおける謝罪の実態は既に記した通りに上辺だけで、本当に反省しているのかどうかすら疑わしいものです。
DVにおいても、その暴力に至るものが「自分の世界を守る」という理由による同根によるものならば、その謝罪や反省は無意味。「改心してくれる」と期待することすら不毛と言えるのです。