他人と衝突することもなく、非常に物腰柔らかな印象で、まさに「優しい人」そのものであるように見えて、なんとなく他人に全く期待をしていない冷たさがあるというか、あまり他人に関心がなく距離を置かれているように感じてしまう人は、よくよく見るといるものです。
最初から他人に対して無関心で冷たい人と比較すると、第一印象が優しいのに実はあまりに他人に関心がないということがわかれば、裏切られたというか、知らなければ良かったのになぁ…と残念な気持ちになることが多いものでしょう。
今回はそんな、優しく見えて実は他人への関心が無い人の特徴について、お話しいたします
関連記事
優しく見えるけど他人に無関心な人に見られること
相手を褒めてばかりで叱らない、指摘をしない
優しいけど実は他人に無関心な人によく見られるのが、相手を褒めたり認めることは積極的にする。しかし、相手が何かやらかしたときになると、手厳しい指摘もせず、叱りもせず、嫌な雰囲気が過ぎ去ってくれるのを待つということです。
しっかり指摘するとなれば、相手がなぜやらかしたのかについてその原因や背景を探る必要性がありますが、そもそも他人に興味が無い人であれば、そんな真似はしない。
ですので「褒めてばかりで手厳しいことは言わない」という、偏りのあるコミュニケーションになってしまうのです。
もちろん、指摘の内容によっては、相手に精神的苦痛を与えてしまい「優しい自分」像を維持できなくなる恐れもあります。その恐れも相まって、ますます指摘する場面で指摘をできずに放置してしまい、相手を付け上がらせてしまうのです。
まるで子供を甘やかしすぎて、手の施しようがない駄々っ子へと育ててしまう親と同じものを感じさせる行動と言えます。
相手を無責任に肯定する
上からの続きになりますが、相手を無責任に肯定することもまた、優しいけれど他人に無関心な人に目立ちます。
相手を励ましたり、やる気を出させるために応援する…そんな、他人に寄り添う優しさを持っているのはわかるものの、その優しさはいつも相手を全肯定するばかりであり、冷静さや慎重さなど、相手の行動にブレーキをかける部分が欠けています。
たとえば、身の丈に以上の買い物(マイホーム、金融商品など)をするかどうかで悩んでいる相手を無批判に励ましてその気にさせようとするように、大きな決断を迫られている人を無責任に肯定して背中を押そうとします。
相手に対して「別に今すぐ買わなくてもいいのでは?」と、背中を押しはしないが、冷静になるように導く言葉がけを全くせず、一方的且つ無責任に肯定するような偏った優しさを見せます。
こうした無責任な肯定をしてしまうのは、自分の助力が原因となり、自分の善意で他人を追い込む姿が想像できていない。他人に無関心であるからこそ、自分の言葉で他人がどのような結末になろうとも知ったこっちゃないのだと考えられます。
普段の言動からその人らしさが見えてこない
人当たりがよく好感度も高いが、関わっているうちにその人らしさを感じ取れないことが目立ちます。
たとえば
- その人が考えていることや主義・主張が見えてこない。
- その人の好きだと感じるものだけでなく、嫌いだと感じているものが見えてこない。
など、その人の個性やアイデンティティと呼べる部分が非常にぼんやりとしていてわかりづらい。もちろん、やさしい人間であることはわかるものの、それ以外の部分が見えて来ず、近寄りがたさがあります。
キツい物言いこそしないので、関わる上では非常に安心感はありますが、どこか壁を作っているように見えて、それ以上の関係には進みづらくなります。
誰に対してもいい人を演じようとする
表面的にはやさしいために、誰に対してもいい顔をします。
他人の機嫌を損ねないように振る舞って、他人が喜ぶような言葉を口にして、自分が求められている役割をしっかり果たして…と、その姿はまさに他人に真面目に尽くす優しい人そのものでしょう。
しかし、普段の振る舞いの大半がこうなると、まるで誰に対してもいい人でいようとするために「その人の考えが見えてこない」と感じる。加えて、相手を不快にさせないために「無責任に肯定する」することも板についてしまう。
かくして、確かに関わる上では妙な安心感を抱く相手ではあるが、一方で腹の中が見えないというか「本当に相手の事を思って行動しているのだろうか?」という疑問を抱かせるような、優しいけれど、他人に関心が無い人が出来上がるのです。
困りごとが起きると「全部自分に責任がある」と罪を背負いたがる
他人に寄り添うように見える優しさを感じさせる一方で、何事も全部自分一人で背負い込めば万事うまくいくと考えてしまう自己中心的な考えの強さがあります。
本当は自分一人で責任を負うべきことではないし、他の人にも責任があって、それとしっかり向き合うことが必要なのに、自分一人で背負おうとすることで、他人が持つ反省する機会を奪ってしまう。
つまり、他人に関心がないからこそ、その他人が自分の過ちを自覚してそこから学びを得るチャンスを「これは、全部自分に責任があるから」と平気で奪ってしまうのです。
他人と衝突するのを避け、そして他人が面倒事に巻き込まれている時にはその責任の肩代わりを受ける…表面的に見れば、自己犠牲を厭わない優しい人だからこそ成せる事だと考えられますが、やらかした他人が自分の未熟さに気づいて学習していくことに考えが及んでいないであろうことが伺えます。
「他人に興味はないけど、かといって他人から嫌われるのも嫌だ」という葛藤
さて「他人に無関心で興味がないのであれば、わざわざ優しく振舞わなくてもいいのでは?」と感じた方もおられようかと思います。
わざわざ優しい素振りなんか見せず、他人と必要以上にかかわらず、淡白な人間関係を歩んだほうが、言行一致しているのでお互いに余計な勘違いを起こすこともなくなるものでしょう。
しかし、優しいけれど他人に無関心な人は、他人には無関心だけど、かと言ってあからさまに嫌われたり、孤独に苦しむことは嫌だ…という願望があるため、表面的な優しをやめるにやめられないのです。
とくに、社会生活を送る上では、仕事や近所付き合いなど、たとえ興味がない人であってもそれなりに上手に付き合う術を持つことが必要なのは言うまでもありません。
「下手に優しさを見せて期待させないで欲しい」と言うのは簡単ですが、下手な優しさを見せる人にもそれ相応の事情があるという視点は、もっておいて損はないものだと感じます。
優しい人っぽくみえて実は他人に無関心な人は、興味がないし関わりたくないから関わらない…と、スッパリ割り切って社会生活を送ることが、そう簡単にできないからこそ出てくる人なのではないかと感じます。
余談 表面的には優しい人を疑うことの苦悩
余談になりますが、表面的にでも優しさを見せてくれる人に対して
- 「この人はいい人ぶっているだけ」
- 「この人が見せる優しさはおかしい」
と、相手をひねくれた目で見ている自分を自覚すると、自己嫌悪の念に駆られてしまう人もいようかと思います。
優しい人の内面が醜いものであると考えてしまう自分が、実に卑しくて、下衆で、恥ずかしい人間のように感じて苦しくなるものの、相手に感じる妙な違和感は消えないしモヤモヤする…という葛藤した気持ちを持ってしまうことで、余計に辛くなるという具合です。
このように、他人に対して「優しい人=内面も清らかである」であるという、はっきりしていてわかりやすく、そして正しさを感じる説を揺るがせてしまう。つまり、公正世界仮説が揺らがせてしまい、世の中は公正でもなんでもないという恐怖と不安に他人を駆り立ててしまう悪い意味での影響力を持っているのが、優しいけれど他人に無関心な人なのだと考えることもできます。
関連記事