他人と近づきすぎると嫌いになる心理について

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恋愛、友情、家族関係、仕事の付き合いなど、他人と親しくなるためには距離感を縮めていくことが大事。むしろ距離感を近づけることこそ、他人と親しくなるための唯一の方法であり王道である…という常識を、自然とどこかで身につけている人が多いと思います。

しかし、距離感を近づけることは、どんな相手や状況であっても必ず効果があるものではありませんし、むしろに人によっては急に距離が縮まることに対して抵抗や違和感を覚えることもあります。

また、自分から相手に対して近づく時でも、抵抗や違和感を覚えることはあるものです。

ですが、「自分はあまり他人とベタベタ近づくのは好きでない」とか「仲が良い関係でもある程度の距離感は保ってたほうがいい」と言っても、その言葉の意味を理解されないどころか「この人は本当は私と仲良くなるのが嫌なのでは?」と誤解される恐れがあり、人には言えない生きづらさを抱えながら、無理をして人付き合いを続けてしまいます。

今回は、「他人と近づきすぎると嫌い」になる心理について、お話いたします。

どうして近づきすぎると嫌いになるのか

相手に秘密を知られてしまう不安がある

距離感の近さがどれだけ近いかを表す行動として、お互いの秘密を共有するというものがあります。

例えば

  • とくに仲のいい友達とだけで交換日記を付ける。(今どき「交換日記」という言葉が使われているかはちょっと疑問ですが…)
  • 友達同士で秘密基地を作って、その存在を親や先生には漏らさないという約束を決めて実行する。
  • 人には隠しておきたい、恥ずかしい過去や秘密を喋り「このことは内緒」という関係を作る。

など、人には知られたくない秘密にしておきたいこと相手に話す。そしてその秘密を二人だけのものとして扱うことで、一種の運命共同体を築くのです。

こうした秘密の共有は友達、恋人、仕事の関係(=守秘義務など)でも見らるものであり、人と仲良くなれば自然にする行動として受け入れられています。

しかし、秘密にしておきたいことは、やはり秘密にしておきたいことには変わりはありません。人によっては墓に入るまで一生隠しておきたいほどに、恥ずかしさを感じるものとして捉えていることもあるでしょう。

そんな人からすれば、仲良くなった結果として自分の秘密をさらけ出すことは、まさに自分を恥ずかしさという不快感に晒すようなもの。

何があっても秘密は秘密として自分の中に一生とどめておきたいからこそ、秘密を話せる間柄になっても、一向に秘密は喋らないのです。

しかし、秘密の共有が当たり前のように行われている状況では、そうした行動がまるで間違いのように感じたり、「何か人には言いづらい、やましい過去を持っているのではないか」と邪推や下衆な勘ぐりで苦しむことがあります。

もちろん、かと言って秘密をしゃべるのが絶対に嫌なのは変わらない…こうしたもどかしさに苦しんだ結果、他人と距離を近づける以前に、自ら距離を置いて孤独を選んだほう楽だと感じることもあります。

なお、今やSNSで誰でも簡単に自分が知った他人の恥ずかしい過去やプライバシーを不特定多数に拡散できる世のなかです。

そんな世の中だからこそ、秘密を秘密として墓まで持ってくつもりの人にとっては、少々生きづらい世の中なのかもしれません。

自分のプライベートまで覗かれている気がして不安になる

誰かとそれなりに仲良くなれば、秘密に限らず今まで話すような事と感じなかった自分のプライベートな部分や内面をさらけ出すことも出てくるものです。

しかし、人によっては自分のプライベートな部分を話してしまうと、まるで自分のプライベートを誰かに監視され覗かれているかのように感じる。だから、あえてプライベートはプライベートとして隠し通し、一定の距離を置くのです。

もしも、プライベートで休日に遊び出かける場所を教えてしまえば、せっかく知っている人の視線を気にせず自分だけで楽しめていた場所も、教えてしまった以上もはや「自分だけの場所」ではなく「自分と関わりのある人も知っている場所」になってしまいます。

知った人がその場所に出かけてしまい、せっかく自分だけのお気に入りの場所がなくなってしまったり、休日まで知っている人のために気を使わなければならず、気持ちが休まりません。ましてや、異性相手となれば恋愛目的として自分のお気に入りの場所に近づかれることに、不安や恐怖を感じることもあるでしょう。

こうした、不安があるからこそ、自分の守っておきたいプライベートな状況を守る意味でも、一定以上の距離は保ちつつ心地よい関係を築こうとするのです。

そんな状況を知らずに、人のプライベートを詮索したがることは、たとえ好意や興味があると言っても、近づかれる方からすれば非常に無粋で野暮な人と見られるのは無理はないでしょう。

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知らなきゃよかった相手の嫌な一面を知ってがっかりするのが嫌だから

相手と距離感を近づけることは、自分の知らない相手の魅力を知れる一方で、知らなきゃよかった一面までも知ってしまう事もあります。

すごく人当たりがよくて魅力的な人なのに、近づいてみると下品で下衆な一面を隠すためにあえて良い人柄を演じていたり、お金や恋愛にだらしが無くて信用が置けなかったり、自分のことを好いてくれる人をまるで自分の駒のように扱う傲慢な一面があったりなど、知らなかったほうが幸せだったことを知れば、当然ショックは大きいものです。

もちろん、こうした他人が持つ負の部分を受け入れてこそ成り立つ仲もあるにはあるのですが、他人に対する理想や期待がデフォルトで高い人には、ちょっと近づけばすぐに自分の理想は所詮理想でしかなかったと思い知らされます。

こうしたショックで何度も辛い思いをするぐらいなら、あえて浅く広く、そして深く関わるのを避けた関係を構築する方が楽なのです。

傍から見れば距離感を置いて仲良くなるのを拒んでいるように見えてあまり好ましく思われませんが、基本的に深入りはしないので、人間関係の煩わしさが少ないと利点もあります。

(もちろん、薄っぺらい関係ばかりなので、病気や生活苦などで困ったときに助けてくれる相手がいないという辛さもありますが…)

無理に相手に合わせようとして自分を抑圧して辛くなる

距離感を近づけると、今までなら知らなかった相手の感情や気持ちまでも知ることになります。

好きや嫌い、得意や不得意など、社交辞令のような仲では知ることができなかった、相手の本心や本音とも呼べる部分を知ることになるものです。

しかし、こうした情報の中には

  • 「相手が好きなこと=自分が嫌いなこと」
  • 「相手が嫌いなこと=自分の好きなこと」

と好きと嫌いが真逆であり、どちらか一方の気持ちを優先すれば、どちらか一方は苦しむというジレンマを抱えるものがあります。

また、一つでもこうした好きと嫌いの一致があると、相手が不快感を感じないようにこちらが配慮すぎて、自分の意見や感情を抑圧してしまうことも多いものです。

せっかく仲良くなれたのに、ここで自分の意見を通して相手が不快になれば非常に残念。下手に意見を遠そうものなら、不快感を与えた事実を材料にされていじめや嫌がらせを受けてしまう恐れもあります。

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「適度に人と距離を取ること≠相手を嫌いになる」わけではない

人間関係に置いて「距離を取る」ということは、「相手と仲良くなろうとする気がない」「嫌いということの裏返し」と扱われて、タブー視されているように感じます。

しかし、近ずきすぎると不快感を感じたり、人間関係が辛くなる人のことを考えれば、決して「距離を取る」ということがネガティブな意味だけしかないと決め付けるのは間違っていると言えるでしょう。

お互いに触れたくないことや知られたくないこと、知ってしまうと今までの関係が崩れてしまうからこそ、波風を立てずお互いに心地よい関係が続くためにも「適度に距離を置く」ことは大事だとおもいます。

また、適度な距離感を保っておきたい場合は、無理に近づけようとする圧力や雰囲気に屈するのではなく、「これ以上は無理だからやめてほしい」と自分の意見を主張することも大事だと思います。

お互いにちょうどいい距離感を知らないままでは、どうしても近づきすぎや遠ざかりすぎの問題はでてくるものです。

だからこそ、どの程度の距離感ならお互いに心地よいかを調べる意味も兼ねて、嫌なことや無理なことをはっきり言い合える関係を築くことが大事だと思います。

もちろん、言い合った結果として残念ながら関係が途切れてしまったのなら、未練がましく執着するのではなく、自分が持っている「程よい距離感」が似ている相手と関係を構築することを意識してみましょう。

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国立大教育学部卒、専攻は心理学。発達心理学、教育心理学、スポーツ心理学、社会心理学を中心に心理学に関する記事を執筆中。そのほかにも、人間関係やコミュニケーション、性格、スマホ、SNS、ゲームなどのあらゆるテーマを心理学の知識を用いて詳しく、面白い記事を書くことを心がけております。

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