人間関係の雰囲気や他人の感情に対して、敏感に察知してしまうHSPの人は、ときにその敏感さゆえに他人の期待に寄り添いすぎて、自分の本音や本心を抑圧してしまいます。
いわゆる
- 「自分がない」
- 「自分が空っぽのように感じる」
- 「自分が本当はどうしたいのかがわからない」
- 「本当の自分がわからない」
という、自我や自分らしさ(アイデンティティ)を喪失する苦しさを感じているのです。
しかし、自分がない状態であっても、周囲の期待を先読みして応えられることから、周囲からの評判はよい「いい子」として見られます。そして「いい子」というイメージがつきまとうために、「まさか、自分が無くて悩んでいるようには見えない…」と思われやすく、なかなか理解や共感が得られにくい事が、HSPの人が感じている生きづらさの一種でもあります。
今回は、そんなHSPの人が感じる「自分がない」という状況について、お話いたします。
目次
親や先生の期待に影響され自我が育まれないHSP
HSPの人は、自我が確立される以前に関わる人…つまり、親や学校の先生に深く影響され、親や先生の期待に応えることに、つい力を入れすぎてしまう事があります。
- 友達とは仲良くしなさい。
- 好き嫌いはせずにしっかり食べなさい。
- しっかり勉強していい学校・会社に行けば安心。
など、子供にかける言葉としてはよくあるものですが、そうしたよくある言葉通りな、お手本のような子供になろうとします。
しかし、自分が将来どうしたいのか、自分はなぜ勉強をしているのか、学校に通っているのか…など、親や先生からの精神的な自立が必要となる思春期になっても「今まで周囲の期待に沿って、自分の本音なんてわからないまま生きてきたかさ、今更『あなたは将来どうしたいの?』なんて言われてもわからない」という問題を抱えます。
心理的な境界線の薄さのせいで自分らしさが薄れてしまう
HSPが他人の気持ちや感情に左右されやすい理由は、自分と他人との心理的な境界線の薄さにあるとされています。
自分とは全く無関係であるのにもかかわらず、他人が怒られているのを見ると、まるで自分が怒られているかのように感じてしまい、萎縮するのはこのためです。
自他の境界線が薄いことは、ただ他人の感情や左右されるだけでなく、本来自分が抱いていなかった感情までも取り入れてしまい、もともと自分が抱いてた感情がどういうものだったのかがわかりにくくなることも招きます。
上の「怒られている人を見て萎縮してしまう」の例でも、怒られている人が感じている「申し訳ない」という気持ちや反省・後悔の気持ちは、そもそも全く無関係である自分には最初からあるはずがない感情です。
しかし、怒られている人の様子を見て、それらの感情がいつの間にか自分が持っている感情であるかのように思えてしまい、つい自分までも釣られてしまいます。
傍から見れば、全く無関係の人が「申し訳ない」と思うこと自体、なんら関係がないものだと認識できるものでしょう。
ですが、当のHSPの本人はというと、この「申し訳ない」という気持ちは、本当に自分が申し訳ないと思っているから出てきたものなのか、それとも怒られている人に影響されて勝手に入り込んできたものなのかの区別がつけ難く、自分が感じている感情すら本当に自分の本心や本音から来ているものなのかがあやふやに感じられてしまうのです。
…言葉にするとややこしいかもしれませんし、「思い込みが激しいのでは?」という一言で済まされそうですが、自分の感じている気持ちですら、本当に自分が抱いているものなのかがわからなくなる事が、HSPの生きづらさの一つなのです。
誰かに嫌われたくない為に過剰に気を遣い自分を抑圧する
HSPの人が他人の気持ちに敏感なだけでなく、それに同調してしまう裏には誰かに嫌われることについて過度な恐怖や不安があると考えられます。
こうした気遣いは空気が読める人だとか、人間関係の和を大事にする人だとかで評価される一方で、嫌われないためにもいつも他人の視線が気になって不安を感じてしまうことや、自分にとって不快なこと(いじめ、ハラスメントなど)が行われても、それに抗議できず受け入れてしまう恐れがあります。
また、他人から嫌われないという気持ちが「嫌われたら愛されなくなる」「どんな時でも嫌われないように生きるべきだ」と脅迫観念となり、自分を襲うこともあります。
適度に自分と他人との境界線があり「自分は自分、他人は他人」と、自他の区別をつけて考えることができていれば、こうした極端に自分を抑圧して、周囲に同調することはないものです。
他人影響されやすく、そして他人が持つ「嫌い」「苦手」というネガティブな感情に強く反応してしまうがゆえに起きてしまう現象であるとも言えます。
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「自分が無い」不安から他人に精神的に依存することも
HSPの人の場合は、他人の期待や願望などの感情を察知し、またそれに自己犠牲的に沿い続けてしまう同調してしまいがちです。
こうした生き方は、自分らしさがないことで苦しむだけでなく、他人に対する精神的な依存(共依存関係も含む)に陥ったり、カリスマ性や権威のある人(or集団)に心酔してのめり込んでしまう生き方へと繋がるおそれもあります。
のめり込む対象次第では、マルチ商法、カルト宗教、胡散臭いビジネスなどのカモにされるリスクも十分にあるので、無批判に推奨できるものではありません。
こうした他人への過度な同調や依存の背景にあるのは「自分がない」という漠然とした不安や、自我が確立できなかったことに対する焦りが原因として考えられます。
他の人は思春期を無事に乗り越え、それなりに社会人として自分らしい人生を生きているのに、自分にはそれがない。
他の人がどんどん自分らしい生き方を歩んでいるのに、肝心の自分はというと、誰かの期待に過度に同調して、無理に自分を重ね合わせる日々に焦りや戸惑いを抱き、精神的な辛さを感じている…。
そうした迷いや隙がある人にとっては、自分の戸惑っている気持ちに対して、まるで自己啓発書や偉人の格言集のような物事をぶった斬り断定する口調で話す人や、不安な自分を受け入れてくれて背中を押してくれるような人の存在というのはありがたいものです。
しかし、背中を押す人間がみな優しくて良心的な人であるとは限らないことを踏まえておくことが大事です。
HSPが自分らしさを取り戻すために
「自分らしさを取り戻す」と言うと抽象的で、何をしていいのかわからないと思ってしま居がちですが、大事なのは自分が感じている感情や願望を自覚したり、自分の中に入ってきた他人の感情は他人の感情だと区別して受け入れることです。
その方法について、いくつか例を紹介します。
自分の感じている気持ちを文字に起こしてみる
自分の感じている気持ちを、文章にして書き出すことです。ペンと紙で書くのでもいいですい、ブログやSNSなどで書き起こすのでもいいでしょう。(ただしネット上でアップする場合は、不特定多数の人に拡散されて炎上を招くリスクがある点には注意。)
自分の感情を文字に書き起こすことは、自分自身を客観的に見て、「この感情は自分がもともと持っていた感情」「あの感情は他人の影響を受けて自分の中に入り込んできた感情」と、感情が誰のものなのかを確認することにもつながります。
また、仮に他人の感情のせいで気持ちが乱れたとしても、その気持ちにただ惑わされるだけでなく、文字に書きおこして客観的に見るという作業を通すことで、他人の気持ちと適度な距離間を置いて、感じている辛さを取り除くのにもつながります。
ネガティブな感情も自分らしい感情として受け入れる
前向きで、ポジティブで、他人から支持されるようなものこそ自分らしさである…というわけではありません。
そもそも、他人の期待に応えて、他人が喜ぶようなことをして周囲から認められるものの、その結果として自分らしさを見失ってしまっている状態だと「ポジティブなもの≠自分らしさ」となり、ポジティブさを求めれば求めるほど、自分を見失うことになりかねません。
(いままで他人に左右されているとはいえ)ポジティブな自分で生きてきた人からすれば、自分の中に、まるで穢れや毒のようなネガティブな感情があることは認めたくないものかもしれませんが、そうしたネガティブな感情も自分の感情の一部として受け入れていくことが、自分らしさを確立していくためには欠かせないのです。
「自分はどうしたいのか」という自分の願望を明らかにする
自分の行動が他人の期待や願望によって突き動かされている人が取り戻したいのは「他人がどう望んでいるか」ではなく「自分はどうしたいのか」という、自分の願望を明確にしていくことです。
ここでいう願望は、将来の夢のようなスケールの大きいものから、今日食べたいもののようにスケールの小さいものまで、どれでもOKです。
些細なことであってもいいので、自分を基準にして「○○がしたい」という気持ちを持ったり、それを他人に伝えてコミュニケーションを行うことです。
こうした自分の願望を出すコミュニケーションは、いままで他人の言うとおりに動いてきた上下関係のあるコミュニケーションとはちがい、対等な関係のコミュニケーションです。
他人と対等な関係を築れば、自分も一人の「自分のある人間」として見られているのがわかるために、自分らしさがなくて苦しむことを和らげることにつながります。
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