HSPに関する情報(主にネット上)を調べていくと、
- HSPの人には特別な才能がある。あるいは天才になる可能性を秘めている。(とくに、HSPの子供(HSC)に関する情報でよく見られる)
- HSPの人は、普通の人よりも優れた感覚を持っている。
など、あたかも「HSP=天才」と結びつけている表現が目立ちます。
この表現を見たときに感じたのが、かつて発達障害が話題になったときに「発達障害=天才」というイメージも広まってしまい、才能らしい才能がない発達障害の当事者を苦しめてしまった状況に通ずるものが感じる事です。
今回は、そんなHSPの人を天才であるとか、才能がある、素晴らしい個性があると持て囃す言説・風潮について思うことを、お話ししたいと思います。
「HSP=天才」というイメージに感じるモヤモヤ
普通の人(非HSP)が気が付けない部分に気付ける気質であることに着目すれば、HSPの人は学問・スポーツ・芸術・仕事の分野などで、新たな発見をして評価されたり、普通の人なら思いつかないような活動をしたことで、注目の的になる可能性が高そうだということは、論理的に考えれば理解できるものがあります。
しかし、一方で「HSP=天才」と結びつけてしまうことは、ともすれば天才と呼べるだけの才能がないHSPの人や、およそ社会から認られないような才能や時代錯誤な才能しか持ってないHSPの人の生きづらさを増してしまうのではないかという懸念があります。
また、持て囃される才能について
- 「学問・スポーツ・芸術・仕事の分野」
- 「社会的に認められている」
と表現したのにも理由があります。
それは、いわゆる才能と呼べるものは、あくまでも人様の役立つものや社会的な利益になるものでなければならないこと。
およそ他人の役に立つとは言えない才能や、社会的な利益(特に経済的なもの)を生むとはいえない才能しかないのであれば、その人には社会での居場所はないし、そもそも天才ですらない…という裏のメッセージが、何かしらの才能を語るときに私たちが自然と意識しているものではないかと感じます。
よくあるドキュメンタリー番組にて、あらゆるハンデを背負っている人が持つ才能について取り上げられるときに、その才能と呼ばれるものはどれも(当事者を含め)誰かの幸福に寄与したり、社会において新たな利益や価値を生み出すものばかりが取り上げられている事を見てもわかるように、才能と呼べるものは想像している以上にバリエーションの少なさが目立ちます
「社会で生きづらさを感じている人に『才能があるよ』と言えるのだろうか」という素朴な疑問
HSPの人は持ち前の繊細さゆえに、普通の人なら気にもとめないような些細なことでストレスを感じてしまい、精神的にも肉体的にも疲れやすいことで悩むとされています。つまり、社会生活を営むことにおいて、生きづらさを感じている人といえます。
そんな、生きづらさを感じている人に対して「あなたには才能があるよ?」と慰めや励ましの意味で言えば、普段から生きづらさを感じているHSPの人の、自己肯定感を上げて元気にさせることが期待できるとイメージするのは、至って自然なことだと思います。
しかし、これはあくまでも応援する側の視点で物事を見ているからこそ言えてしまう意見であり、立場を変えて考えてみることも大事でしょう。
私見になりますが、もしも自分が生きづらさを感じて、へろへろになっている状況で「あなたには才能があるよ」と言われたときに「そっか、自分には才能があるから、落ち込んでいる暇なんてないよね!」とポジティブ&キラキラな言葉は、口が裂けても言える気がしない。
むしろ、「人より疲れてしまう才能なら、もっとほかのマシな才能の方よかった」と感じたり、「ひょっとして、その言葉は冷やかしか嫌味なのだろうか?」と疑ってしまう。そのほかにも、無理解からくる無責任で無神経な言葉であるように感じて、その人とそっと距離を起きたくなり、余計に生きづらさが増してしまうと感じます。
このように「HSP=天才」と持て囃すことは、HSPの人を理解して共感を寄せているようにみえるものの、実は相手への理解や共感とは程遠い。むしろステレオタイプで判断してしまう危険性があります。
他人のことを都合の良い憶測でわかった気になって、「こんなもんだろう」とタカをくくって接することは、社会で生きづらさを感じている人のことを理解しているとは口が裂けて言えないように感じます。
また、HSPの人が普段から感じている生きづらさの中には、どうしようもないぐらいに希望も救いも見られないほど闇が深かかったり、理解はできるかもしれないけど理解してしまえば、自分が知らないうちに相手に負担をかけており、自分の過ちや愚かさに気づかされるなど、気持ちのいいものばかりではありません。(もちろん、これはHSPに限ったことではないが…)
そんな、見ればショックを受けるような不都合な事実を見ようとせず、知るにはある程度の覚悟がいるものを知ろうとせず、ただキラキラとしていて美しいHSPに関する希望や夢にあふれる情報ばかりが持て囃されてしまう状況は、結果としてHSPに対する無理解や思い込みを助長するように感じます。
「発達障害の頃の二の舞になるのでは?」という懸念
冒頭でも触れているように、ある特徴や性質を才能と結びつけて持て囃す風潮は、かつて発達障害(ASD、ADHD等)が話題になったときによく見られたものです。(なお、発達障害の他には、映画「レインマン」で圧倒的な記憶力があると触れられたサヴァン症候群や自閉症でも、同様の風潮があるように感じる。)
発達障害の場合は、発達障害の子を持つ親が「うちの子は障害もあるけど、才能もあるから大丈夫」という希望を持ちたいがために「発達障害=天才」というストーリが強く支持されたと推測していますが、これと似たような状況がHSPに関しても起きているのではないかという懸念があります。(ただし、厳密に言えばHSPは障害でもなければ疾病でもない点は、押さえておきたい)
書店にいけば、HSPの子供(HSC)の才能を伸ばしたり、個性を生かすことを売りにした子育て本が置かれている。
ネットを調べれば、HSPの子供を持つ親へのカウンセリングやメルマガなど、親が抱えている不安を解消してくれるようなサービスが簡単に見つかる。
今まさにHSPに関わる不安を感じており、藁にもすがりたい気持ちになっている人からすれば、(真偽はさておき)希望を感じさせてくれる情報は、非常にありがたいもののように感じるでしょう。
しかし、ありがたいと感じる情報をなんの疑いもなく信用してもいいものでしょうか?
鵜呑みにして信用してしまったことで「才能らしい才能がない自分(あるいは自分の子)はHSPですらないし、この先どうすればいいのだろうか?」余計に混乱したり、無責任な期待を子供に押し付けたことで、子供に負担をかけてしまうなど、ありがたい情報が必ずしも事態を好転させることを保障するとは限らない事実からは、目を背けてはならないと感じます。
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