モラハラをする人は、それを受ける相手であるパートナーに対して様々な束縛を行ってきます。
- 仕事・プライベート両方に対する生活スタイルの強要。
- 交友関係の詮索、及び干渉。
- 金銭事情の詮索、及び干渉。
- 場合によってはモラハラ被害者の家族、親族への詮索、干渉。
…他にもありますが、共通してるのは「(パートナーに対して)自分の意見が受け入れられなければ不機嫌になる」という、わがまま、自分勝手、自己中心的な行動でモラハラ被害者を物理的にも精神的にも束縛している点です。
また「意見を言っているだけ」「正論・一般論として」などという、それっぽい建前(というか屁理屈)も使いながら、モラハラ加害者は被害者を束縛することに躍起になります。
さて、ここで「わたしに関心を持ってくれているんだ」「わたしを愛してくれているから、心配して言ってくれているんだ!」と、つい嬉しい気持ち思ってしまえば、それはモラハラ加害者の思うツボ。
残念なことに、これらの様々な「意見」は、決して被害者となるパートナーへの愛情の裏返し…とは呼べない、加害者がもつ個人的な歪んだ欲望が潜んでいるのです。
目次
モラハラ加害者の束縛は愛情の裏返しではない
恋愛は相手をより理解したいというコミュニケーションでありながら、同時にそうする事で相手の全てを知りたい、相手を自分の「もの」にしたいという独占欲を生じさせる事があります。
独占すると言えば相手の行動を束縛して支配すると言った否定的なニュアンスになりますが、そこまで束縛したがるのは決して悪意や恨みと言った慎むべき感情はなく、いわゆる「愛情の裏返し」で」あるとして解釈されることが多いものです。
なお、このような「好きの裏返し」は心理学で言えば防衛機制の反動形成とも解釈できます。
時に人は「必要とされたい」と考えます。人間関係においての「役割」を渇望する事があります。そこに恋愛における相手の独占欲がカチリとハマってしまう事もあるでしょう。
ですが、普通に生きてきた人ならば同時に「相手を自分のものにする」事など、相手に自由意志がある限りにおいては決して不可能であることは、自ずと理解できるでしょう。
しかし、モラハラの加害者は、そんなことは考えません。
と、いうのも、モラハラ加害者が相手を束縛するのは愛情からではないからです。むろん加害者本人は「愛情だ」と主張し、自分のしていることを正当化して、加害者・被害者ともに信じ込もうとする事でしょう。
ですが」、モラハラ被害者の束縛は愛情ではなく「都合が良い相手を求める心」すなわち「完全屈服による隷属を求める支配欲」であり、それは互いの精神性を尊重して認め合う「愛情」とは全く別の欲望です。むしろ、愛情とは似て非なる、正反対のものと言っても良いかもしれません。
もっと簡単に言うと「自分(モラハラ加害者)のために意志を捨てろ、ロボットになれ」と言っているのです。
親密な間柄の相手であるのに、人を人として認知もしなければ当然一人の人間としても尊重しない。ただ自分の言うことを聞くロボット、都合のいいロボットのように被害者を認知する。
そして、自分の所有物であるロボット(被害者)が勝手に自分の元を離れないように、厳しく監視したり、命令の遵守を強いる…その時に出るフレーズが「厳しくするのは俺(私)の愛情だ」なのです。
束縛はサンドバッグ(モラハラ被害者)をキープするため
では、なぜ、そんな事を微塵も感じさせずにカモフラージュさせながら主張してくるのか。
それはもちろん「自分に都合の良い相手を作り出し手元に置いておくため」…つまり「自分に対して無条件に服従し全てを肯定するサンドバック」にするためです。
そのために様々な屁理屈、極論、暴論などで理論武装して、モラハラ加害者は被害者の行動を束縛します。その束縛は被害者の今まで築きあげてきた常識や人間関係を破壊するために行われます。
そうする事によって被害者に対して「私には加害者しか頼れる人がいない」という状態に追い込むとが、モラハラ加害者の一番の狙いです。
そこには恋愛のパートナーに対しての敬意や尊重といったものは欠片もありません。恋愛関係ではなく圧倒的な立場の差で成り立つ、主従関係、支配=被支配関係です。
優しい側面「も」見せることで束縛を強固にする
上述したようにモラハラ加害者は被害者を自らに都合の良い存在にするため、いわば、その意志を加害者の都合の良いものへと作り替えるため、巧妙な手段で被害者に対しその意思の否定や行動の束縛を行います。
当たり前ですが、その際に加害者は「これは支配のためにやってるんだ」とあからさまに自分の歪んだ欲望や目的を被害者に示すことはありません。(もちろん、そうした欲望をほのめかした時点で支配が成立しなくなるので、隠しているのだと考えられますが…)
むしろ加害者は被害者に対する善意を装います。ただ単に装うならば良いですが、やっかいなことには加害者本人も「自分のやっていることは善意だ、正義だ、何ら恥ずべきものではないんだ」と自分の歪んだ感情を、善意だの正義だのというわかりやすいポジティブな言葉で覆い隠し、自分の行動には一片のやましさや後ろめたさがないのだと信じ込んでしまいます。
モラハラ加害者の行動は客観的に見れば、綺麗事をのたまう割には胡散臭さが拭えず、違和感や不信感が目立つ、という異様な光景が広がっています。
加えて、対象となっている被害者はおろか加害者も、その場の異様さを認知できないほどに、目の前の異様な状況に良くも悪くも慣れてしまっている場合もあります。
そんな「おかしな善意」によって葛藤や緊張に晒された被害者の消耗を見計らい、時に加害者は被害者を気遣う言葉をかけたり、あるいは自ら妥協を申し出たりします。
すると、緊張に晒され続けてきた被害者は、ここでそれらから一時的に解放されることになります。言うなれば「その時だけ」は「楽に」なります。時にその緊張からの開放感が快楽に変わって加害者のことを「いい人」と錯覚してしまうこともあるでしょう。
そして、緊張に晒され続けた精神は、解放によって与えられた楽に対して「救い」や「希望」を求めるようになります。
人は危機的状況に陥ったとき、生存の可能性を探る本能から、たとえ劣悪で凄惨な状況であっても、自身をその状況に適応させようとします。(ブラック企業や体罰教師を擁護してしまうのもこれと動揺)
簡単に言うと自身に何らかの力によって理不尽な行動の制限をかけられたとき、当初こそ抵抗をしようと考えますが、それが無駄と知ると抵抗を諦めますし、逆に支配されるがままでいれば楽になれると気づけば、それを受け入れてしまいます。
このメカニズムを利用することで、、加害者は被害者への支配を強固にします。モラハラ加害者はこの一連の心理の移り変わりを、何らかの形で学習して再現するかのように、ごくごく自然な形で行うのです。
モラハラ加害者にとっては、善意も妥協も次のステップで相手の心を縛り付けるツールに過ぎません。加害者が見せるふとした時の優しさを「愛情」と錯覚してはいけないのはこのためです。
経済的にも、精神的にも加害者なしでは生きられなくなる被害者
かくて自身の安定のため、加害者の束縛を受け入れてしまった被害者は、加害者から自らの全てを握られて逃げられなくなってしまいます。
- 自身の生活の全てを加害者の生活のために使うことを求められる。
- 自身の預貯金も稼いできた金も全て加害者の楽しみのために使われる。
- 自身の交友関係も加害者というフィルターを通してでしか決められない。
- 自身の買い物をするときも加害者の許可がいる。
- 自身の外出も加害者の許可がいる。
もはや自分一人では何もできず、自ら加害者の奴隷と成り下がっているのと同じです。
この状況は、恋人関係、夫婦関係とはまったくもって遠い歪な関係性でしかありません。
しかし、被害者はそれを受け入れて生きていくしか出来なくなっています。そこから脱するには勇気のみならず、モラハラに対する知識や第三者からの支援が必要となります。
そのため、モラハラ加害者の束縛への対策は、まず自身がそれを知り恋愛の独占欲などと勘違いしないように、早いうちから心がけることがまず重要です。
あるいは離れられなくなっても、駆け込み寺となるような交友関係や相談できる居場所…つまり複数のセーフティネットを持つことがかかせません。
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