人間は集団になると冷静さを失ったり、罪悪感が薄れてしまうことで、いじめや嫌がらせのような道徳的に許されない行為を行ってしまうことがあります。
このことは、精神的に未熟な子供ばかりではなく、大人でも同じです。
いじめに関するニュースを見ていると、学校内だけでなく会社や職場でのいじめ(この場合はセクハラ・パワハラと言っても良いでしょう)は少なくありません。
大人のいじめを見ていると「いい年した大人が、なんとまぁ子供のような幼稚で心底くだらないことを…」と呆れてしまうこともあるでしょう。
しかし、このようないじめの裏にあるのは、集団になるからこそ起きる特殊な心理状態…すなわち、集団心理により人間の考え方や行動がいともと安く変わってしまうということを無視してはいけないと思います。
もちろん、集団心理のせいだからと言っていじめを肯定するわけではありません。
しかし、集団心理について知っておく事は、
- いじめがどうして起きてしまうのか
- どうしていじめがエスカレートしてしまうのか
- なぜ、理性的な大人ですらいじめに手を染めてしまうのか
と言う、いじめが起きる心理やメカニズムを知る上では非常に大切な知識だと思います。
今回はいじめと集団心理の関連性についてお話しいたします。
目次
いじめにおける集団心理
集団心理とは群衆心理とも呼ばれており、群衆の中で生まれる特殊な心理状態のことを指します。
人間は集団になることで我を忘れて興奮してしまったり、冷静さが失われ衝動的な行動してしまったり、およそ理屈では考えられないような非論理的な行動とってしまうことがあります。
冷静に考えればいじめのように他人に危害を加えたり不快な思いをさせる行為は、理性が働いている状態であれば、まずすることはないでしょう。
大人の場合であれば、誰かをいじめることによって自分の評判を下げてしまうリスクもありますし、いじめが原因となって裁判沙汰になれば経済的・社会的損失を被ることになることは容易に想像できるはずです。
いじめで得る利益以上に自分が受ける損害について知っているからこそ、積極的にいじめることは理性的な人であればしない方が賢明なのです。
しかし、人が大勢集まり集団となってしまうと、以下のような状態になり、他人をいじめることに対する抵抗が失われてしまうことがあります。
- 集団の一因であると感じて強くなったと錯覚する
- 罪悪感の希薄化
- 責任感の希薄化
- 「多数派=正義」という短絡な思考
それでは、上に挙げた4つのいじめにまつわる集団心理について説明していきます。
集団になると感じる「強さ」で冷静さを失う
集団心理の良い例が、1人では何もできないのにグループになると急に元気になって勢いづくと言う現象です。
アニメ『ドラえもん』のスネ夫のように、スネ夫1人ではおどおどして頼りないキャラクターとして描かれてますが、ジャイアンやその友達と一緒になるとやたら調子に乗って、のび太をいじめる…と言う光景は、まさに「集団になることで自分が強くなった」と錯覚する心理をよく表しています。
確かに集団に所属していれば「自分と同じ意見や考え方を持っている人がいるから自分は1人ではない」と言う自信を得ることができるでしょう
しかし、その自信が暴走して過信や周囲に対する見下しになってしまうと、他人に対して攻撃的な行動をいとも容易くとってしまうのです。
また、集団の一員であると言う事は、言い換えれば自分を守る隠れ蓑としても役立つ側面があります。
実際に集団に属して集団の意見に合わせて自分も意見を言えば、一人で意見を言うのと比較して、違う意見を持つ人からの避難やツッコミを回避することができますし。
また、仮にツッコミが来たとしても自分1人で対峙するわけではなく、「グループの他の人も同じことを言っているから…」と言い訳を用意することも可能で、精神的なダメージを軽減することもできます。
このように集団になる事は、他人を攻撃しやすく自分を守りやすいと言うメリットがあり、いじめ加害者と立場と非常に相性がいいのです。
罪悪感の希薄化がいじめへの抵抗を無くす
罪悪感の希薄化は「赤信号みんなでみんなで渡れば怖くない」と言うブラックジョークが良い例です。
冷静に考えれば、信号無視して赤信号の状態で横断歩道渡ろうとすれば交通事故に巻き込まれて怪我をしたり、交通違反のために罰則を受けることが考えられるでしょう。
しかし、他の人と一緒に赤信号渡ってしまえば、「ルールを守っていないのは自分1人ではない」と言う妙な安心感を得ることで、罪悪感を薄れさせてしまうのです。
いじめもこれと同様で、1対1人のタイマンでいじめるよりも、1対集団になっていじめた方が「他人を傷つけてしまっている」と言う罪悪感を薄れさせしまいます。それどころか、いじめそのもの危険なものである、道徳に背いているものであることすら認知しにくくなるのです。
加えて、集団が例えばクラスや部署内で多数派で会った場合、「多数派である」であると言う事実を元に、
- 自分達のしていることはいじめではない
- 私たちは何も間違ったことをしていない
と言う自己正当化を招く恐れもあります。
「いじめてるのは自分だけでない」と責任感が希薄になる
いじめの加害者によく見られるのが見られるのが、「いじめているのは私1人だけじゃないから、私だけが非難されるのはおかしい」と開き直ってしまうことです。
なんとも無責任で見苦しい言い訳ですが、こうなるのも集団心理が影響しています。
集団心理には罪悪感だけでなく責任感も希薄化することがあります。「みんなでいじめているから」と言う事実のために、一人あたりが感じる責任感を弱くさせてしまいます。
例えば、
- 1人対2人でいじめ
- 1人対10人でいじめ
の場合10人でいじめた方が、2人でいじめた場合と比較して実際に自分の手で誰かを痛めつけていると言う実感が湧きにくくなるものです。
痛めつけている実感がわきにくいので「自分は悪いことをしている」とか「自分が犯した過ちについて責任をとらなければいけない」と言う良心の呵責に悩まされにくくなります。
その結果、いじめがエスカレートしたり、いじめが一大事になったとしてもいじめに対する責任感の薄さゆえに反省や改心が遅れることにつながってしまうのです。
「多数派=正しい」という考えの危うさ
学校のクラスや職場において、ある人間関係の集団が多数派であった場合「多数派=正しい」という考え方を生んでしまうことがあります。
確かに、大多数の人と同じ意見を共有していると
- なんとなく自分は正しいことをしている
- 自分は間違ってはいないんだ
と言う安心感を得ることができます。
しかし、この正しさが暴走すると「この人は集団にとって不快だからいじめても問題ないよね」と言うような、いじめを肯定する正しさへと繋がってしまったり、正しさゆえに「自分が行っているいじめ=正義の鉄槌」であると言う考え方の歪みを生んでしまうことがあります。
「歪み」という漢字が「正しい」に打ち消しの「不」から出来ているのを見てもわかるように、強い正しさは考え方の歪みを生んでしまうのだと見ることができます。
正しいからいじめても問題ないと言う考え方は、冷静に見れば独りよがりの正義感が暴走して他人を傷つけていることにほかならないでしょう。
しかし当の本人(及び集団所属している人)は、自分が行っている事はあくまでも正義であると信じているために自分の過ちを感じることもなければ、「ひょっとしたら自分達にも正すべきところがあるのかもしれない」と言う内省や自制心が働きにくくなります。
また、何より「自分達は正しいことをしている」と言う陶酔感が癖になり、よりその正しさ味わうために正義を振りかざして周囲に攻撃的な態度をとったり、自分の歪んだ正義感を自覚自覚しないままいじめをエスカレートさせしまうことがあります。
いじめを傍観者している人もいじめに加担している見方ができる
いじめを語る上で欠かせないのが、いじめはいじめの被害者と加害者の二者間だけの関係ではなく、
- 観衆:いじめを見学して面白がっている人の存在
- 傍観者:いじめについて認知しているものの見て見ぬふりをしている人の存在の
の4層構造になっていると言うことです。
特に、観衆と傍観者は間接的ながらもいじめの存在を影で支えている存在であり「イネイブラ(支え手)」と呼ばれることもあります。
もちろん、この4層構造はリアルの人間関係だけでなくネット上での人間関係でも同じです。
SNSでいじめが起きている場合、いじめ被害者と加害者の他にも、その様子を面白がって友達に拡散している人(観衆)や、あえて既読無視をしていじめを見て見ぬふりをしている人(傍観者)が、SNSいじめを支えていると表現することもできます。
いじめられているいじめの被害者からすれば、直接攻撃をしてくる加害者だけでなく、観衆や傍観者ですら、自分のことを見捨てる人、いじめから自分を救ってくれない人だと映ってしまい、非常に辛い思いをすることになります。
なお、いじめを見て見ぬふりをする心理については、心理学における傍観者効果で詳しく説明することができます。
傍観者効果については以前に書いた記事がありますのでそちらをご参照ください。
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