だれかの気持ちに寄り添う時に使われる似た言葉として「共感する」と「同情する」があります。
どちらも誰かを慰めたい時や励ましたいとき、勇気づけたいときに使われるニュアンスの言葉でありますが、「同情する」の方はあまりいい意味で使われる場面が少ないように感じます。
同情と聞くとどうしても相手の気持ちや体験を表面的に見ている、どこか相手を軽んじて自分基準で行動していると見られ、共感と比べると薄っぺらいものだと感じることが多くあります。
もちろん、誰かに対して同情を行う人は、決して悪意から同情をしているわけではなく、どちらかというと善意や優しさからしているのですが、その行為がかえって同情される人の神経を逆なでしたり、同情される人を精神的に追い詰めてしまうことがあります。
今回は「共感」と「同情」の違いについてお話いたします。
共感と同情の辞書的な意味
共感と同情の違いを説明する前に、辞書的な意味を整理しておきましょう。
共感は
他人の考え・主張に、全くそうだと感ずること。その気持。同感。
という説明になっています。
一方、同情は
他人の気持、特に苦悩を、自分のことのように親身(しんみ)になって共に感じること。かわいそうに思うこと。あわれみ。おもいやり。
という説明になっています。
共感も同情も辞書的にはある程度共通点はありますが、完全には一致しない言葉です。
同情の場合は「かわいそうと思う」「あわれみ」といった、優しさだと見ることもできれば、見下しや蔑みとしても見ることができる使われ方が可能です。
優しさやいたわりのつもり相手の気持ちに対して親身になっているのに、その優しさが相手に伝わないどころか、嫌味や皮肉に聞こえたり、マウントをとっているのだと違った形で解釈されてしまうことが同情がネガティブなニュアンスで使われる原因なのだともみることができます。
ちなみに英語の場合は
- 共感:empathy (エンパシー)
- 同情:sympathy (シンパシー)
となっています。また英語の場合、「sympathy」は同情だけでなく共感という意味でも使われることがあり、日本語とは違いきっちり意味が分かれているというわけではないようです。
共感と同情の大きな違いは想像力
共感と同情の大きな違いは想像力にあります。
心理カウンセリングにおいては、カウンセリングを受けに来た相談者(クライエント)から話を聞き、カウンセラーが話に共感することが一般的です。
心理カウンセリングにおける共感とは、相手が苦しや辛さだけでなく、その思いを抱くに至ったや立場、状況、背景について想像して受け入れて行くことが基本とされています。
いくらカウンセラーとはいえ、相談者の辛さを全部理解するのは現実的ではありません。カウンセラーも相談者もどちらも同じ人間ですが、育ってきた環境や置かれた状況は違うので、完璧に理解しあえるわけではありません。
しかし、完璧に理解するのが容易ではないからこそ、カウンセラーは話を聴いて「自分なら…」「私なら…」と自身の立場で話すのではなく、相手の気持ちや立場を想像し謙虚な姿勢で受け止めて理解していくことで、カウンセリングをしていくのです。
相手の気持ちを想像し理解していくことができれば、相談者もカウンセラーに対して
- この人なら信頼できるから辛いことが話も相談できる。
- 私のことを理解しようと努力しているから話がしやすい。
と安心できることから、悩みを打ち明けようという気持ちになるのです。
同情はというと、相手の辛さや苦しさに寄り添うそうという所は共通していますが、相手の辛さをしっかり想像することを怠ったり、苦しさを相手の立場ではなく自分の立場を基準にして考えているという特徴があります。
相手に寄り添うまではいいものの、想像力が足りていないために、ただの寄り添うフリになってしまう、相手に理解を示すフリになってしまうことがあるために同情はネガティブな意味を持つのです。
相手の気持ちをうまく想像できないかったり、想像に自分のバイアスが掛かってしまうことから、意見のズレやよそよそしい雰囲気を作ってしまい、相手に不信感や反感を抱かせてしまうのです。
同情して反感を変われる原因
例えば、仮想通貨や金融商品に手を出して損をしてしまった人に対して「今回大損したけど、なんとか借金は避けられたからよかったやん」と、相手を励まそうと同情の意を示しても
- どこか相手を哀れみの目、かわいそうな物を見る目で見ている感じがして辛い
- 借金うんぬんじゃなくて、大損した辛さがわかってもらえなくて辛い
- 正論で且つ前向きな意見を言われても、余計に苦しさを感じてしまう
などの意味が込められてしまうと、たとえ善意であっても反発したり、ついカッとなってしまうことがあります。
もちろん、ギャンブルだけでなく何か悲しく辛い場面を誰かにわかってもらいたいときにはよくあることです。
失恋した時に「辛いけどそのうちいい人が見つかるよ」と無責任な希望の言葉を言ってしまう。
受験に失敗して浪人が決まった時に「また来年頑張ればいいんだから落ち込んだらあかんよ」と、もっともな事を言ってしまう。
どちらも優しく思いやりのある言葉ですし、打ち明けてくれた事に対して励まそうとしているのはわかるものの、結果として相手の悩みや辛さから話を逸らし、辛さを受け止めようとしない態度がただの安い同情になっていると感じて、反感を抱かれてしまうのです。
共感するのが難しい理由
悩んでいる人の助けになりたい、誰かと良好な人間関係を築きたいという時に同情ではなく共感をすることは大事です。
恋人や家族といった親密な間柄に限らず、友達や仕事仲間、先輩、後輩などのあらゆる人間関係にも共感を示すことは大事です。
しかし、共感は文章で書くほど簡単にできるものではないことは、なんとなく感じているのではないでしょうか。
簡単ではないゆえに、共感ではなく同情に陥ってしまったり、共感も同情も示さず相手と一定の距離を置いて変に期待させないようにしてしまう人もきっとおられると思います。
自分の内面をさらけ出すのには勇気がいる
誰かと共感して相手と仲良くなる、自分の心を開くというのはとても勇気のいることです。
ここでいう勇気とは
- 自分の言いにくい過去を言って周囲に引かれてしまわないだろうか
- 自己責任や努力不足だと言われて、誰にも共感されないのではないか
- そもそも言いにくい事だからこそ、誰にも言わず自分ひとりで抱え込むべきではないか。
という不安を抱えながらも、自分の内面を晒すことへの勇気を指します。
内面を打ち明けるというのは、自分を理解してもらえるチャンスである一方で、相手にとっては知りたくなかった一面を見せてしまったり、悩みを悩みとして受け入れてもらえず軽く流されてしまい失敗に終わるリスクもあるのです。
「自分の内面を晒せば相手と通じ合える」というのは確かにその通りではありますが、さらけ出した内面を受け取る人の気持ちや感情はコントロールすることはできないので、「必ず」相手と通じ合えるとは言えないのです。
それゆえに自分の内面を晒すのは勇気のいる行動なのです。
他人の辛い気持ちに共感するのは自分も辛くなってしまうことがあるから
だれかの辛い事に共感しようとする場合、話す方だけでなく聞く方にも精神的な負担がかかります。
話す内容によっては、自分が見聞きしたくないことであったり、自分の辛い過去を思い出したり、見たくないものと向き合うことが必要になることもあります。
相手の苦しみに対して共感したいけど、共感していくうちに自分も辛くなってしまうことからつい無責任にも希望のある言葉や、悩みを矮小化してしまう言葉をいってしまうこともあるでしょう
例えば、
- 確かに辛いだろうけど、最悪の状態と比較すればマシだよね。
- もっと辛いことで悩んでいる人がいるけど、地球全体で見ればそんなことちっぽけなことだよ
- 発展途上国の恵まれない子供達と比べたら、あなたの悩みなんて大したことないよ。
と、相手の立場や状況を無視した気休めや、安い同情と取られてしまいかねない言葉がいい例です。
決して悪意だけではなく、辛い気持ちをなんとかしたい、相手の助けになりたいという善意から共感を示そうとするにしても、相手の辛さを想像していくことは決して楽とは言えません。
想像していくうちに、自分まで辛くなってしまったり、相手にも落ち度がなかったのではと考えて自分の視点で相手に指摘をしてしまうのもよくあることです。
共感と同情に関連する心理学用語
公正世界仮説
公正世界仮説とは、「いいことをすればいいことが起きる」「悪いことをすれば悪いことが起きる」という、この世界は公正であるという仮説のことです。
辛い話を聞いて共感していく過程で、「やっぱりあなたにも責任や落ち度があるのでは?」とつい言ってしまうのは、自分が無意識のうちに世界は公正であるという仮説を信じており、話を聴けば聴くほど仮説が揺らいでしまうから、つい相手の話を否定してしまうのです。
「世界は公正なんだから辛いことが起きるのは相応の理由があるに違いない」という思い込みがあると、相手の辛い話に共感する過程で辛いことが起きる相応の理由を探して結論付け、「何の脈絡もなく辛いことが起きるわけがない」と思いたがるのです。
親和欲求
人は辛い時やストレスを感じると、孤独を避けて誰かと一緒にいたいという欲求が強くなります。
これを親和欲求と呼び、誰かに共感して欲しいという気持ちを持つのも、親和欲求が影響しているとみることができます。
不安な時に人恋しくなるのは、自分のメンタルが弱いからではなく親和欲求が強く働いているとも言えるのです。