ひねくれた性格は、一般的には好ましいものとして見られることがないことは、社会生活を送る中で多くの人が実感しているものだと思います。
- 他人の話に対してやたら否定的である。
- 物事を素直に受け取ろうという姿勢がない。
- 他人の幸せや成功を頑なに喜ぼうとしない。
- 集団よりも自分を優先してチームワークに欠ける。
など、ひねくれている性格の人によく見られる行動は、円滑な集団生活や人間関係の和を乱ししたり、余計な衝突を招くリスクがあるために、煙たがられるのもごもっともだと思います。
今回は、そんなひねくれた性格の人が嫌われる原因や背景について、お話しいたします。
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「効率のよいコミュニケーションこそ正義」という考えがひねくれ者への嫌悪感を招く
ひねくれた性格を持つ人が嫌われる根底には、コミュ力が重視される世の中となり、より効率的でストレスフリーなコミュニケーションこそ正義である、という考えが広まっている事が影響しているのではないかと感じます。
もちろん、相手と円滑なコミュニケーションをする上では、自分ばっかり話し続けて相手を無視するとか、相手の意見に対していちいちツッコミを入れて話の腰を折ってばかりでは、いつまでたっても会話が進まず、非効率なコミュニケーションでお互いに疲弊するのは明白です。
もちろん仕事の人間関係に限らず、友達、恋人、家族のような情緒的な結びつきのある人間関係でも、お互いに疲れを感じたり、妙な緊張感がある居心地の悪い関係にならないためにも、ストレスフリーなコミュニケーションすること自体は、なにも問題はないでしょう。
しかし、コミュニケーションに効率を求める考えは、一方でコミュニケーションで相手に余計なストレスを与えてしまう人に対する嫌悪感を招いてしまう。つまり、コミュニケーションコストが大きい人と代表格である「ひねくれ者」は、ストレスフリーなコミュニケーションができない絶対的な悪として見られてしまうリスクもあります。
ひねくれ者が嫌われる理由はコミュニケーションのコスパの悪さ
- 会話に対して疑問やツッコミをせず、なんでも聞き入れる姿勢を持つ。
- 回りくどく意地悪な言い方をせず、シンプルかつコンパクトな話し方をする。
- 話相手に余計な緊張感やストレスを抱かせないだけの、雰囲気や明るさを持っている。
など、会話そのものが効率的で滞りなく進められることや、話し相手に対してなるべくストレスや疲労を与えないことができれば、「この人はコミュニケーションにかかるコストが小さくて話しやすい」として、好意的に見られるものです。
しかし、ひねくれている人のように、話を途中で遮ったり、チームワークを乱す人は「この人はコミュニケーションにかかるコストが大きくて疲れるし、めんどくさい」として、否定的に見られるのです。
もちろん、話すのがめんどくさいと感じてはいても、そのめんどくささ以上に見合うもの(例:知識や見聞、話の面白さ、人脈・人望…など)を会話から得ることができれば、コストの大きさ対する不満はそこまで気にならなくなるものです。
しかし、ひねくれている人との会話は、ただただコストが大きくて話が滞ったり、遮られたりで進歩が遅い。加えて、話の内容が面白くもなければ、知識や見識など得られるものがあるわけではなくて不毛に感じる。場合によっては、自分の意見に対して否定的な意見をそれとなくぶつけるという、余計な緊張や対立を招くようなこともあるものです。
ひねくれている人は、コミュニケーションにかけるコストは大きいが、それに見合うものは提供できていない。乱暴な言い方になるのは承知ですが、非常にコスパの悪い会話をする人間というレッテルを貼られるからこそ、嫌われるのだと考えられます。
なお、ストレスフリーなコミュニケーションができて且つ、会話から得られる内容や満足感が大きい人は、コスパの良い会話をする人として、高評価を得られます。
あるニュースを堅苦しく専門用語を用いて解説するアナウンサーよりも、同じニュースを簡単な言葉で図表やイラスト、場合によっては豊かな表情も交えて解説する池上彰氏の方が好印象を得ているのは、ストレスフリー且つ話の質・量共に優れている話し方をしているからだと、分析することもできます。
コミュニケーションに効率を求める考えが生む問題
ひねくれた人はコミュ力が重視される現代…それも、いかに相手に余計な疲れやストレスをかけさせず、合理的なコミュニケーションが「おもてなしの精神」や「気遣い力」のように良いものとして重視される現代において、話すだけで相手を疲れさせてしまう絶対的な悪として見られてしまうように感じます。
確かに、回りくどく堅苦しい話し方や、皮肉っぽい意地悪なトークをするぐらいなら、空気を読んで、周囲の顔色を伺い、それに応じて適切なキャラを演じて、流れるような会話を楽しむ方が、効率よく相手との関係を深めることができるでしょう。
長くて退屈でオチが見えない校長先生の朝礼を聞くよりは、YouTuberのように話のリズムやテンポを重視して間(ま)をカットし、内容をコンパクトにまとめてオチもしっかりある話し方ほうが、聞く方も飽きを覚えず且つ伝えられる短時間でより多くの情報量を得られます。
また、文通からメール、メールからLINEやtwitterなどのSNSが発展してきたこと。そしてSNS内でも、文字ばかりの長文よりも、絵文字やスタンプ(場合によってはクソコラ画像も含む)のようにタップ一つで簡単に会話できる方法が尊ばれるのも、コミュニケーションに効率を求める考えの強さが浸透していることの象徴と言えるでしょう。
しかし、コミュニケーションに効率を求めることは、言い換えればコミュニケーションそのものが没個性化してしまうリスク、そして、非効率的なコミュニケーションをする人に対して排他的になるリスクがあります。
コミュニケーションそのものの没個性
こうしたコミュニケーション効率を求める考えは、見方を変えればコミュニケーションそのものが、どこかままごとをしているような演技臭くて空虚なもののように感じたり、所詮自分は円滑なコミュニケーションのために動いているだけの、誰ともで代替可能な駒の一つのように感じるといった問題を生む原因とも思います。
確かにストレスフリーで効率的なコミュニケーションは、すうっと耳に入りやすいものですが、その話し方、話のテンポ、ノリや雰囲気、言葉の選び…などが、どこか他の人でも聞いたようなもののように感じて、没個性的なものに見えてしまうことがあるものです。
確かに聞きやすい話ではあるものの、聞いた話が右耳から左耳にそのまま抜けていくかのように、内容が残らない。何か引っかかるものもなければ、心に刺さるものもない。自分の耳がしっかり聞こえていることは確かではあるものの、その耳から聞く言葉や内容、目で見る相手の様子などが、どうしても印象に残らないというか、どこかで見たようなものに感じてしまうことに息苦しさを抱く原因になります。
また、自分の意見や主張を強く出すことは、言い換えれば相手に余計なストレスを与えてしまうリスクがあり、コミュニケーションの効率を重視する考えを持つ人達(自分も含む)からは敬遠されてしまいます。
後述するように、コミュニケーションに効率を持ち込む考えは、同時に効率を無視したコミュニケーションをする人に対する、偏見や排他的な態度を生んでしまいます。
非効率的なコミュニケーションをする人に対する排他的な姿勢を生む
独善的な立場ではなく、他人や集団のためになる良いこととしてコミュニケーションの効率を重視することが評価されているために、非効率なコミュニケーションをする人(ひねくれている人、コミュ障の人など)への排他的な態度そのものを問題視できなくなるリスクがあります。
自分達の価値観に対する偏りを無視し「コミュニケーション効率が悪い人は周囲に迷惑をかけているのだから、問答無用で改善すべきだ」と、高圧的且つ排他的な態度をとることそのものを「集団の正義」として正当化してしまう危うさがあります。
自分たちが持つ価値観や考えが偏っていないか、本当に今のままで問題ないかという懐疑的な姿勢を放棄した挙句「ひねくれている人が全部悪い」と決めつけてしまう態度は、自分の価値観が揺らぐ不安を感じずに済む一方で、もしも自分が「ひねくれている」と集団から見られたときに、集団から強い拒絶されてしまうリスクもあります。
もしも、自分が所属している集団のパワーバランスや人間関係に変化が生じて、それに対応できなくなって自分が集団からひねくれ者と見られたら、今まで自分が向けていたひねくれ者に対する視線を今度は自分が受けるハメになります。
もちろん、人間関係の変化以外にも、心身の老いや衰え、病気などにより、他人と効率よく関われなくなった場合も、同様の視線を受ける可能性があります。
ひねくれ者のように非効率的なコミュニケーションをとる人と見られた以上、自分は価値観に守れられる側ではなく、価値観から攻撃を受け排除の対象となるリスクがあります。
そのリスクを棚に上げて、コミュニケーションに効率を求める考えを推進することには疑問が残ります。
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なお、余談になりますが、ひねくれている人の評価が悪いのは、その人の人格に原因があると考えたがる心理は、なんとなく被害者を叩く心理、つまり公正世界仮説に通ずるものがあると、書いていて感じた次第です。
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