SNS上で「しかるねこ」と呼ばれるアカウントがここ最近話題になっています。
しかるねことはその名の通り「叱る猫」のことであり、twitterで活動をしているアカウントです。
その内容は、可愛らしくゆるさを感じる猫のイラストと一緒に「○○しなさーい!」「まだ○○してないの?」と、叱るメッセージを添えられたものになっています。
最近では書籍化やグッズ化などの展開もされており、その人気は高まっていますが、一方で
- 押し付けがましく叱る態度が気に食わない。
- 叱ってばかりで全然可愛くない。
- キツイ言葉ばかりで見るのが辛い。
- 単純にイライラさせるので、しかるねこ嫌いだ。
などの、(いわゆるアンチ)コメントもそれなりに見つかっています。
ゆるい見た目のキャラクターとは異なり、添えられるメッセージはかなり過激なものであり、ファン・アンチの賛否両論出るのはごもっともなキャラクターだと感じています。
なお、しかるねこは(好意的に解釈すれば)昔ながらの頑固親父や肝っ玉母ちゃんというキャラクターの系譜だと捉えることもできなくはないと感じています。
かくいう筆者も、しかるねこに限らず叱る芸風や怒り芸、キレ芸などの類はあまり好きではありませんが、ここではその芸風云々について掘り下げるのではなく、叱ることに関する諸々の苦手意識やその心理について、お話したいと思います。
目次
叱る人から感じる危うさ
「未熟な人やミスがある人を叱って立派な人に育て上げたい」と感じること自体は自然だと思います。
学校や会社などで教育に携わっている人であれば、心身ともにしっかり育て上げることが求められる仕事ですし、厳しく叱って指導することで周囲から感謝されるような指導者になりたいと感じるのはごもっとも思います。
しかし、叱るという行動は社会的に求められ、認められることが多い行動でもあるために、一歩間違えれば相手をマインドコントロールに繋がったり、自分の利益のために他人の考えや行動を操作することにもつながっても、それが悪いことだと自覚できないどころか、賞賛されてしまうことがあります。
以前書いた「飴と鞭の指導方法に関する心理学と問題点」でも触れたように、人間は褒める(飴)と叱る(鞭)をうまく使い分ける事で、指導対象となった人を、自分の思いのまま動くようにコントロールすることができてしまいます。
もちろん、その結果立派な人になれば問題ありませんが、ルール違反をルール違反と思わないような思考を叱る過程で植え付けてしまえば、日大アメフト部のタックル騒動のような事態になることも考えられます。
ただ怒り狂うのとは違い「叱る」というより社会的に認められている行為も、その叱り方を間違えれば叱った人の人生を狂わせてしまうリスクがある。
もちろん、叱る相手がいい大人なら「それこそ自己責任なんだから気にすることではない」という意見もあろうかと思いますが、その意見に間に受けて自分の叱り方を見直す機会を設けないことへの危険性は、もう少し知られてもいいのではないかと思います。
叱る人から感じるありがた迷惑さ
叱るという行為は社会的に認められることが多い行動なためあってか、つい余計なお世話やお節介、ありがた迷惑だと感じるまで頻繁にしつこく叱る人を生む原因にもなります。
仮に、自分の私利私欲や個人的なストレス解消のためであっても、それを「叱る」という行動を隠れ蓑にして行えば、表面的には私は自分以外の誰かの成長や将来のために叱ることができる人間だとアピールしつつも、自分の個人的な欲求を満たすこともできます。
しかし、このような叱り方にはどうしても、叱る側の気持ちや事情を無視した自分勝手な言葉や考えの押しつけに偏りやすく、また指摘しようものなら「せっかく叱っているのに反発するのか」と火に油を注ぐことになるので、非常に面倒くさいものです。
あからさまに自分の浴や我を押し通すのではなく、あくまでも「叱る」という社会的に認められやすいことを利用した、ずる賢い方法で自分の欲求を解消しようとすることが叱る人に感じる違和感やモヤモヤの原因になるのです。
「叱ってくれる人がいることに感謝しろ」という言葉の違和感
相手の話も効かず、ただ一方的に叱るだけ叱り倒した後に「これだけ叱ってくれる人がいるんだから感謝しろよな」という言葉や態度も、叱る人に対する違和感の原因だと考えられます。
これは、新社会人や学生の頃に「叱ってくれているうちが華」「叱ってくれていることはそれだけ期待しているに違いない」と叱られているという受け入れるのに苦痛を感じる事実を、なるべくソフトに受け入れようと考え方を変えて乗り越えてきた経験から来るものだと感じています。
実際に、「あなたならできる」「君は頑張ればやれる人なんだ」という期待やハッパをかける目的として、あえて褒めるのではなく厳しく指導することはよくあります。
また、以前は叱られていたのに、あまりにもミスが続きすぎたせいですっかり呆れられる、叱られることすらされなくなった経験のある人からすれば「叱ってくれるうちが華」という言葉が、まさにその通りだと感じるのも自然なことでしょう。
しかし、そのような一方的に叱られた経験で苦労とした人が、いざ人を指導する側に立った時に、自分が受けてきた一方的な叱り方をして、また同じような苦しみの連鎖を生み出してしまうことがあります。
しかし、叱る立場になったとしても時分が過去に受けてきた嫌な叱り方を繰り返すのに、何かしらの抵抗感や嫌悪感を感じて「本当にこの叱り方でいいのだろうか」というモヤモヤとした気持ちや違和感、良心の呵責、矛盾、葛藤を抱くことがあります。
そんな葛藤を解消し、自分の叱り方はあくまで正しいものだと確認するのに便利なのが「叱ってくれる人がいることに感謝しろ」という言葉だと見ることができます。(=自己正当化)
この言葉で自分を正当化し、叱ることが正しいこと、感謝されることだと納得できれば、たとえ自分の叱り方がどんなに一方的で拙いものだとしても、その行為は正しく周囲から感謝されると感じて、堂々と叱れるようになります。
…なお、一方的に叱るだけ叱り方は、
- どうしてそのミスが起きたのか。(原因の調査)
- どうしたらそのミスが防げるのか。(再発防止策を練る)
の2つが疎かになることがあり、叱った相手を公正させたり再発防止のためから見れば、あまり効果的とは呼べません。
また、一方的に叱ることもあり、ただ自分の思い込みや理想を相手に押し付けるだけになり、その押しつけに対して相手にウザさや嫌悪感をより強く抱かせる原因にもなることがあります。
このようにやたらと叱って誰かを良い方向へ導きたがる心理に関しては以前書いた「メサイアコンプレックス 困っている人をやたら助ける人に感じる違和感について」でも触れていますので、興味があれば読んで下さい。
叱られ慣れていない人を自然と見下していないか?
しかるねこを取り巻く状況についてSNSで調べていくと、
- アンチになるような人は叱られ慣れていない人。
- アンチはストレス耐性が無い人。
というような、叱られ慣れていない事そのものに対する意見がいくつか目に入りました。
これについて感じたのは、叱られ慣れていない人を見下すことで自分のストレス耐性への強さをアピールしたい人がひょっとしたらいるのではないか、という事です。
叱られた経験を乗り越え、そのことで自信を獲得してきた人からすれば、ちょっと叱られたぐらいですぐへこたれる人を目撃すれば、嫌悪感を抱くのは自然な事だと思います。
しかし、叱られ慣れていないからといって、必ずしもその人が勉強や仕事の面で劣っているとは限りませんし、叱る以外の指導方法によって自分の実力をメキメキとつけて行ける人であれば、叱られ慣れていないことが必ずしも致命的な悪材料になるとも言えません。
また、叱られ慣れていないということは、それだけ普段から叱られるようなアホみたいな行動をしていない人。つまり頻繁に叱られることがないほど、立派で模範的な生活を送っているとも見ることもできるので、果たして見下せるほど格下の存在なのかという疑問も出てきます。
また、人間は叱られることを含めてストレスに対して無限に耐えられるものではありません。
ストレス耐性が強いければ、そのタフさを評価されることはあるにしても、ストレスに対してうまく処理したり、溜め込み過ぎないように調整する技術(=ストレスコーピング)は、ストレス耐性を語る上では欠かせない事だと思います。
どうしてもストレス耐性の話になると「どれだけ辛いことに我慢できるか」という我慢比べに陥りがちです。
そうなるとストレス耐性の低い人が脱落してしまうだけでなく「ストレスは我慢するもの」という考え方が強まり、ストレスの上手な処理の仕方が分からず身につかず潰れてしまうリスクがあります。
もちろん、今まで自分が我慢してきた経験を無駄にしたくないという気持ちをわかりますが、かといって、その我慢を誰かにも強いて道連れにしようとしたり、我慢以外の方法でストレスを乗り切ろうとする人を見下すと、巡り巡って自分がストレスで苦しんだ時に、自分の過去の行動や言葉のせいで強い葛藤を抱くことになるのではないかと思います。
その他、しかるねこに関する心理学の知識・雑学など
心理的リアクタンス
「勉強しなさいと言われれば逆に勉強する気をなくす」というような現象を、心理学では心理的リアクタンスと呼びます。
しかるねこのように「○○しなさい」と口うるさく言われても、返って○○する気が起きず堕落してしまうことも考えられると、叱って公正させることの難しさ、逆にダメ人間を生んでしまうことがあるという皮肉を感じます。
認知的斉合性理論
認知的斉合性理論とは、自分の認識と周囲の認識とを一致させようとする心の働きのことです。
- 自己評価が高い人は周囲に自分のことを高く評価する人を置く
- 自己評価が低い人は周囲に自分のことを低く評価する人を置く
という現象が、認知的斉合性理論のいい例です。
しかるねこやツンデレキャラのように、自分を悪く言う人やキツく当たる言葉を言う相手を好む人は、それだけ自己評価が低く過度に自分を褒め称える人よりも貶す人の方が安心感を得るので、根強いファンになるのだと考えることもできます。
DVの緊張期・爆発期・開放期
DV(ドメスティックバイオレンス)を振るう人は、いつも暴力が暴言を振るうのではなく、普段は大人しかったり、DV後に反省して優しさを見せることがあります。
DVには緊張期・爆発期・開放期の3つのサイクルがあり、このサイクルのせいで相手のDVが愛情表現なのか、それともただ怒りを爆発されているだけなのかわからなくなることがあります。
頻繁に叱る人もいつも叱っているわけではなく、たまに優しさ労わる様子を見せたり、今まで叱ってきた借りを返すためにご褒美やプレゼントをしてチャラにしようとすることがあります。
なお、DVが優しい時期と怒る時期を繰り返す現象については、「DV(ドメスティックバイオレンス)のサイクル 緊張期・爆発期・開放期について」で詳しく解説していますので是非ご覧下さい。