嫌なことを断れない人の心理とその背景について

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みんながやりたがらない嫌なことを頼まれてつい引き受けてしまう。

そんな優しい性格…しかし、見方を変えれば押しに弱くお人好しな性格で複雑な思いを抱えたり、生きづらさを感じる場面をよく見聞きします。

例えば、本当はルール違反や反則行為でありやってはダメだとわかっているのに、立場が上の人からの「やれ」という命令に逆らえず、結果としてルール違反に手を染め自分の人生が閉ざされてしまう…

そんなことが日大と関学のアメフトの試合で起きた一連のタックル騒動、および会見の映像を見ていて感じた今日この頃でございます。

もちろん、「一人前の大学生なんだから嫌なことぐらい断れなくてどうするんだ」という、手厳しいごもっともな意見を言う人いるでしょうし、なんでもハイハイと命令通りに従うばかりでは、スポーツにしろ仕事にしろある程度までは出世するけど、根本的には指示待ち人間なので伸び悩むのだという意見にもある程度頷けます。

しかし、「嫌なことを断れない」という状態は、何も断れない本人のみの問題として自己責任論で処理していいものではありません。

また、「どうして嫌なことが断れないまで精神的に追い詰められていたのか」という視点に基づいて背景や原因について分析していくことは手間こそかかりますがやるべきことだと感じます。

今回は、そんな最近のニュースも踏まえて、嫌なことを断れない人の心理やその背景についてお話いたします。

嫌なことを断れない人に見られる自己評価の低さ

嫌なことを断れない人に見られるのは、自己評価や自己肯定感が低く、自分に対して無理難題で嫌なことを押し付けてくる人、自分のことを大事に扱わない人に対して安心感を覚えてしまうことがあります。

こう書くと、天邪鬼な性格、ひねくれている性格の人と思われがちですが、自己評価の低い人にとっては、自分のことを褒める、優しくしてくれる、高く評価してくれる人は「自分のことをちゃんと理解していない、本当はそんな評価できる人間ではないのに…」と感じて、遠ざけてしまいます。

逆に、自分のことを雑に扱ったり、無理難題を押し付けてくる人には「こんな惨めな自分にふさわしい損な役回りを与えてくれる人だから、この人は自分のことをよく理解している」と感じることで安心感を覚えるのです。

自己評価の高低にあった人に安心感を覚える現象は、心理学では認知的整合性理論とも呼ばれており、自己評価の高い人は自分のことを高く評価してくれる人を、自己評価が低い人は自分を低く評価する人と相性がよく、関係を深めてしまうのです。

モラハラの被害者になったりDVを振るう相手と離れられなかったり、ブラック企業のように自分の安全を脅かす集団にのめり込んでしまうのも、自己評価の低さと自分への雑な扱いが一致しているために起きるもの言えます。

もちろん、自己評価が高すぎると意識高い系のように理想と現実のギャップに苦しんだり、その姿の滑稽さがネタになってしまいますので、適度な自己評価を持つことは嫌なことをしてくる人に精神的な依存をしないためにも大事です。

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「イエス」と言わせるための心理学が悪用されて断れないなくなるケース

嫌なことを断れない人は、他の人や集団からイエスという声や、同意、同調、肯定の態度を示してしまうように働きかけられていることも考えられます。

実際に仕事で契約を取りたい、気になる相手とデートの約束をしたい、という願望があるときに何とかしてイエスという言葉を言わせる…そんな方法が心理学に関する本やブログ、SNSでは多く見つかります。

この手のイエスと言わせるための方法として代表的なものをまとめました。

クライマックス法・アンチクライマックス法

契約を取るために心理学の知識を応用して使われる話の展開の仕方です。

クライマックス法は、結論に導くためのデータや根拠、例などを先に述べて、そのあとに結論(つまりオチ)を言う話し方であり、自分が話す話題に興味がある人の場合、話すうちに引き込まれて行きつい勢いでイエスと言ったり、肯定的な態度をとってしまうのです。

しかし、クライマックス法は最初から話に興味のない人には効果が薄く飽きられてしまうという特徴があります。

一方でアンチクライマックス法は、最初に結論を述べることで、とにかく話題に興味を持たせてからデータや根拠、例へと話をつなげていく話し方です。

アンチクライマックス法はクライマックス法と比較するとインパクトが強調されやすく、そのインパクトの強さ故に自分に関係のない話題でもつい反応してしまいがちです。

そして反応してしまったら、そのことを材料にされ「興味があるんですよね」と詰め寄られ、つい断れず相手のペースに押されてしまうのです。

返報性の原理

返報性の原理とは、相手から感謝の気持ちや好意を受けると、その分相手にお返しをしたくなるという心の働きのことです。

人は他人から施しを受けっぱなしでは「なんだか自分ばかり高待遇を受けて申し訳ない」「他いいことをしてもらったんだから、自分もお返しをしないと落ち着かない」という気持ちになります。

例えば、

  • バレンタインで(義理であろうと)チョコを受け取ると、お返しをしたくなる。
  • スーパーで試食をすると、買わないと申し訳ないと思ってつい買ってしまう。
  • 初対面の人に優しく接してもらったらか、自分も優しく接しようと感じる

などの、施しに対するお返しをすることで、お互いの貸し借りを解消しスッキリした気持ちになろうとするのです。

しかし、返報性の原理は「お返しをしなければ」という気持ちが強く働く人に取っては精神的なプレッシャーとなり、お返しをしないことに罪悪感を感じることがあります。

また、その罪悪感を逆手に取り施しを行った側が、断れないような要求を突きつけたり、契約や取引を迫るという目的で悪用されることもあります。

やたらと人に優しく何かと感謝の気持ちを伝えたり、物を提供をしてくる人に感じる妙な気持ちは、この返報性の原理からくる計算高さが正体とも言えます。

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飴と鞭による教育

教育法・指導法として有名な「飴と鞭」。これは使い方を間違えると指導を受けた人をマインドコントロールし、嫌なことでもイエスを言わせて考え方や行動をコントロールする原因にもなります。

例えば、

  • 嫌なことをしなければ鞭(罰)が与えられる。
  • 嫌なことをすれば飴(報酬)が与えられる。

という、飴と鞭の使い方をすれば、嫌なことをすることを引き受けてしまうどころか、嫌なことをすれば安心感や充実感が得られるということを学習してしまいます。

もちろん、最初から嫌なことをすんなりと受け入れたり、反則行為だとわかっているだけに例え指導者の指示だからとはいえ反発を示すこともあるでしょう。

しかし、反発を示したらその反発に対して罰を与える。

例えば、

  • 叱責や暴力
  • 冷遇する
  • 悪評を流す
  • 「将来どうなっても知らないよ」とほのめかす

などの罰を与えることで「反発すれば罰を受ける」ということを学習し、嫌なことが断りにくくなるのです。

また、「指示に対して反発せずに受け入れた」という事実が一度できてしまうと、それを材料にされ、その後反発するようなことが起きても、「この前は反発しなかったのに今回は反発するのか?」と説得することができてしまいます。

こうなると、ますます「反発すれば罰を受ける」という考えが強固なものになり、嫌なことであって断りづらくなります。

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断れない人を責める声が更に断れなくしてしまう

「実は嫌なことを断れなかった経験があった」という話を打ち明けた時に、

  • 嫌なことを断れなかったあなたにも落ち度があるのでは?
  • 違反行為に手を染めたのに、見苦しい言い訳でもするつもりか?
  • 言い訳してもあなたの罪を犯した事実は消えるわけではないよね?
  • 共犯関係なんだから連帯責任を取るべきだ

という、せっかく打ち明けた人の主張を打ち壊して、被害者を叩いてしまう人が出てしまうことも、断れない人が断れない(そして、誰にも相談できなくなる)状況を作り出す原因の一つです。

相談した人は確かに断らずに違反行為に手を染めて誰かを傷つけたことから、加害者の立場として振舞うことや罪を償うことが求められます。

ですが、今回の日大のアメフト騒動のように、集団や組織の命令により違反行為に手を染めざるを得なかった、つまり集団や組織の犠牲になった被害者の立場でもあることは見逃せません。

しかし、大抵の人は、「加害者であるこの人は見方を見れば被害者でもある」という二面性のある複雑な事実には気づきにくく、また加害者なんだからやっぱり落ち度はあるものだし反省すべきだという考えをしてしまうものです。

心理学ではこういった悪いことをした人は、何かしらの落ち度や責任があると考えてしまうことを「公正世界仮説」と読んでいます。

一般的に言う良い人は善行や努力をしているに違いない。逆に、一般的に言う悪い人は人には言えない後暗いことや狡いことをしているに違いないという具合に、この世は因果応報や信賞必罰に基づいた公正な世界であるという考えが、嫌なことを断れず引き受けてしまった人へのプレッシャーとなっているのです。