暴力や暴言、無視、仲間外れにする、能力を無視した過剰な練習をするように強制する、圧力をかけてルールを無視するように命令する…などの行き過ぎた指導は体育の授業のみならず、部活動でも禁止されています。
ですが、今年に起きた日大アメフト部のタックル事件のように、部活における行き過ぎた指導は依然として残っているのが現状です。
体罰により、多くの人がストレスを抱えたり、ときには精神的に追い詰められスポーツそのものから脱落してしまうケースも少なくありません。
また、体罰に関して調べていると、
- 「こんなのは体罰とは呼ばない」
- 「これぐらいの体罰なら部活動なら当然である当たり前である」
と言う、体罰を肯定するコメントがリアル・ネット問わず見聞きすることがあります。
そして驚いたことに、体罰を肯定するOBやOGという引退した人やいわゆるお年を召された方だけでなく、現役の部員や比較的若い人でも口にしていることが多いということです。
体罰はよくないことであると考えていたり、体罰そのものの是非を問う声が上がっている一方で、比較的年齢が若い人、または現役の学生自身が体罰に肯定的な意見を持っている…その心理について今回はお話しいたします。
「部活道で体罰は当たり前」と感じてしまう心理の裏にあるもの
体罰を受けていた過去が無駄ではなかったと思いたい
体罰を肯定する人に多いのが、過去に自分も体罰を受けてた経歴を持つ人です。
実際に部活動ではスポーツ科学に基づいた合理的なトレーニングが必ず行われる…と言うわけではありません。
場合によっては、部の伝統と言う理由でやらなくても良い雑用を押し付けられたり、シゴキの名目で、先輩や指導者から暴力・暴言を一方的に受けてしまい心身ともに傷を負うことがあります。
特に、体育会系の部活動であれば軍隊のように上位下達で年齢による上下関係は絶対と言うルールを基本として人間関係が構築されていること影響しています。
下級生は上級生と指導者から理不尽な仕打ちに耐えることと引き換えに、部活動における自分の居場所を与えられるということもあります。いわば、一種の通過儀礼として、部活内で体罰が行われると見ることもできます。
…そんな、辛く苦しかった体罰を受けた過去が「やっぱり無駄であった」「別になくてもそれほど影響がなかった」と認める事は、言い換えれば今までの自分の我慢や努力を否定することになるので簡単に認めることができません。
認めてしまえば、自分自身を否定することになるので、つい感情的になり「体罰を肯定する」という結論ありきの考えになります。
そして、自分以外の他人の体罰に対しても体罰を肯定する意見を口にしてしまうのです。
先輩・指導者への恩があり、たとえ理不尽な指導でも肯定すげきであるという心理
体罰を振ってくる先輩や指導者が、いつも自分を痛めつける極悪人であるとは限りません。
また、体罰にも強弱があり、比較的激しい体罰をする日もあれば、それほど激しくない体罰をする日もあります。
- 部活以外では大人しい人だった
- 日によっては軽い体罰の日も会った
と言う、比較的穏やかな人であったと言う一面も知っているために、体罰を振るう人を否定する気にはなれないと言う気持ちがあるのです。(体罰する時点で穏やかではない人だという疑念は残りますが…)
また、特に技術的なものだけでなく、メンタル面での指導をしてもらったと言う経験があると、たとえ体罰を振るう人の指導であっても、体罰はダメと認めるのは難しく感じます。
なぜなら、体罰を否定することは、指導者自身だけでなく、その指導者の指導を受けてきた自分自身をも否定することになるので、どうしても肯定しようとする心理が働くのです。
ましてや、メンタルと言う自分らしさや性格と言う、自分の内面を自分で否定するのは強く避けたいと感じてしまい、よくも悪くも自分を守るために体罰を肯定しようとするのです。
「厳しさには愛がある」という思い込みによる体罰の正当化
体罰を肯定する人がよく口にするのが「あの体罰には愛があったから問題ないんだ」と言う台詞です。
厳しさの中にも愛があると言う考えは、部活動だけでなく仕事の人間関係や親子関係でもよく見られる変え方です。
一見すると「体罰」と「愛」の決して相容れないもののように見えるでしょう。
厳しい指導であっても内心は先輩や指導者のことを尊敬しており、慕っている人の場合、
- 気持ち : 相手のことを好意的に見ている
- 現実 : 実際は体罰を振るわれて好意は感じ取れない
と言う、気持ちと現実の矛盾に直面することになります
このような矛盾に直面した時、人間は矛盾を嫌い解消しようとする心理が働き、自分の感じ方や考え方を歪めようとします。(=認知的不協和の解消)
その常套句としてあるのが「体罰は愛である」と言う言葉です。
「体罰=愛」と結びつけることで、体罰を振るう相手の行動に(錯覚かもしれないけど)好意を見出し、気持ちと現実との矛盾を解消しようとするのです。
もちろん、愛の他にも、
- 自分の至らなさを指導してもらっている
- 厳しく見えるけど優しさがある
- 私の将来のことを考えてあえて厳しくしてもらっている
と言うように体罰を行う相手への認知を歪めることで、なるべく現実と気持ちとの矛盾を起こらないようにするのです。
このことは心理学では認識不協和理論と呼ばれており、ブラック企業に愛社精神を見せ貢献したがる人や、DVをするパートナーに対して愛情を感じ取って尽くしてしまう人にも見られる現象といえます。
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集団心理が体罰に対する認知を歪めている
部活動は集団で行われるのが一般的です。そのため、集団心理が働くことで冷静さを失ってしまったり、罪悪感や責任感が薄れてしまうことがあります。
また、集団心理が働くと人々は道徳観やモラルが欠如してします。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」というブラックジョークにもあるように、ひとりでいる時と違って乱暴な行動をすることにためらいがなくなります。これは体罰でも同様で、体罰という暴力的な行為を行うことに対する抵抗感が薄れてしまいます。
冷静に考えれば、他人に対して暴力や暴言を行うことは道徳的に考えれば慎むべき行動ではありますが、集団心理が働くことで規範意識が薄れてしまい簡単に手を出してしまうことになります。
このようにして、体罰に対する抵抗感が薄れると、体罰そのものが異常なものであると認識できなくなり、体罰に対して肯定的な意見を持ってしまうのです。
「体罰に異を唱えてはならない」という同調圧力によるもの
内心は体罰に対しておかしいと思っていても「正直に体罰を否定する意見を言ってはいけない」と言う同調圧力が強く働いていることもあります。
もちろん、体罰が行われている状況をどうにかしたいと思う事は間違ってはいませんが、そのために体罰に対して異を唱える事は、集団の和を乱すリスクがあるので、言いたくても言えないと言う心理なのです。
もしも、体罰を否定する意見を述べてしまえば、他の部員からバッシングを受けたり、自動車に目をつけられて怒りの矛先が自分に向かう可能性も否定できません。
そのほかにも
- 部活動における自分の居場所がなくなる。
- OBやOGの面目をつぶしてしまう
- 他の部員に迷惑をかけてしまう
- 指導者に迷惑をかけてしまう。
- (自分の進路に関わる場合)進路を諦めなければいけない。
などのリスクがあり、困っていても周囲に打ち明けることができない、気軽に相談できない現実があります。
「体罰に異を唱えてはいけない」という同調圧力の中で育ってきたことは、その後の考え方にも影響を及ぼし、体罰を暗黙の了解として認める意見や体罰を肯定的な目で見てしまうことにつながります。
生存バイアスによるもの
過去に体罰を受けてきたものの、我慢して乗り越えたことで体罰が行われる凄惨な環境を生き延びてきた人が、体罰に対して肯定的な意見を持つことがあります。
このことは生存バイアスで説明できます。
生存バイアスとは、ある環境や状況を乗り越えて生き延びてきた人や物を基準にするために起きてしまう考えの偏りのことを指します。
体罰の場合であれば、そもそも体罰に耐えられない人は部活動をやめたり、脱落して部活からいなくなることが考えられます。
そして、体罰に耐えられるだけのメンタルがある人や、体罰を体罰だと感じない人のように、体罰への耐性がある人ばかりが部活動に残ってしまうことで、同調圧力が高まり体罰に対して異を唱えにくくなることがあります。
また、場合によっては体罰が原因で亡くなってしまう人もいるかもしれません。
しかし「死人に口無し」と言うことわざにもあるように、亡くなってしまった方が実際に体罰について論じることは不可能です。
体罰を肯定的に見るとは、言い換えれば体罰と言う過酷な環境乗り越えるだけのタフさを持っていた人といえます。
ですが、そのタフさが万人に共通する当たり前のものだという考えは、あくまでも体罰をものともしない特徴を持った人たちの間でのみ通用する考えであり、体罰により脱落した人、あるいは命を落としてしまった声なき人の声を無視しているため、バイアスのある偏った意見と言うこともできます。
スポーツをしている人はハラスメントに甘いというデータも
以前書いた「スポーツをしている人はハラスメントに甘くなってしまう スポーツの世界とパワハラの関係」でも触れていますが、スポーツをしている人はセクハラやパワハラなどのハラスメントに甘くなってしまうという日本で行われた研究の結果が出ています。
この研究では、指導者である年配の人よりも、現役の選手である若年層の方がハラスメントに対して寛容な姿勢を示しているという、にわかに信じがたい結果も出ています。
セクハラやパワハラに対する認識の甘さと、体罰に対する認識の甘さは決して無関係なものではないと感じています。
とくに若年層でハラスメントに寛容な傾向が出ているということは、その世代が指導者になった時にハラスメントに対する認識の甘さゆえに問題を起こすリスクがあるのではないかと考えることもできると言えるでしょう。
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