やたら他人に対してコミュニケーション能力(=コミュ力)を要求してくる人の中には、実は自分はコミュニケーション能力がお世辞にもあるとは言えない。(むしろコミュ障と言われるても否定できないほどのコミュ力しかない)
しかし、不足しているコミュ力を自分で補うことで対処するのではなく、他者にコミュ力を要求する方法によって、コミュニケーションを成り立たせているのではないかと感じることがあります。
他人に対してコミュ力を要求することから、さぞお手本となる立派なコミュニケーションをなさる人なのかと思えば、どうも双方向且つ円滑なコミュニケーションとは呼べるものではない。
相手に対してああしろ、こうしろとコミュニケーションに関する要求をするものの、その要求は相手の立場、事情、感情などを無視して、いつも要求を出す自分の視点が基準となっているものが目立つ。
まるで相手に対して一方的に「自分に対してコミュ力を発揮しろ」「私の意図していることをきちんと察して!」という自己中心的な一面が感じ取れる。そのため、「ひょっとして、コミュ力を要求している人の方が実はコミュ障なのではないか?」…と思うことがあります。
こうした、ぱっと見ではよくわからないものの、他人に対してやたらコミュ力を求める人こそ、実は真のコミュ障なのかもしれません。
他人にコミュ力ばかり求めてくる人の例
- 自分やその場の空気が求めている話題をするように期待をしてくるが、実際にどういう話題をするべきかは具体的に提示しないし、指示も出したがらない。
- 挨拶や礼儀などを求めてくるものの、自分は挨拶や礼儀がきっちりできているとは言えず自分を棚に上げている。
- 他人に対して理解しやすい内容や説明を求めてくるばかりで、多少難しい話題であっても自分から勉強して理解しようとする姿勢は見られない。要するに相手の会話レベルに自分を合わせようとしない。
- 逆に自分が専門的な話しをする場面になった場合、相手の視点に立って「どうしたら伝わる話し方ができるのだろうか?」という事を考えることすらせず「相手が自分の考えを理解できるようんに努力すべきだ」と伝えるための努力を放棄した、独りよがりな説明になる。
- 相手の視点に立てていない不十分な説明のための、質問が来ることが多い。しかし、質問に対する返答をするときでも「これぐらい理解できるでしょ?」「なんでわからないの?」と、相手の視点に立てていない一方的な返答になってしまう。
など、円滑なコミュニケーションをするために欠かせない相手の立場や感情などに理解を示すことすらせず、自分勝手で一方的な要求を突きつけて、コミュニケーションを図ろうとすることです。
アニメ「あたしンち」の父から見る他人にコミュ力ばかり求めてくる人
なお、他人に対してコミュ力を求めてくる人の例として、個人的にしっくりくるのがアニメ「あたしンち」の父です。
作中での父は、無表情、無口、マイペースで独特な行動を取るキャラとして描かれています。その独特なキャラゆえに、父の考え・主張・感情などは母が仲介しなければほかの家族には理解できないものとして描かれています。自分の伝えたいことを伝えるための努力をかなり放棄した言動をするユニークなキャラとして描かれています。
中でも、アニメの最初の方のエピソードで、母に対してご飯やお茶のおかわりを無言で求める(一応茶碗を差し出す行動はしているが…)父の行動は、他人に物を頼む態度としてはあまりにも説明不足であると同時に、母に対して自分の意図を理解するように暗にコミュ力を要求している行動とも感じます。(なお、この行動は一言喋ればすぐ済むことなのに、それすらしない父のめんどくさがりな性格をアピールするための演出とも解釈可能です)
もちろん、フィクションなのでこうした行動は脚色されて笑いを誘うためにされている行動だと解釈もできますが、これと似たように相手に忖度を求めるような行動は、日常生活の中で多いものだと思います。
「あれとってくれ」と指示代名詞で他人にお願いをする。「あの話どうなっているの」と漠然とした言葉で質問してしまう…など、普段自分が何気なく口にしている言葉の中に、知らないうちに相手にコミュ力を要求しており、相手を混乱させていることは決して珍しくないと思います。
求められたコミュ力が出せないと他人をコミュ障扱いするコミュ障な人
他人にコミュ力を求めてくる人は、自分がコミュニケーションを行えているのは、自分に関わる人の努力によって、結果として成り立っていることに自覚できないことが目立ちます。
コミュニケーションがキャッチボールに例えられるように、コミュニケーションはどちらか一方が自分の要求ばかりを主張してボールを投げるor受け取るのでは成立しません。
投げる側は受け取る側の力量をしっかり考えて投げなければいけませんし、受け取る側も投げる側の力量をしっかり考えて受け取らなければ、弾むようなキャッチボールは成立しません。
他人にコミュ力ばかりを求める人は、キャッチボールでいうのであれば受け取る側の力量を無視した暴投を繰り返す人と同じです。(逆に受け取る側なら、投げる側の力量を無視して「ここに投げなさい」と一方的な指示をしてくる人とも言える。)
もちろん、暴投なのでキャッチするのは難しいですし、受け取る側の力量に合わせてコントロールする必要性があります。
しかし、その努力すらせず「このぐらいボール頑張ればキャッチできるでしょ?」と、あくまでも自分のやり方を変えようとしない態度が他人にコミュ力ばかりを求める人に目立ちます。
加えて、キャッチボールがうまくいかなくても、その原因は相手にあるものと処理し、自分には落ち度がないと考えてしまうため、進歩が見られないのです。
話をコミュニケーションに戻せば、コミュニケーションがうまくいかない理由を相手に見出し、相手がコミュ障であると見なして厳しく叩く。
しかし、その実態は自分がコミュニケーションをする相手の立場を無視した、自分本位な話し方をしているだけである。つまり、自分の方コミュ障なのです。
他人をコミュ障扱いするコミュ障が存在している理由
他人をコミュ障と見なすコミュ障が存在している理由は、両者の関係に立場差があることが影響していると考えられます。
- ものぐさな性格で説明不足が目立つ上司と、不足している分を自分の努力でカバーする部下。
- 部活にて指示を出すのが下手な先輩と、下手な指示でも持ち前の飲み込みの早さでカバーを補っている後輩。
のように、立場が下の人間が、立場が上の人間の怠慢に対して不満を訴えにくい上下関係から成り立つ関係だと、他人をコミュ障扱いしてしまうコミュ障な人の横暴っぷりが維持されてしまいます。
場合によってはこうした横暴に耐えることこそ日本人の美徳である…というような、自己犠牲を尊ぶ価値観により、美化されてしまう。
こうした背景があって真のコミュ障とも言える、他人にコミュ力を求めるコミュ障な人が、依然として居座り続けているのだと考えることもできます。
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