聞かれてもいないのに「実は俺(私)コミュ障で…」と、コミュ障だと自称する人に対して、本当にコミュ障で悩んでいる人は非常に強い嫌悪感を抱くものです。
これは、ぼっちの人が「俺(私)ぼっちじゃないですか?」と気さくに話しかけられると、妙に腹が立つのと同じで、人が非常に気にしているコンプレックスを、あたかもファッションや話題のネタとして軽く扱われていることに対して、強い憤りを覚えているといってもいいでしょう。
また、自称コミュ障の人の行動を追っていくと…
- 自称している割には全然コミュ障らしい特徴やコミュニケーションの不慣れさが見えてこない。
- コミュ障だと最初に言っておくことで、コミュ障なのに普通に話せるという自分を良く見せる効果を狙っているように感じる。(=セルフハンディキャッピング)
- コミュ障だと言っておくこと、自然と周囲に配慮をさせて自分が話やすい環境を作り上げている。
など、(自称している本人は無自覚かもしれませんが)小賢しさを感じさせるものもあります。
今回は、そんな自称コミュ障の人に感じるウザさや嫌悪感の正体について、詳しくお話いたします。
目次
「コミュ障を自称している」のに実は会話上手なことにイラッとする
自称コミュ障に対するウザさで多いのが、コミュ障とおっしゃる割には、普通に会話ができてノリも良くて、いろんな人とコミュニケーションができているということ。
要するに、全然コミュ障じゃないのにあえてコミュ障を名乗っている、不誠実さに対して不満や憤りを覚えるのです。
もちろん、本人の中では人から気づかれないだけで、ひょっとしたらコミュ障である要素があるかもしれませんし、よく喋るタイプのコミュ障もいるので、コミュ障だと自称することが嘘や出まかせではないことも考えることはできます。
しかし、頻繁に「俺(私)コミュ障なんですよ~」と、気さくに話しかける光景そのものが、最初から「自分はコミュ障ではありませんよ」と言っているように見えてしまうのです。
コミュ障であると最初に述べている時点で、既に普通に会話ができておりコミュ障を否定している言行不一致さが、自称コミュ障に対する不信感やいらだちの原因とも言えるでしょう。
本当にコミュ障で人と話すことに多大な精神的苦痛や悩みを抱いている人からすれば、軽々しく「コミュ障」と言って、普通に会話ができている人と言うのは、まるで自分の悩みを否定されたかのように感じる、コミュ障をネタにして煽られているような気持ちになるので、強い不快感を覚えるのです。
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自虐風自慢としてコミュ障を使うのでうざい
自虐風自慢とは、自虐ネタを話すものの、それが自虐にならないどころかむしろ自慢になることをさします。
自虐風自慢は、ストレートに自慢すれば角が立つリスクがある人間関係において、自虐を装った自慢をすることで同情や共感を誘いつつ、自慢したい欲求を満たせるという、高度なコミュニケーションのテクと言えます。
ただし、自虐風自慢においてただ「コミュ障」単体を自称することは、どう考えても自虐にしかならず自慢にはなりません。(どれだけコミュ障であるかを競う場でもあれば別だが…)
そのため「コミュ障+何かの属性」という組み合わせにより自虐風自慢を可能にします。
(例、簡単な自己紹介で「コミュ障」を用いる場面)
- 「コミュ障なのに彼女(彼氏)がいます」 (コミュ障+恋人がいること)
- 「イケメン(美人)だけどコミュ障なのが悩みです」 (コミュ障+容姿のよさ)
- 「スポーツ・筋トレが趣味なコミュ障です」 (コミュ障+スポーツができる・運動神経が良い)
上の例を見てもわかるように、コミュ障は恋人がいること、容姿のよさ、運動神経が良いことなどの、セットになる属性の引き立て役です。
この文脈では、コミュ障は単なる悩みやコンプレックスではなくファッションとして身に付けるアイテムの一つです。
ただ恋人がいる云々いうよりも「コミュ障」と自虐を挟むことによって、恋人がいる自分をより魅力的にアピールすることが可能になるのです。
しかし、コミュ障を引き立て役に使うプロフィールは、コミュ障のみで悩んでいる人に対しては強い劣等感を与えてしまいます。
恋人がいるのにコミュ障と名乗ることで、恋人がいないコミュ障が嫌悪感を覚えるように、コミュ障というコンプレックスを使った自虐風自慢は、普通の自慢よりもコミュ障に悩んでいる人を深く傷つけてしまう恐れがあります。
予防線として「コミュ障」を多用する小賢しさ
コミュ障を自称し予防線を張っておくことは
- もしも会話が失敗した場合は「コミュ障って言ってたから、仕方ないよね」と周囲の過度な失望を防ぎつつ、自分の心理的なダメージを軽減できる。
- もしも会話が上手く行った場合「コミュ障なのにしっかり話せるので、まるでコミュ強っぽい」と周囲が自分を過大評価することが見込める。同時に自分は満足感や優越感を味える。
と、どちらに転んでも自分にとって好都合な状況に持っていくことが可能です。
これを心理学ではセルフハンディキャッピングと呼び、あえて自分を不利な状態(この場合はコミュ障を自称すること)に追い込むことで、その後の状況を好都合なものに変えていきます。
こうして見ると、セルフハンディキャッピングは美味しいとこばかりで、やらなきゃ損なように見えてくるかもしれません…。
しかし、予防線を貼り続ける行為そのものは
- 真剣味が感じられない。
- 言い訳がましい人。
- 余計な一言が多い人。
と、自分の印象を下げてしまうことを招きがちです。
もちろん、セルフハンディキャッピングのトリックを知っている人が見れば、予防線を張ることで自分をよく見せようとする小賢しさを見抜かれたり、小手先のテクに頼り正々堂々さが見られない小物っぽい人と思われしまうこともあります。
自分を大きく見せるためのテクが、かえって自分の小物っぽさを露呈するオチになるとは、なんとも皮肉なものです。
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コミュ障を自称して配慮を求める図々しさ
先にコミュ障と自称しておくことで
- コミュ障だから会話が下手なのは多めに見てください。
- コミュ障だから友達とか恋愛に関するネタはふらないでください。
- コミュ障だから優しく接してください。
と、それとなく相手に配慮を求めることが可能です。
人よっては触れたくない話題や言いたくないことの一つや二つはあるものですが、そのことを細かく説明するわけではなく「コミュ障だから…」と自称する方法で遠回りに配慮を求めている図々しさが鼻につく原因なのです。
そして配慮を求めてくる割には、自称した本人は相手に無配慮なままズケズケと込み入った話を聞いてきたり、あたかも自分が配慮されるのは当然と言うかのような態度を取ることが、自称コミュ障の対するイメージの悪さにつながるのです。
相手に対して配慮を求めているのに、自分は誰かに対して配慮することなく自分勝手に振舞う傍若無人っぷりが「自称コミュ障はウザい」と思わせる原因なのです。
コミュ障を名乗るものの改善する気配が見えずモヤっとする
コミュ障を名乗るものの、それを改善するとか気をつけるとか治していくとかの姿勢が見えないので、聞くたびにモヤモヤとした気持ちになります。
コミュ障で悩んでいるような素振りを見せつつも、実際はコミュ障な自分を改善するわけでもなく、コミュ障を自称するメリットを享受しつつも、他人に対して無配慮で自分勝手な行動をやめられない。
もちろん、無配慮なことを自覚しており、それがコミュ障で悩んでいるという素振りに出ていることも考えられますが、結局はコミュ障な自分を反省するフリはしつつも何もしない怠惰な姿勢が、反感を買っているのです。
「コミュ障で悩んでてそれなりに反省や後悔はあるけど、でも改善したり改めたりする気はないよ」という開き直りや自己正当化は、自称コミュ障に限らず忌み嫌われる行動と言えます。
仕事において「謝罪はしますけど、改善や再発防止はしません」と態度で示す人に感じるウザさと同じです。
…ただし、自称しているだけのコミュ障なので、本当はコミュ障ではない可能性もあります。
また、上で触れたようにファッションとして使う場合だと、そもそも改善してしまえばファッションアイテムとしてのコミュ障が使えなくなるために「改善する」という、思考に至らないことも考えられます。
セルフハンディキャッピングとしてコミュ障を使う場合も、改善してしまえば予防線を封じ込めたノーガード状態で会話をすることになる、その不安を考えればこれも「改善する」という思考には至りにくいものです。
こうして考えると、自称したコミュ障は最初から改善のために言い放ったものではなく、あくまでも自分を良く見せるためであったり、失敗した時のショックを和らげるものとして使われているものと見たほうが、余計な気遣いや気苦労をしなくて済むように感じます。
しかし、(自称であっても)「コミュ障でして…」とけられた以上は、その言葉に対して下衆な勘ぐりをすることは、自称だと確定していない時点では相手にとってたいへん失礼です。
もしも自称ではなく本当にコミュ障だった場合には、「最初からひねくれた目で見すぎている」と非難されることもあるでしょう。
こうしためんどくささを無自覚うちに与えていると考えれば、自称コミュ障はやっぱり他人の気持ちに疎くて配慮が乏しいので、真正のコミュ障のようにも思えてくる今日この頃です。
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