「ぼっちはメンタルが強い」説に対する考察

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孤独な人の事をネット上では「ぼっち」と呼びますが、その様子は孤独という耐え難い苦痛に耐えうるだけの強靭な精神力を持っている…なんて風に語られることも、あるかと思います。

…もちろん、「ぼっちはメンタルが強い」という言説が、ぼっちの人が自身を奮い立たせるために放った自分で自分を励ましつつ、よけいにぼっち以外のポジションに移りづらくなるという皮肉を招いている事も考えられます。

今回は、そんな「ぼっちはメンタルが強い」説について、お話し致します。

ぼっち(孤独)の状態の分類から見るメンタルの強さ

まず、ここでいう孤独な状態とは、

  • 単純に一人であること (例:一人で家にいる、自分以外に周りに誰もいない)
  • 集団から孤立して一人であること (例:学校のクラスで浮いているものの、一応クラスの一員として籍を置いている)

と言った、両方の孤独な状態を含むものとします。

一般的に、前者の孤独は気楽なものであり、他人の視線という多くの人が気にすると同時に人間関係の煩わしさの原因となるものから開放されるという魅力があります。

もちろん、気楽とはいえ、誰もそばにいない状態であるために、人恋しさ、寂しさ、不安など、孤独だからこそ感じる不安と無縁なわけではありません。

また、後者の方は周囲に人がいるのにもかかわらず、その周囲から受け入れられていないことで孤独を感じている、周囲から「あの人は浮いてて、ぼっちだね」と、恥ずかしい人、寂しい人、かわいそうな人という否定的なニュアンスを持った「ぼっち」であると見られる苦痛が待っています。

前者とは違って周囲に人は存在しているため、人恋しさや寂しさを感じることこそ少ないですが、周囲から孤立していることに対して自己嫌悪に陥ったり、ぼっちという恥ずべき存在とみなされていることに対して苦痛を感じることは避けられないものです。

双方とも感じる苦痛の内容こそ違いますが、どちらも精神的な苦痛を感じるという点ではぼっちであることは決して楽なものではありませんし、その苦痛を避けるためにも、ぼっちになることを回避しようとするものです。

しかし、こうした苦痛を感じつつも、その状況を受け入れてぼっちの状態で居続ける人は、普通の人であれば、人恋しさや恥ずかしい人とという視線で押しつぶされそうになる状況に耐えうるだけの精神力や図太さがある…と解釈が可能である。

つまり「ぼっちはメンタルが強い」という説は、確かなものであると表現できます。

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フロム『自由からの逃走』から見る「ぼっちはメンタルが強い」説

ぼっち(孤独)な状態とメンタルの強さに関連深いものとして、ドイツの社会心理学者のエーリヒ・フロムの著書『自由からの逃走』に書かれている内容を参考にして分析していきます。

『自由からの逃走』は、過去の世界大戦に大きな影響を及ぼしたファシズム(結束主義)を、社会心理学の観点から分析しています。

ファシズムと言えば、ヒトラーのようなカリスマ的な指導者が大衆を扇動したものであり、大衆は指導者の口車に乗せられた被害者である、という見方がされるものです。

しかし、この本では、むしろ大衆の方が望んで熱狂的なカリスマ指導者を、そしてファシズムを渇望していたので受け入れた、という説が展開されています。

この説の背景は、近代以前が封建的な身分制度、伝統的な絆(地縁、家柄と言った方がいいかも)という窮屈で自由の欠片もない時代である。

そして近代になって、それらから開放され、文字通り自由を手に入れたものの、その自由を謳歌するのはあまりにも荷が重すぎる。

伝統から開放されて自分の考えや生き方を自由に決められる分、その自由を行使した結果として起きる結末は自分で引き受けなければいけない。(=要するに、自己責任を背負う必要性がある)

また、地縁や家柄という人間関係の煩わしさから開放されるものの、かつてそれらから得られていた絆のような暖かい人間関係は当然手放すわけになるので、孤独に苦しむことはある程度覚悟しておく必要がある…と、決していいことづくめではありません。

そうした「自由」であるがゆえに起きる苦痛を避けるためにも、大衆の一員として溶け込み、伝統や権威あるものにすがり、そして自分のすべき事をなんでも決めてくれるカリスマ的な指導者にのめり込み、自分で考えや生き方を決める自由から文字通り逃げ出す人々の心理が、ファシズムをより強める結果になったと分析されています。

『自由からの逃走』をざっくりまとめると

  • 自由には孤独がつきものである。
  • 自由であるがゆえに背負うべき責任、孤独な状態だからこそ感じる不安があるからこそ、避けようとする心理が働く。
  • たとえ不自由になろうとも、孤独に苦しむぐらいなら集団の一員として溶け込む方を選んでしまう。(…仮にそれがファシズムのようなものだとしても)

となります。

この本の背景には、第二次世界大戦というある種の非日常的な状況がありますが、それを無視しても、自由から逃れて集団の一員になることで、自分が背負うべき責任を回避する心理は、日常生活でよく見られるものだと思います。

親や先生、友達や先輩などの特定人物の声から、世間や常識と言ったぼんやりとした人たちの声を聞かずに、自分の意思で進学や就職などのその後の人生を大きく左右する選択をしようものなら、それに対してバッシングを受けたり「自分で自由に生きるんだから、自己責任でね」と、冷ややかな対応を受けることになります。

また、自ら選んだ自由な生き方ではあるものの、いわゆる敷かれたレールと表現されるような生き方とは違うために、理解や共感を示す人が少ない。そして、孤独からくる人恋しさや好奇の眼差しにより恥ずかしさを味わうことも想像できるでしょう。

そうした自由だからこそ起きる孤独、そして孤独からくる不安に耐え、せっかく手にした自由から逃げ出さないメンタルをもっているので、ぼっち(孤独)を受け入れている…と考えると、確かに「ぼっちはメンタルが強い」と表現できます。

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「~からの自由」&「~への自由」と孤独

なお、『自由からの逃走』では

  • ~からの自由:ネガティブな自由
  • ~への自由:ポジティブな自由

という、二種類の自由について書かれています。

前者は、伝統、地縁、家柄などの社会に存在しているルール、常識、制約の類から自由になることを、後者は自分自身がなりたい自分へ近づく事を指します。

現代の日本人であれば、士農工商のように一度決まった身分をずっと引き継ぐこともないですし、住む場所も結婚する相手も自由に選べるので、ネガティブな自由は獲得していると考えるのが妥当です。

しかし、ポジティブな自由はというと、皆が皆やりたいことや好きなことばかりで生活が立てられるわけでもないし、そんな生き方は注目されるかもしれないが、理解者が少なく孤独に苦しむ。

「好きなこと」ばかりに身を投じた結果、堕落した大学生の生活のように、自分を統制できなくなる不安がある。

また、「憧れの自分になりたい」と努力しても、その憧れの自分に自分が”いつ”なれるのかという不安と向き合わなければいけない…と、獲得することが難しいために、手にしていない人が多いものと感じます。

こうした不安と向き合うことが出来ないからこそ、多くの人は伝統、地縁、家柄などの集団に溶け込み、その一員として生きることを選びます。

集団に所属し、集団のルールに則って生きれば、わざわざその集団から外れて自分で何もかも決めて背負う辛さから開放されるからこそ、集団の一員として生きようとすることは、ごく自然なことでしょう。

そうした生き方に優劣を付けるつもりで述べているのではありませんが、集団という安心できる居場所と距離を起き、孤独を選び続けることは、多くの人ができないことだからこそ、メンタルが強いという言説を生んで語られているのかもしれません。

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